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第2話 平和(改稿版)

黒板には、チョークで大きく二文字が書かれていた。


《自習》


それが、今の学校の日常だった。


世界が再び動き始めて、三年。

神聖ヴェルガル帝国との戦いによって一度は機能を失った学校も、少しずつではあるが、かつての姿を取り戻しつつあった。


校舎が残っている。


机と椅子がある。


教科書がある。


そして何より、生徒たちがいる。


三年前には、それだけのことさえ当たり前ではなかった。


だが、戦争の爪痕は深い。

校舎を建て直すことはできても、失われた人間まで元に戻すことはできない。


全国的な教員不足によって、一人の教師が複数の教室を掛け持ちすることも珍しくなかった。


教師がいない時間は、自習。


そんな授業とも呼べない時間が、今では時間割の一部として当たり前のように組み込まれている。


今日もそうだった。


教科書を広げ、黙々と問題を解いている者。

机に突っ伏して眠っている者。

教師がいないのをいいことに、スマートフォンをいじっている者。


そして教室の後ろでは、数人の生徒たちが大声で笑い合っていた。


話しているのは、くだらないことばかりだ。

流行りの動画。

昨日見たテレビ。

好きな音楽。

最近できた店。


三年前の世界では、そんな会話をする余裕さえなかった。


だからなのだろう。

教師がいなくても、この教室には不思議と荒んだ空気がない。


学ぶための時間というより――

生き延びた者たちが、今日も同じ場所にいることを確かめ合う時間。


そんな言葉のほうが、今の学校には似合っていた。


「なあ、今日も一日自習だったりして」

誰かが言った。


「それはそれで楽だからいいじゃん」

「来週テストだぞ」

「それは先生が悪い」

「なんでだよ」


教室に笑い声が広がった。


そのときだった。

がらり、と教室の扉が開いた。


「お前ら、少し静かにしろ」


久しぶりに姿を見せた担任の声に、教室中から不満そうな声が上がる。


「先生、生きてたんだ」


「失礼なこと言うな。隣のクラスで授業してたんだよ」


再び笑いが起こった。

担任も苦笑しながら教壇へ向かう。


だが、その日はいつもと少し違った。


「今日は転校生を紹介する」

その一言で、教室の空気が変わった。


「転校生?」

「今?」

「どこから?」


ざわめきが広がる。


この時代、転校そのものは珍しくない。


戦争によって住む場所を失った者もいる。

家族を頼って別の土地へ移る者もいる。

復興に伴う親の転勤で、新しい土地へやってくる者もいる。


それでも、新しい誰かが教室に加わるという出来事には、戦前と変わらない好奇心があった。


担任が廊下へ向かって声をかけた。


「入っていいぞ」


一人の少女が教室へ入ってきた。


その瞬間。

先ほどまで騒がしかった教室が、嘘のように静かになった。


ウェーブのかかった長い髪。

白い肌。

そして、どこか印象に残る丸い黒縁の眼鏡。


華やかすぎるわけではない。

だが、自然と人の視線を集める整った顔立ちをしていた。


少女は教壇の横まで歩くと、教室を見渡した。


ほんの一瞬。

その視線が、教室の奥に座る一人の少年の上を通り過ぎた。


だが、そこで止まることはなかった。


少年もまた、何も言わない。


少女は小さく息を吸い、微笑んだ。


「初めまして」


澄んだ声が教室に響いた。


「早乙女美幸です。今日からよろしくお願いします」


そして丁寧に頭を下げる。


早乙女、美幸。

その名前を聞いた瞬間。

少年は、わずかに目を細めた。


――早乙女美幸。


もちろん、知っている。

いや。

その名前を知っている、というのは正確ではなかった。


少年が知っているのは、その名前ではない。

彼女がかつて呼ばれていた、別の名前。


そして――

早乙女美幸という名前が、彼女の本当の名前ではないことも。


だが、少年は何も言わなかった。


言うつもりもなかった。


少女の視線が、もう一度教室を巡る。

少年の前も通り過ぎる。

何の反応もない。


当然だ。


彼女は少年を知らない。

記憶しているはずもない。


そして。

――知らなくていい。


少年はそう思った。


あの場所で何があったのか。

自分が何者なのか。

彼女が何者だったのか。


そんなことを知らずに済むのなら、それでいい。


今、彼女は制服を着ている。


教室に立っている。


これから授業を受けて、友達を作って。

くだらないことで笑ったり、怒ったりするのだろう。


そんな、ごく普通の生活を送ることができる。

それだけでよかった。


「じゃあ早乙女の席は……」


担任が教室を見渡す。


空いている席を探している間にも、周囲の生徒たちは小声で話し始めていた。


「めっちゃ可愛くない?」

「どこから来たんだろ」

「あとで話しかけてみようぜ」


そんな声を聞きながら、少年は窓の外へ視線を向けた。

青い空が広がっていた。


三年前。

あの空は、一度割れた。


そこから現れたものによって、世界は壊された。


そして自分たちは、それを生き延びた。


校庭から聞こえてくる声。

教室のざわめき。

教師の愚痴。


黒板に書かれた《自習》の二文字。

決して元通りではない。


失ったものも多い。


それでも――

彼女がこうして学校へ通える。


何者でもない一人の少女として、ここに立っている。


その光景を見ながら、少年は初めて思った。

三年前の戦いは、本当に終わったのだ、と。


世界はようやく――

平和を取り戻したのだ、と。


そのときの彼は、まだ知らなかった。


早乙女美幸との再会が。

三年前に終わったはずの戦いを、再び動かすことになることを。


そして彼女自身もまた。


自分が生きているという、ただそれだけの事実が――

本来なら存在しなかった未来への、最初の一歩であることを。

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