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夜も更けた頃、グランフォード卿の書斎でティアラの返却が行われた。窓から差し込む月明かりの下、古い机の上に置かれたランプの灯りが柔らかな光を放っている。俺はそっとティアラを卿に差し出した。銀色の光沢を放つ白金の細工が、ランプの灯りに照らされて優美な影を作る。


「あぁ…まさしくこれだ」卿は震える手でティアラを受け取る。その指が愛おしそうに白金の輪郭を撫でる。「取り戻してくれて、本当にありがとう」


「ご依頼でしたもの」俺は淑女らしく微笑む。「ですが、ティアラは取り返せましたが…明日の美術展はどうされますか?」その質問に、卿は暫し考え込むような表情を浮かべた。書斎の重厚な調度品が、その沈黙を静かに見守っている。


「展示はしない」卿はゆっくりと、しかし確かな意思を込めて告げた。「このような事があって直ぐに警備を強化できるとは思えないし」彼は一瞬言葉を詰まらせ、ティアラを見つめながら続ける。「何より…これが失われるという事が二度と起こっては欲しくない。せめて自分の手元で大切に管理していたい」


「良いご判断だと思いますわ」俺は静かに頷く。その言葉には、単なる社交辞令以上の意味が込められていた。


グランフォード邸を辞するとき、月の光が庭園の木々を銀色に照らしていた。噴水の水音が静かに響き、夜風が薔薇の香りを運んでくる。付き添ってきた老執事・ウィリアムに、俺は声をかけた。


「ティアラの宝石、偽物ですわよね?」


その言葉に、月明かりに照らされたウィリアムの老いた顔には、深い動揺の色が浮かんでいる。長年仕えてきた執事の表情が、一瞬で凍りついたように見えた。


「ティアラに施された多数のエメラルド…本物のように美しい輝きを放っていましたが、よく見ると、ごくごく僅かですが気泡が見えましたわ。光の当たり方によっては、ガラス特有の歪みも確認できる。熟練の宝石商や、美術品に詳しい目利きならば、一目で偽物だと分かってしまうでしょうね」


「…その通りでございます」ウィリアムは深いため息と共に、ゆっくりと目を閉じた。その年老いた表情には、長年守り続けてきた家の秘密を明かす覚悟と共に、どこか安堵の色も浮かんでいる。月光に照らされた彼の横顔は、まるで過去の重みに耐えかねているかのように見えた。深い皺は、この館で過ごしてきた歳月の証のように刻まれている。


エミリオが静かに俺の背後に控え、物語の続きを待っている。夜風が三人の間を通り抜け、遠くで夜鳥の鳴き声が響いていた。庭園の噴水から漏れる水音が、この静かな夜の語りに深みを加えているようだった。


「実は、前の代からグランフォード家には借金が重なっておりまして」老執事は静かに、しかし確かな声で語り始めた。その目は遠い過去を見つめているようだ。「先代様の時代には、その額があまりにも膨れ上がってしまい…家が没落寸前まで追い込まれていたのです」


ウィリアムの声には、その激動の時代を生き抜いた重みが滲んでいる。「奥様…現当主様の母君は、自分の持っていたこのティアラを解体することを決意なさいました。代々受け継がれてきた大切なエメラルドを一つずつ売り、借金を返済するために…」


その言葉に、エミリオの表情が僅かに強張るのが見えた。貴族の執事として、その決断の重さを痛いほど理解しているのだろう。俺たちは黙って、ウィリアムの続きの言葉を待った。


「先代様は最初、猛反対なさいました。家伝の宝石を手放すなど、という思いが強かったのでしょう」老執事の声が震える。感情を抑えようとしながらも、その記憶は今も鮮明に残っているようだ。「しかし奥様は『家の存続の方が大切。私たちの未来の方が、宝石よりも価値があるはず』とおっしゃって…一つずつ、大切なエメラルドを売っていかれた。そうして、なんとか借金は返せたのです」


「偽物の宝石はもしかして…」俺の問いかけに、ウィリアムは深く頷いた。


「ええ。先代様は、奥様の献身に報いるため、同じ形のティアラを作り直したのです。本物のエメラルドは既にないけれど、職人に特別に依頼してイミテーションを作らせ、奥様への感謝の気持ちを込めて」老執事の目に、大粒の涙が光る。「奥様は偽物だと分かっていながら、そのティアラを最も大切な品として扱われました。『これは、あなたの愛情の証。本物の宝石など目じゃないわ』と、いつも仰っていました」


月明かりに照らされたイミテーションのエメラルドが、本物と見紛うほどの輝きを放っていた。その光は、まるで夫婦の深い愛情を映し出しているかのようだった。きっとそれは、本物の宝石以上の価値を持っていたのだ。



