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扉を開けた瞬間、アレックスの研究室は予想以上の光景を見せてくれた。


質素な身なりの彼からは想像もつかないほど、部屋は整然と整理されていた。朝の陽が大きな窓から惜しみなく差し込み、作業台に並ぶガラス器具の数々が美しく光を反射している。フラスコやビーカーは大きさごとに整列され、試験管立ては色とりどりの溶液で彩られていた。一見しただけでも、相当高価な実験器具の数々。おそらく、全てが最新鋭のものだろう。


壁一面には黒板が設置され、そこには複雑な化学式が整然と書き連ねられている。途中で試行錯誤したような跡も見えるが、それすらも美しい軌跡のように感じられた。窓際の作業台には実験ノートが几帳面に重ねられ、それぞれに日付と実験内容を示す付箋が貼られている。その傍らには、アトランティア共和国の科学雑誌が積み重ねられていた。


「どう?小さいけど、僕のお気に入りの場所なんだ」


アレックスは誇らしげに室内を示す。その表情には、純粋な科学への愛情が溢れていた。濃紺の瞳が輝きを増し、まるで大切な宝物を披露するような嬉しさが滲んでいる。


「実は父がね」彼は少し照れくさそうに続けた。「アトランティアの貿易商なんだ。まあ、新興財閥と呼ばれるくらいには成功している。本当なら家業を継ぐはずだったんだけど…」


アレックスは黒板に向き直り、複雑な化学式を指差す。「僕にはどうしても追求したい研究があってね。うちの国は実力主義だから、親も最終的には理解してくれた。貴族制度のあるセインティアとは違って、アトランティアでは身分より実力が全てだからね」


まだこの世界の国家関係を十分に把握できていない俺は、さりげなくエミリオに視線を向けた。完璧な執事の立ち居振る舞いを崩すことなく、彼は小さく頷きを返す。


「アトランティア共和国は、西方の大洋を挟んだ新興国でございます。貴族制度を持たず、商人や実業家が国の実権を握っていると聞き及んでおります。海洋貿易で急速に発展し、その自由な気風と進取の気性は科学技術の発展にも向けられているとか」


エミリオの解説に、俺は内心で納得する。この世界におけるセインティア王国とアトランティア共和国の関係は、まるで古い伝統と格式を重んじる欧州諸国と、新しい価値観で発展するアメリカのような対比を思わせた。


「両国は活発な貿易関係にありながらも、その国民性は対照的と言えましょう」エミリオは更に小声で続ける。「我が国が貴族社会の秩序を重んじる一方、アトランティアは豊富な資金力を背景に、より自由な社会を築いているようです。特に科学技術の分野では、伝統に囚われない革新的な研究が進められていると…」


その説明は、アレックスの存在を良く説明していた。古い体制の中で、新しい風を吹き込むように彼は研究に没頭している。質素な身なりながらも最新鋭の実験設備を備え、貴族の権威など意に介さない態度。それは全て、彼の母国の気質を体現しているのかもしれない。


アレックスの饒舌な説明は、その間も続いていた。彼の濃紺の瞳は、純粋な科学への情熱で輝いている。二つの国の懸け橋となるような研究者。その存在は、この学院にとっても貴重なものに違いない、と俺は思った。


「これが僕の最新の研究なんだ」


彼は中央の作業台に置かれた装置を指差した。ガラスの管が複雑に組み合わされ、その中を薄い青色の液体が流れている。最新鋭の実験器具は、アトランティアから取り寄せたものらしい。


「化学反応の新しい触媒理論について研究していて…実はこの反応経路が、従来の定説とは全く異なる可能性を示唆しているんだ。もし成功すれば、工業生産のコストを大幅に下げられる可能性がある」


熱心に説明する彼の姿からは、生まれながらの実業家というより、純粋な科学者としての情熱が感じられた。家柄や身分に囚われない、アトランティアならではの自由な精神が、その研究への姿勢にも表れているようだった。


「もちろん、理論を実証するにはまだまだ実験が必要だけど…」アレックスは実験装置を調整しながら、嬉しそうに続けた。「この学院には素晴らしい研究環境がある。特に卿の研究室では、最先端の理論に触れることができる。僕にとっては、この上ない環境なんだ」


「ただ…研究に没頭して成果をだしているだけなのに、こちらのお貴族様がそれが気に入らない様子でね」「だから先ほどの…」「あぁ、おかげで助かったよ」


その時、廊下から複数の学生たちの話し声が聞こえてきた。


話し声が聞こえてきたのは、アレックスが実験装置の説明をしている最中だった。


「ねぇ、聞いた?白衣の幽霊の話」 「ああ、今度は西棟の深夜だって?」 「マジかよ…俺、明日の夜間実験で西棟に行かなきゃいけないんだけど…」 「気をつけろよ。あいつ、壁をすり抜けるらしいぜ」


二人の学生の声は、足音と共に廊下の向こうへと消えていった。アレックスは実験器具から顔を上げ、困ったように笑う。朝の陽が窓から差し込み、彼の実験室の精密機器を淡く照らしている。


