①
翌朝の私室は、柔らかな朝の光に包まれていた。窓から差し込む陽射しが、アンティークの家具を優しく照らし、カーテンがそよ風に揺れている。エミリオが淹れた紅茶の香りが、静かな空間に漂っていた。
「はぁ…」
俺は深いため息をつきながら、優雅な肘掛け椅子に身を沈める。昨夜の宝石泥棒との一件は、まるで夢のような出来事だった。月明かりの下で交わされた言葉、艶やかな紳士的な振る舞い、そして最後の「お礼」。いや流石に指先にキスの経験はやるほうもやられた方も無い。
「全く…忙しいものだな、令嬢探偵というのは」
紅茶を一口すすりながら、思わずぼやいてしまう。立て続けに事件が起きる度に、この少女の体で奔走しなければならないのだから。
「お疲れのご様子ですが…」エミリオが静かに声をかける。完璧な執事の立ち振る舞いの中に、僅かな心配の色が混じっている。
「ああ、わかってるよ。休んでる場合じゃない」俺は紅茶を置き、姿勢を正す。「本来のジュリアの事を、もっと調べないと」
エミリオの表情が引き締まる。彼もまた、本来の主の行方を案じているのだろう。その瞳には、執事としての責務と、ジュリアを取り戻したいという強い意志が浮かんでいた。
「過去視で見た記憶を追って…」
私室の窓辺に立ちながら、俺は静かに言葉を紡ぐ。朝の陽が差し込み、部屋の調度品を柔らかく照らしている。エミリオは給仕台の前で紅茶を淹れながら、その言葉に耳を傾けていた。
「ジュリアは確かに何かを見つけた。研究室…恐らく…父の研究室だろう」俺は窓の外の風景を見つめたまま続ける。「次の目的地は学院だ」
エミリオの手が一瞬止まる。銀のティーポットが、かすかな音を立てた。
「しかし…」彼の声には明らかな躊躇いが混じっている。「王立科学学院は、そう簡単には…」
「ああ、分かってる」俺は振り返り、エミリオと向き合う。「だからこそ、父に直接交渉するんだ」
エミリオの眉が僅かに寄る。「旦那様に…?」
「ジュリアの科学への関心は本物だった」俺は説明を始める。過去視で見た光景が、次々と蘇ってくる。「実験室でこっそり研究していた記憶。化学書を読み漁っていた痕跡。父もそんな娘の様子を、きっと見守っていたはずだ」
エミリオの表情が少しずつ和らいでいく。確かに、本来のジュリアの性質を利用するのは、最も自然な方法かもしれない。
「ただし」俺は真剣な面持ちで続ける。「俺一人では難しい。学術的な会話になれば、すぐにボロが出る」
「まさか…」エミリオの目が見開かれる。「私に…?」
「頼む」俺は静かに頭を下げた。「お前なら、令嬢の執事として父と科学の話もできるはずだ。俺が対応できない部分は、お前に助けてもらいたい」
エミリオは暫し黙考の後、深いため息をついた。その表情には、執事としての責務と、主の願いを叶えたいという想いが交錯している。
「…承知いたしました」彼は最後には凛とした態度で答えた。普段の冷静な執事の仮面の下に、強い決意が垣間見える。「お嬢様のために、私にできることなら」
「助かるよ、ありがとう」俺は心からの感謝を込めて言った。
朝の陽が二人の姿を照らし、新たな決意を後押しするかのように明るく差し込んでいた。扉の向こうでは、小鳥のさえずりが響いている。これから始まる挑戦は、決して容易なものではないだろう。だが、本来の主を取り戻すための第一歩。その思いが、俺たちの胸の内で確かな形を取り始めていた。
エミリオは給仕台に戻り、新しい紅茶を淹れ始める。その仕草には、いつもの完璧な執事としての優雅さが戻っていた。銀のポットから立ち上る湯気が、朝の光に透けて美しい。
「では」彼は静かに言った。「旦那様への申し出の準備を始めましょうか」
窓の外では、庭園の噴水が朝の光を受けて輝いていた。全ては、この一歩から始まる。俺たちは互いに顔を見合わせ、小さく頷き合った。
*
数日後、早朝の王立科学学院。
濃い朝もやの中に、重厚な石造りの建物が威厳を持ってそびえ立っていた。アーチ状の窓からは既に研究室の明かりが漏れ、研究者たちの一日が始まっているのが窺える。門の両脇には、制服に身を包んだ衛兵が厳かに立っている。
この施設が単なる学び舎以上の存在であることは、その佇まいからも明らかだった。国家の機密に関わる研究が行われ、貴族の子女たちが最新の科学を学ぶ場所。そして何より、ジュリアが手がかりを残した場所。
「旦那様との交渉は上手くいきましたね」
エミリオが感慨深げに呟く。朝もやに包まれた石造りの建物を見上げながら、彼の表情には安堵と期待が混じっていた。
「ただし」彼は執事らしい凛とした態度で付け加えた。「くれぐれも慎重に。お嬢様の行方を探るのは大切ですが、危険な橋は渡らないように」
その声には、主を気遣う執事としての深い懸念が滲んでいた。この少女の体で、どこまで深く踏み込めるのか。その不安は、彼も同じように抱えているのだろう。
「分かってる」俺は淑女らしく微笑む。「まずは、父の研究室を見せてもらうところから始めよう」
朝日が徐々に高くなり、朝もやが晴れていく。石畳の上を歩む二人の足音が、静かに響いていた。格子窓を通り抜けた光が、廊下に幾何学模様の影を作り出している。
俺は内心で深く息を吸った。これから始まる調査が、謎を解く鍵になるかもしれない。ジュリアが見つけた何か。彼女が消えた理由。そして、俺がこの体になった謎。
その全ての答えが、この石造りの建物の中にあるのかもしれない。そんな予感を胸に、俺たちは重厚な門をくぐっていった。朝もやの中、二人の影が長く伸びている。新たな一歩を踏み出す足取りは、不安と期待が混ざり合ったものだった。
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