老執事は最後まで丁寧に頭を下げ続けていた。月明かりの中、その銀色の髪が柔らかな光を帯びて輝いている。長年の忠誠を体現するかのように凛とした姿勢は、館の歴史と共に生きてきた執事の誇りを物語っていた。俺とエミリオが重厚な門をくぐり、夜の闇に姿を消すまで、その礼儀正しい姿勢は全く崩れることはなかった。


ガス灯が淡く照らす石畳の通りを、静かな足音を響かせながら歩いていく。古い建物の影が長く伸び、どこか物思いに耽るような雰囲気を醸し出していた。エミリオが、その静寂を破るように静かに尋ねてきた。


「お嬢様、ティアラの過去がここまで見えていたのですか?」その声には、いつもの執事らしい冷静さの中に、純粋な好奇心が滲んでいた。


「ああ。触れた時に、ウィリアムさんの若い頃の姿も見えてね」俺は煌めく星々が散りばめられた夜空を見上げながら答える。月明かりが通りを銀色に染め、その光が言葉に深みを与えているようだった。

「それで、あの泥棒が金庫を開けた時の躊躇いの理由も分かった」


「まさか…」


「そう。彼女もわかったんだ。ティアラの宝石が偽物だって事を」俺は立ち止まり、月明かりに照らされた静かな通りを見渡す。古びた街灯の明かりが、石畳の上で揺らめいている。「偽物にも関わらず何故家宝として扱われているのか。この真実を知りたくて屋敷に残っていたんだ」


ふと言葉を区切り、虚空に向かって声をかける。夜風が僅かに頬を撫でていく。「そうでしょう?」

その瞬間、風が僅かに揺れ、そこに一つの影が浮かび上がった。怪盗シュヴァリエが、まるで最初からそこにいたかのように佇んでいる。街灯の灯りが彼女の整った横顔を照らし、その唇には満足げな微笑みが浮かんでいる。まるで長年の謎を解き明かした探偵のような、誇らしげな佇まいだった。


「その通りだよ、可愛い探偵さん」


彼女は優雅に手を打ち鳴らした。その拍手の音が、静かな夜の通りに響く。


「展示会への予告状も、貴女が出したのね」


「その通り」彼女は満足げな表情を浮かべる。


「私は準備に余念がないんだ。実際の展示会の前に、予め下見をしようと屋敷に忍び込んだのさ」彼女は月明かりの中で、ゆったりと腕を組む。「まぁ…予想外ではあったよ。あのティアラに組み込まれた宝石は模造品だったのだから」


「宝石には、宝石に相応しい持ち主や場所がある。私は宝石を相応しい場所に連れていく…それが私の美学さ」彼女の声音には、プロとしての誇りが滲んでいた。「あのティアラが展示会に出されれば、目利きには一目で偽物だと分かってしまうし、公衆の前で嘲笑の的になるだろう」


彼女は月を見上げ、続ける。「それは耐え難かった。偽物であれ宝石は宝石…だから予定を早めて、展示会の前に頂いたんだ」


その言葉には、宝石の守護騎士としての矜持と同時に、ある種の優しさが込められているようにも聞こえた。


「勿論、ティアラは展示会の後には返却する予定ではあったよ。決して人目にはさらさないようにとお手紙を付けてね」彼女は一呼吸おいて、月明かりに照らされた石畳の上で颯爽と身を翻す。宝塚の男役のような艶のある声と立ち居振る舞いで、まるで舞台の上の貴公子のようだった。「ただ、なぜこの偽物を大切にしていたのかが気になってしまって…屋敷を探れば何かわかるかもと思っていたが…」彼女は甘く響く声で続ける。「君がすべて教えてくれた」


彼女は舞台さながらの優雅な足取りで近づくと、社交界の紳士のように片膝をつき、俺の手を取った。「お礼だよ」その言葉と共に、彼女は俺の指先に軽くキスを落とす。


「んな!?」思わず素が出てしまう俺に、エミリオも「!?」と声にならない声を上げた。


生まれながらの男役スターのような風格を漂わせる彼女は、華やかな笑顔と共に俺にウィンクを一つ投げかける。街灯の明かりが、その凛々しくも美しい表情を艶やかに照らし出していた。


「君には貸しができたね。次会ったときは、一つだけ君のお願いをかなえよう」彼女は立ち上がりながら、夜風になびく黒いドレスの裾を軽く整える。その仕草すら舞台の一場面のような優美さだった。


「いや、今すぐ警察に行って欲しいんだが!?」俺は乱暴な口調で抗議する。


「それは御免だ」彼女は艶やかに首を振る。「お仕事に支障が出てしまうからね」


「ではまた会おう、可愛い探偵さん」彼女は最後にもう一度華麗な笑みを見せ、まるで幕が下りるように夜の闇へと消えていった。


後には俺とエミリオだけが残される。月明かりの下、石畳の上で立ち尽くす二人の影が長く伸びていた。通りにはガス灯の明かりだけが静かに揺れ、先ほどまでの出来事が夢のような舞台の一幕だったかのような静けさが戻っていた。



毎日12時更新予定です。

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