第三話 脅威(改稿版)
それは、ある報道番組で交わされた議論から始まった。
神聖ヴェルガル帝国による侵略から三年。
復興が進み、人々の暮らしにも少しずつ余裕が戻り始めた頃のことだった。
番組が取り上げたテーマは、今では歴史の一部となりつつある、あの戦争。
そして――
世界を救った英雄について。
画面には、三年前に撮影された映像が流れていた。
空を覆う巨大な要塞。
地上へ降下する無数の生体兵器。
逃げ惑う人々。
そして、それらにただ一人で立ち向かう、黒い翼の戦士。
映像の下には、大きな文字が表示されていた。
《空中要塞ガルグラシア、そしてアポストールとは何だったのか》
当時、人々が抱いていた認識は単純だった。
異世界から突如として現れた侵略者――『神聖ヴェルガル帝国』。
そして、それを打ち滅ぼして世界を救った救世主――『アポストール』。
悪と正義。
侵略者と救世主。
誰もが、そんな分かりやすい構図を思い描いていた。
いや。
そう信じることでしか、あの戦争を理解できなかったのかもしれない。
だが、戦争が終わった。
街から瓦礫が消えていく。
道路が復旧する。
店が開き、学校が再開され、人々の生活が戻ってくる。
今日を生き延びることだけで精一杯だった頃には考える余裕すらなかった疑問を、人々は口にするようになった。
――あれは、本当に何だったのか。
最初は、そんな素朴な疑問だった。
「そもそも、神聖ヴェルガル帝国が異世界から来たという証拠はあるのでしょうか」
テレビの中で、一人の評論家が問いかけた。
「確かに、我々の知るどの国家とも異なる技術を持っていました。しかし未知の技術だからといって、それを即座に異世界のものと断定していいのでしょうか」
別の出演者が答える。
「では、どこかの国家が秘密裏に開発した軍事技術だったと?」
「その可能性を完全に否定できる材料を、我々は持っていません」
それは、ほんの小さな疑問だった。
だが一度生まれた疑問は、次の疑問を呼んだ。
どこかの国が開発した軍事兵器だったのではないか。
あの国が怪しい。
いや、あの国ではないのか。
国家ではなく、巨大な軍需組織だったのではないか。
インターネット上には、さまざまな憶測が飛び交った。
やがて、さらに過激な説まで現れ始める。
――神聖ヴェルガル帝国とアポストールは、最初から同じ勢力だったのではないか。
世界中の軍隊を圧倒した敵を、たった一人の人間が剣一本で壊滅させる。
そんなことが、本当に可能なのか。
ヴェルガル帝国の侵攻そのものが、自作自演だったのではないか。
新たに開発された兵器の性能を世界に見せつけるための実験。
あるいは――
いつの日か行われる世界征服のための、壮大なリハーサル。
もちろん、何の証拠もない。
憶測に憶測を重ねただけの話だった。
荒唐無稽だと笑う者も多かった。
だが。
数多くの憶測の中に、一つだけ、誰も簡単には否定できない疑問があった。
それは、アポストール自身についてだった。
世界各国の軍隊が、手も足も出なかった。
戦闘機も。
ミサイルも。
艦隊も。
人類が築き上げてきた近代兵器のほとんどを、神聖ヴェルガル帝国は無力化した。
その敵を――
アポストールは、たった一人で滅ぼした。
ならば。
もし、その力が人類に向けられたら?
誰が彼を止められるのか。
その問いに、答えられる者はいなかった。
「私はアポストールを悪だと言っているのではありません」
番組の出演者が、静かに語った。
「彼が我々を救った。その事実を否定するつもりもありません」
そこで一度、言葉を切る。
「しかし――善良な人物であることと、危険な力を持っていることは別の問題ではないでしょうか」
スタジオが静まり返った。
「三年前、彼は我々の味方でした。では、十年後もそうだと言い切れるのでしょうか」
誰も答えない。
「彼が心変わりしたら?」
「誰かに操られたら?」
「もし彼自身が、自分こそ正義だと考え、その力を振るい始めたら?」
その言葉は、少しずつ人々の心へ入り込んでいった。
――アポストールは危険なのではないか。
やがて新聞が取り上げた。
テレビが取り上げた。
ネットでも議論された。
もちろん、反対する者も大勢いた。
「あの人がいなければ、俺たちは死んでいたんだぞ」
「世界を救ってくれた人間を疑うなんて、恩知らずにもほどがある」
「あれだけの力があるのに、人間を攻撃しなかった。それこそ彼が味方である証拠じゃないか」
だが、それに対して別の声が返ってくる。
「だからといって、何も分からないままでいいのか?」
「本名すら知らないんだぞ」
「どこにいるのかも、何者なのかも分からない」
「そんな存在を放置しておくほうが無責任じゃないのか」
正義か、悪か。
そんな単純な話ではなくなっていた。
誰もが認めている。
アポストールは、人類を救った。
だが同時に――
人類を滅ぼすことさえできるかもしれない。
その二つは、矛盾することなく両立していた。
そして、ある言葉が人々の間で使われ始めた。
《脅威》
三年前には誰も、彼をそう呼ばなかった。
救世主。
希望。
守護者。
英雄。
そう呼ばれていた存在が――
今では、人類にとって最大級の潜在的脅威として語られ始めていた。
やがて議論は、国家をも動かした。
アポストールとは何者なのか。
どこにいるのか。
あの鎧は何なのか。
どのような原理で、あれほどの力を発揮しているのか。
各国は表向きには彼の功績を讃えながら、その裏で情報収集を始めた。
ある国は、保護すべきだと主張した。
ある国は、国際機関による監督が必要だと主張した。
そして、さらに踏み込んだ意見も現れた。
――速やかにその正体を特定し、然るべき施設において監察下に置くべきである。
人類を救った英雄を。
人類から守るために。
あるいは――
人類を、英雄から守るために。
世界中の国々が、静かに動き始めた。
だが。
彼らがどれほど探しても、アポストールは見つからなかった。
三年前。
世界中の人々がその姿を求め、黒い翼が現れるたびに歓声を上げた英雄は――
いつしか人々の前から姿を消していた。
アポストールという鎧を纏い、戦った彼も。
救世主へ向けられていた、人々の純粋な畏敬の念も。
静かに、世界の闇の中へと消えていった。
ただ一つ。
世界はまだ知らなかった。
彼が消えたのではないということを。
黒い翼を脱ぎ捨てた一人の少年として。
彼らが守った平和な世界の中で――
今も、ごく普通に生きていることを。




