第一話 英雄(改稿版)
第一話 英雄
――それは、あまりにも突然の出来事だった。
空が、割れた。
まるで天そのものが怒りに震え、大気を引き裂いたかのように。
雲ひとつない真昼の空に、突如として巨大な黒い亀裂が走った。
初めは誰もが、自分の目を疑った。
道行く人々が足を止め、空を見上げる。
車は道路の途中で停まり、ビルの窓には異変を察した人々が集まった。
やがて黒い亀裂は音もなく広がっていき――その向こうから、巨大な構造物が姿を現した。
都市ひとつが、そのまま空に浮かんでいる。
そう錯覚するほどの威容だった。
後に人類は、それをこう呼ぶことになる。
――『空中要塞ガルグラシア』。
ガルグラシアが地球上空に出現して間もなく、世界各地の空に巨大な立体映像が映し出され、そこに現れた者は、自らを『神聖ヴェルガル帝国』の使者と名乗った。
そして告げた。
地球人類に対する、一方的な宣戦布告を。
交渉もなかった。
要求もなかった。
降伏を勧告する言葉すらなかった。
彼らが人類に与えたものは、ただ一つ。
――侵略という現実だけだった。
ガルグラシアの各所が開き、無数の黒い影が飛び出した。
触角と鋭い角を持つ異形の存在。
翼らしきものは見当たらない。それでも空中を自在に滑空する姿は、地球上の生物に例えるならばイトマキエイに似ていた。
だが、その姿を生物と呼んでよいのかさえ、当時の人類には分からなかった。
後に【α(アルファ)】と呼ばれることになる、神聖ヴェルガル帝国最初の生体兵器である。
αは群れをなし、地上へと降下した。
そして――攻撃を開始した。
そこに軍人と民間人の区別などなかった。
街が破壊され、人々が逃げ惑う。
世界各国の政府も、ただ手をこまねいていたわけではない。
各国空軍が緊急発進。
戦闘機がガルグラシアへ向かい、艦隊からは巡航ミサイルが発射された。
地上部隊も迎撃態勢に入り、ありとあらゆる近代兵器が、突如現れた侵略者へと向けられた。
人類が長い歴史の中で築き上げてきた軍事力。
そのすべてが、一斉に牙を剥いた。
――だが。
ガルグラシアが、光を放った。
ただ一筋。
空から地上へ降り注いだその閃光を、人々は後に畏怖を込めてこう呼んだ。
『神罰の光』。
光が世界を覆った瞬間、異変は起きた。
電子機器が沈黙した。
飛翔していたミサイルは制御を失い、次々と空中で崩壊する。
戦闘機は操縦不能となり、あるものは緊急脱出を余儀なくされ、あるものはそのまま地上へと墜落した。
レーダーは敵を映さない。
通信も繋がらない。
照準装置も作動しない。
近代兵器を支えてきた電子技術そのものが、意味を失った。
人類が誇った軍事力は、たった一度の光によって沈黙したのである。
そしてガルグラシアは、さらなる生体兵器を投入した。
今度は、人類にとって馴染みのある伝説上の怪物たちに酷似していた。
グリフィン、ペガサス、キマイラ。
翼を持つ獣たちが次々と市街地へ降り立ち、逃げ惑う人々を襲った。
後に【β(ベータ)】と総称されることになる生体兵器群である。
αが空を制圧し、βが地上へ侵攻する。
軍事力の大半を失った人類に、それらへ対抗する術はほとんど残されていなかった。
空を奪われた。
街を奪われた。
そして、少しずつ希望までもが奪われていった。
誰もが思い始めていた。
――人類は、ここで終わるのではないか。
そのときだった。
彼が現れたのは。
漆黒のフルフェイスヘルメット。
全身を覆う、黒い鎧。
背には、夜そのものを切り取ったかのような漆黒の翼。
そして手には、自らの身の丈ほどもある黒鋼の大剣。
所属不明。
国籍不明。
名前さえ分からない。
ただ一つ分かっているのは――
彼の力が、神聖ヴェルガル帝国に通用するということだけだった。
大剣が振るわれると、αが両断された。
黒い翼が空を駆けると、人類の戦闘機を一方的に撃墜した異形の群れが、次々と地上へ落ちていく。
βが襲いかかるが、彼は退かない。
獣の爪を鎧で受け止め、その巨体ごと大剣で薙ぎ払った。
銃も。
ミサイルも。
最新鋭の兵器さえ通用しなかった敵を――
彼は、たった一人で倒していった。
人々はその姿を見た。
瓦礫の陰から。
避難所のテレビから。
辛うじて復旧した通信網を通じて世界へ拡散される映像から。
悪魔のような黒い翼を持ちながら、人間を守って戦う者。
その姿を、誰かがこう呼んだ。
『悪天使――アポストール』
誰が最初にそう呼んだのかは、今となっては分からない。
だがその名は瞬く間に世界中へと広がった。
アポストール。
敵に屈さぬ力を持ち、人類の側に立つ存在。
その黒い鎧に宿るものが天使の加護なのか、それとも悪魔の呪いなのか。
誰にも分からなかった。
だが、そんなことはどうでもよかった。
彼は戦っていた。
人類を守るために。
少なくとも――
そのときの人々は、そう信じていた。
やがてアポストールは、単身、空中要塞ガルグラシアへと乗り込んだ。
世界中の人々が、その行方を見守った。
だが、要塞内部で何が起きたのか。
それを知る者はいない。
一日。
二日。
三日。
アポストールは戻らなかった。
人々の間には、再び絶望が広がり始めた。
彼もまた敗れたのではないか。
最後の希望さえ失われたのではないか。
誰もが、そう思い始めた頃だった。
――ガルグラシアが、消えた。
爆発したわけではない。
墜落したわけでもない。
あれほど巨大だった空中要塞が、忽然と空から姿を消したのである。
それと同時に、地上を蹂躙していたαもβも、次々と姿を消していった。
そして。
数日ぶりに、彼は帰ってきた。
アポストールは何も語らなかった。
ガルグラシアで何があったのか。
神聖ヴェルガル帝国とは何者だったのか。
なぜ彼だけが、あの敵と戦うことができたのか。
その答えを、人類が知ることはなかった。
ただ、戦争は終わった。
人類は勝利した。
いや――
アポストールが、人類に勝利をもたらした。
世界は彼を讃えた。
救世主。
守護者。
人類の希望。
史上最大の英雄。
あらゆる言葉が、黒い翼を持つ名もなき戦士へと贈られた。
それから三年。
破壊された街には再び建物が立ち並び、人々の生活も少しずつ日常を取り戻していた。
子供たちは学校へ戻り。
店には客が戻り。
街には笑い声が戻った。
世界はようやく、あの日以前の姿を取り戻そうとしていた。
人類を救った英雄――アポストール。
その名を知らない者はいない。
だが。
三年前、彼を救世主と讃えた人々の多くは、まだ知らなかった。
英雄を見る人々の眼差しが、時とともに変わってしまうことを。
そして何より――
誰も知らなかった。
あの日。
燃え上がるガルグラシアの中で下された、ほんの小さな一つの選択が。
やがて世界の運命そのものを変えることになるなど。




