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王立科学学院の廊下は、朝の陽が高窓から差し込み、石造りの床に幾何学模様の影を作っていた。父の研究室に向かおうとした時、俺とエミリオの耳に怒声が飛び込んできた。
「いい加減にしろ!!」 「そう言われましても…」
角を曲がると、二人の学生が向かい合って立っていた。一方は質素な服装の痩せた青年、もう一方は高価な生地のスーツに身を包んだ貴族らしき学生だ。
「身分をわきまえろと言っているんだ、平民風情が!」貴族の学生が鼻で笑う。「第一席の座を汚されては困る。お前のような下賤な身分の者が…」
「へぇ」質素な服の青年は、むしろ愉快そうに微笑んでいる。「成績は実力で決まるものだと思っていましたが。それとも、貴族という身分だけで何かが証明できるとでも?」
「おのれ…!」
貴族の学生の表情が歪み、拳を振り上げる。エミリオが一歩前に出ようとした時、俺は既に動いていた。
相手が振り下ろした腕を受け止め、重心を崩し、関節を極める。淑女の振る舞いなど忘れ、探偵時代に身につけた逮捕術が体を動かしていく。
「っく!」 貴族の学生が膝をつく。その姿は高慢な態度からは想像もつかないほど惨めだった。
組み伏せながら、さりげなく相手の服に触れる。過去視の力が働き、映像が浮かび上がる。 ——高級レストランの個室。若い令嬢と密会する貴族の息子。しかもその相手は——
「あまり暴れない方が賢明ですわ」俺は耳元で囁いた。「先週末のレストラン、素敵なお相手でしたわね。でも、お相手は既婚者でいらっしゃるのはご存じですわよね」
「な…!」学生の顔が青ざめる。「ど、どうして、それを…」
「ここだけの話にしておいて差し上げますわよ?いかがしますか」ぎりと腕を締め上げる「わ…わかった!わかったから黙っていてくれ…」
腕を解放すると、彼は尊厳も何もかも忘れたように、逃げるように立ち去っていった。その背中が廊下の向こうで小さくなっていく。
「助かったよ!」
先ほどまでの緊張が嘘のように、青年の声は明るく響いた。質素な服装をしているものの、その佇まいには何とも言えない品格があった。濃紺の瞳は知的な光を湛え、整った顔立ちは貴族のようでもあり、どこか庶民的な親しみやすさも感じさせる。アカデミックな雰囲気と飄々とした態度が絶妙に混ざり合った、不思議な魅力を持つ青年だった。
「僕はアレックス・フォスター。化学科の学生だ」
彼は紳士的に軽く会釈する。その仕草には自然な優雅さがあり、決して気取った様子ではない。
「君は…えっと、学生さん?それとも見学かい?」アレックスは好奇心に満ちた表情で俺を見つめる。「いやそれにしても、すごかったよ君の技!かっこよかった!!」
その声には率直な賞賛が込められていた。恐れや軽蔑の色は微塵もなく、むしろ純粋な興味のような響きだった。科学者らしい観察眼で、目の前の珍しい現象を分析しているかのような熱心さがある。
背後では…。
俺は背筋が寒くなるのを感じた。エミリオが眉を吊り上げ、明らかに危険信号を発している。「見知らぬ男性があまりにも親しげに話しかけてきている」という警戒心が、まるで針のように鋭く放射されているのが分かる。
「ジュリア・モリアーティです」
俺は咄嗟に、最も淑女らしい——少なくともエミリオが納得してくれそうな優雅な挨拶を返した。背筋を伸ばし、視線は15度上方。スカートの裾は左手の薬指と小指で軽く持ち上げる。この数週間、エミリオから叩き込まれた作法の全てを総動員する。
(頼む…この特訓の成果だけは認めてくれ…!)
アレックスは俺の挨拶に満面の笑みで応える。その表情には、社交界の礼儀作法など意に介さない、純粋な歓迎の色が浮かんでいた。一方エミリオの眉は、更に危うい角度へと上がっていく。淑女らしい挨拶は成功したものの、この青年の気さくすぎる態度は、明らかに執事の警戒ラインを越えているようだった。
場の空気が妙な緊張を帯び始めたその時、アレックスがふと何かを思い出したように目を見開いた。
「モリアーティ…まさか!あの化学の権威、モリアーティ卿のご令嬢!?」
その声には、純粋な驚きと喜びが混ざっていた。科学者としての尊敬の念が、まるで子供のような無邪気さで溢れ出している。
「実は僕、卿の論文全部読ませていただいてるんです!特に最近の研究は本当に素晴らしくて…」
彼の饒舌な科学談義が始まる。その瞳には純粋な学問への情熱が宿り、声には心からの敬意が込められていた。エミリオの眉の角度が、僅かながら緩和の兆しを見せ始める。
どうやらこの青年の科学への純粋な熱意は、厳格な執事の心にも少なからず響いたらしい。俺は内心でほっと胸を撫で下ろした。
「父の…モリアーティ卿の研究室で学ばせていただくことになりました」
その言葉に、アレックスの瞳が一層輝きを増す。朝の陽が廊下に差し込み、彼の濃紺の瞳を美しく照らしていた。
「そうだ!」 突然、彼が思いついたように声を上げる。その表情には、科学への純粋な情熱が溢れていた。 「もしよければ、僕の実験室も見てみない?面白い研究をしているんだ!」
その誘いには、まるで新しい発見を友人と分かち合いたがる子供のような無邪気さがあった。下心のない純粋さと、科学者としての熱意に満ちた勢いに、思わず「ぜひ」という言葉が口をついて出てしまう。
「本当かい!?」アレックスの顔が明るく輝く。「じゃあついておいで、僕の研究室はここから近いんだ!」
彼は嬉しそうに話し続けながら、廊下を進んでいく。その足取りには、まるで宝物を見せたがる少年のような弾みがあった。
一方、背後のエミリオからは明らかな不機嫌さが漂ってくる。完璧な執事の仮面の下で、主を見知らぬ男性の研究室へ案内することへの明確な抵抗が感じられる。その視線は、アレックスの背中に無言の警告を放っているようだった。
(勘弁してくれエミリオ…悪い話じゃないんだからさ!)
俺は心の中で静かに考えを巡らせる。これから学院での調査を始めるのだ。この場所の内部事情に詳しい学生から情報を得られれば、それは大きな利点になるはず。彼の純粋な科学への情熱は本物だし、父の研究にも詳しいらしい。
視界の端では、エミリオの眉がまた一段と危うい角度に上がっていくが、今はそれも我慢してもらうしかない。
「エミリオ」俺は小声で告げる。「少し予定が変わるけれど…」
「…承知いたしました」 彼の声には明らかな不満が滲んでいたが、それでも主の判断には従うという執事としての矜持が感じられた。
「おや?執事さんも一緒かい?」アレックスが振り返る。その表情には警戒の色はなく、むしろ歓迎の意が込められている。「良かった。化学実験には安全管理が大切だからね。君がいてくれると安心だ」
その言葉に、エミリオの表情が僅かに和らぐ。主の安全を第一に考える執事にとって、それは確かに正論だった。
「では、案内させてもらうよ」
アレックスは廊下を軽やかに進んでいく。その足取りには、まるで大切なおもちゃを友達に見せたがる子供のような無邪気な弾みがあった。科学への純粋な情熱が、彼の全身から溢れ出ているようだった。
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