「最近、よく聞く噂なんだ」アレックスは苦笑しながら言った。「でも、科学者の端くれとして、そんな非科学的な話は信じていないけれどね」


「幽霊は私も信じてはおりませんわ」俺は淑女らしく微笑む。「ですが、このような噂話は往々にして、現実に起きた何かしらの出来事が源になっていることが多いのです」


アレックスが興味深そうな表情を浮かべる。濃紺の瞳が、科学者特有の好奇心で輝いていた。


「失礼、私趣味で探偵をしておりまして」背後でエミリオが小さく咳払いをするのを感じながら、俺は続ける。「その噂、もう少し詳しくお聞かせいただけませんか?」


「探偵…?」アレックスは一瞬驚いたような表情を見せたが、すぐに科学者らしい分析的な目つきに戻る。「まあ、確かに噂の出所を論理的に追究するというのは、科学的な思考に近いかもしれないね」


彼は実験台に寄りかかりながら、記憶を辿るように目を細める。「幽霊の噂自体は学院の歴史と共に古くからあったんだ。首のない騎士だとか、古い図書館に出る女性の霊だとか…」


「でも、この白衣の幽霊は新しい」アレックスは真剣な表情で続ける。「最初に聞いたのは確か一週間ほど前。深夜の西棟で白衣を着た人影が目撃されたという話が広まり始めてね」


「最初のうちは、熱心な研究者が夜遅くまで実験をしているのだろうと思われていた。でも…」彼は言葉を選ぶように間を置く。「壁をすり抜けるような動きをしたとか、振り返ると忽然と姿を消していたとか。そんな不可解な目撃証言が次々と出てきて…」


「西棟とおっしゃいましたが」俺は出来るだけ自然に尋ねる。エミリオの特訓の成果を活かし、令嬢らしい物腰で質問を重ねる。「何か特別な場所なのですか?」


「ああ」アレックスは窓際に歩み寄り、外を指差した。石造りの古い建物が、朝もやの中にぼんやりと浮かび上がっている。「あそこが西棟だよ。この学院で最も古い建物の一つでね。今はほとんど使われていない実験室が並んでいる」


「なぜ使われていないのです?」


「設備が古いからね」アレックスは説明を続ける。「新しい実験棟が建設されてから、多くの研究室が移転していった。今は物置と化した部屋も多いし、薄暗い廊下は確かに…幽霊が出そうな雰囲気かもしれない」


白衣の幽霊の話をしながらも、科学者らしく懐疑的な笑みを浮かべるアレックス。しかし、その濃紺の瞳の奥には、僅かな不安の色が混じっているように見えた。何か、自分でも説明のつかない体験をしたことがあるのだろうか。


「そうだ!」突然、彼が声を上げる。「せっかくだから、他の実験も見ていってほしいんだ。こっちの試薬の反応が特に面白くて…」


アレックスが実験台の向こう側に回り込み、試験管立てを手に取る瞬間を見計らって、俺は静かに机の端に指を伸ばした。机に無造作に置かれたノートに触れた瞬間、過去視の力が働き、鮮明な映像が浮かび上がる。


——深夜の実験室。アレックスが一人、ランプの明かりの下で実験ノートに向かっている。


窓の外の暗闇を、白い影が音もなく横切る。


「誰か…いるのか?」


彼が顔を上げ、窓際まで歩み寄る。月明かりに照らされた中庭で、白衣の人影が歩いていた。その動きには何か不自然さがあり、足音一つ立てない。アレックスが目を凝らして見つめる中、人影は西棟の壁の前で立ち止まった。


そして——壁に吸い込まれるように、すっと消えていく。


アレックスの表情には、科学者としての理性では説明できない現象を目の当たりにした戸惑いが浮かんでいる。研究に没頭していた彼の瞳には、今や不安と困惑の色が宿っていた。窓の向こうには、ただ月光に照らされた西棟の壁が静かに佇んでいるだけ——


俺は慎重に手を離した。なるほどな、アレックスも確かに"何か"を目撃していたのだ。しかも西棟の方角で。彼は口に出してはいないが、あの夜見たものが、今も心に引っかかっているのかもしれない。


その時、エミリオが絶妙なタイミングで咳払いをした。


「お嬢様、そろそろお時間です」その声には、執事らしい慎重な配慮が込められていた。


「えぇそうね」俺は淑女らしく立ち上がる。「アレックス様、本当に興味深いお話をありがとうございました。これから父の研究室に参りますので…これで失礼いたしますわ」


「もう行ってしまうのかい?」アレックスの声には純粋な残念さが滲んでいた。「でも、また来てくれると嬉しいな。まだ見せたい実験がたくさんあるんだ。それに…」


その時だった。


つんざくような悲鳴が、廊下から響き渡る。


「きゃあああっ!!」


エミリオが反射的に俺の前に立ち、庇うような姿勢を取る。アレックスも実験器具から手を離し、表情を引き締めた。


「行ってみましょう」 俺は既に扉に向かっていた。エミリオが「お嬢様!」と制止の声を上げるが、足は自然と事件のある方向へと向かっていく。


(全く…) 研究室を後にしながら、俺は内心で苦笑する。前世でもよく言われたものだ。野神が歩けば必ず事件が起きると。どうやらその傾向は、この世界の少女探偵になっても変わらないらしい。朝の陽が差し込む廊下を、三人の足音が急いで駆けていった。



毎日12時更新予定です。

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