↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/16

〜第七章〜 混沌とする魔女裁判

 リリーが魔女? 自白? どうして……?

 僕が悪魔憑きになったことで、全てが丸く収まったんじゃないのか? 害をなす悪魔さえいなくなれば、もう離れ離れになることはないと……。


(会いたいって……言っていたじゃないか……!)


 再会を願うと。再会を……。

 あれが再会だったのか? リリーの望む再会は、あの一瞬で終わるものだったのか? あれで満足だったのか? 一緒に帰る選択肢は最初(はな)からなかったのか?


 あの笑顔……あの笑顔はどういう意味だったんだ。

 笑っていた。捕まるその瞬間まで、あの子は笑っていた。心の底からホッとしたような笑みを浮かべて……。

 ホッとした? 安心……? 安心していたのか?


 あの子が安心したのはなんだ? 僕の自由? 僕が無事に家に帰れること?

 なら、なんであの子はここにいない! あの子のいない家に帰ったって、何の意味もないのに……!


 なんで……! なんで自ら捕まるような真似をする。なんで、僕から離れていく……!


(あの子は、こうなることが解っていたみたいだった。……リリーが仕組んだのか? 何のため? リリーが魔女になって得をするのは誰だ? 司祭長か? この国か? あの子は……どこまでの罪を被ったんだ!?)


 どうしてだろう。もっといっぱい考えなきゃいけないのに、頭に激しい靄がかかったみたいだ。身体に力が入らない。耳にはさっきから、ドクドクと不気味に響く己の心臓の音しか聴こえない。

 目の前が、どんどん白くなっていく。白く——……。


「アレク! 息をしなさい!」

「しっかりしろ、馬鹿野郎!!」


 耳元で姉の声がしたかと思うと、次の瞬間には襟首を強烈に引っ張られ、身体が宙に浮いた。

 そこで初めて、自分が地面に膝をつき、蹲っていたことに気づく。


「あんたは、あの女の父親なんだろ! しっかりしろ!!」

「マルコくん! もっと優しくしてあげて! この子、顔が真っ青よ! まずは息を整えさせて……」

「そうやって絶望に浸ってりゃ、問題が解決するのかよ! あぁ!? 甘えてんじゃねーぞ!!」

「マルコくん……!」


 アレクシスは首の後ろに手を回すと、襟首を掴み上げたままのジャンマルコの手首を、弱々しく、けれど確かに握り返した。


「……ありがとう。マルコ君、もう大丈夫だよ」

「ジャンマルコだ!!」


 こんな絶望的な状況下であっても、ジャンマルコの鋭いツッコミは健在であった。


「……状況を、いったん整理しよう」


 膝についた土を手で払いながら、アレクシスが静かに立ち上がる。

 改めて周囲を見渡すと、先ほどリリアンの罪状を朗読した聖職者らしき人間と、クレマン、アニーの姿が消えていた。さらに、初対面だったはずのボニーベンナルトの姿もない。


 ぐるりと視線を巡らせ、アレクシスは最後にジャンマルコを見つめると、言葉無く「目」だけで静かに問うた。


「話が通じる奴だけ残ってもらった。悪いが、うちの親父もあんたの家で厄介になる。一応許可は取ったが、あんたは聞いていねぇし、シャルロット殿から許しは貰ってる」

「元は私の家でもあったからね」

「姉さん……。どれくらいの間、僕は……?」

「ふざけた罪状を読んだ野郎が、退出を命じてもあんたが一向に動かないから、呆れて帰っていくくらいの間だな」


 一口で言い切る青年の声音には、隠しきれない苛立ちが見て取れた。


「君も、リリアンが大事なんだね」

「勘違いするな。無罪の奴が、みすみす自ら捕まりに行ったのが腹立たしいだけだ」

「リリアンが無罪だって、信じてくれてるんだな」

「短い付き合いだが、あいつほど謀(はかりごと)に向かねぇ奴もいねぇだろ」

「ふふ……ありがとう。あの子は、実直であることが取り柄だからね」


 ふと、アレクシスは冷ややかな視線を巡らせ、この場にいるべきではない男を睥睨(へいげい)した。


「なぜ、こいつがここにいる?」


 すべての元凶である司祭長を、まるで虫けらを見るような目で射抜く。

 アレクシスの容赦ない殺意を乗せた視線に、司祭長は思わずその場で尻もちをついた。


「き、貴殿から悪魔は去ったはずでは……! 話が違うぞ!」

「話? いったいどんな話ですか。誰の話だ」

「わたくしのですよ」


 情けない声をあげる司祭長を庇い立てるように、ひらりとアスタロトが間に入ってきた。


「……君は、司祭長の味方か?」


「わたくしは誰の味方でもありませんよ。ああ、でも……唯一、わたくしの仕事を減らしてくれたリリアンの言うことだけは、多少聞いてあげていますがね」

「ほら、やはり! 貴殿も騙されていたのだ! その悪魔がすべて白状したぞ! すべてはリリアンが彼を召喚し、貴殿に取り憑かせたのだと!」

「誰が口を利いていいと言いましたか、矮小な人間ごときが。次、勝手に何か喋ったら、地獄の業火で消し炭にしますよ?」

「ひっ……! お、お許しを、アスタロト様……!」


 ガタガタと震える司祭長を他所に、アスタロトは優雅に肩をすくめる。


「……約束とはいえ、邪魔で仕方ありませんね、この人間は」

「……約束?」

「あなたのご息女ですよ」


 アレクシスの瞳が、大きく見開かれた。

 ——リリーが……?


「自棄(じき)を起こしたあなたが、この人間の首を刎ねたりして罪を重ねないよう、『万が一の時は止めてほしい』と頼まれていたのですよ。まったく……あの娘は、わたくしを最後までこき使うんですから」


 アスタロトはやれやれといった様子で、首を横に振った。


「あと、『どんなに止めても止まらないようだったら、最悪あなたから自分の記憶を消してほしい』とも言われてます」


 その言葉を聞いた瞬間、アレクシスは慌ててアスタロトから距離を取った。

 リリーと過ごした大切な記憶がなくなる? 冗談ではない。


「賢明ですね。わたくしも出来なくはないですが、すべての言いなりになるのも癪(しゃく)ですからね。一度やって見せたのが悪かったですし……これはわたくしの落ち度ですね」


 彼らの会話を聞いていたジャンマルコは、ハッとした。

 帰還した記憶喪失の調査隊——幸い彼らは日常生活を送るのに支障はなかったが、そうか、あの時点からあいつは今回の事態を予測して動いていたのか。


 昨夜までへらへらと能天気に笑っていたリリアンの顔が脳裏に浮かび、握りしめた拳にぐっと力が入る。

 ふざけやがって……! 最後の悪魔を倒したあいつは、無邪気に喜んでいたのだ。『これで父親が自由になる』『おれ達も故郷に帰れる』と。すべてが円満に解決したかのように語っていた。そこに——自分という存在を勘定に入れずに……!


 ふつふつと湧き上がる怒りを、深呼吸で必死に抑え込む。


 ほんの短い期間を共にしただけの自分でさえこれなのだ。父親であるアレクシスの心境を思えば、彼が司祭長をその手に掛けかねないと危惧したリリアンの気持ちも、理解できる気がした。そして……自分もそれを止めはしなかっただろう。


「あなたが手を出しても、誰も止めないだろうからと。……図星ですか?」


 唯一戦闘に長けたジャンマルコを見て、アスタロトが言った。もしアレクシスが暴走して司祭長に迫っても、ジャンマルコは制止しないとリリアンは見抜いていたのだ。


 ……図星で悪かったな、とジャンマルコは心の中で毒づく。


「……まあ、記憶を消すのはさすがに勘弁して差し上げましょう。あの娘には、いい薬です」

「……リリーは、なぜそこまで司祭長を庇うんだ?」


 その言葉に、アスタロトもジャンマルコも心底呆れ果てた。

 あまりのトンチンカンぶりに、同時に「はあ!?」と声を荒らげるほどに。


「どう見ても庇っているのはあなたでしょう。馬鹿なのですか?」

「そいつに手を出しちゃ教会が黙っちゃいねぇから、あんたを護ったんだよ! 少し考えりゃ解んだろ!」


 姿の見えないシャルロットとラファエルも、同意するようにうんうんと頷いている。

 ……そこで、ジャンマルコは再びハッとした。


(いや待て、天使……!)


 「大丈夫よ、マルコくん。私の姿も声もあいつには見えないし、聴こえないから。それはラファエル様も同じよ」

「……そういう能力なのですか?」

「使えるけど、今回は違うわね。あの男にはもう、神の加護が欠片もないのよ。……没収されたと言ってもいいわね」

「……自業自得ですね」


 仮にも高位の聖職者が、神の加護を剥奪されるなど——情けないというか、ざまを見ろというか。気持ちとしては後者が圧倒的に大きい。性格が悪い? 今更言われるまでもない。


「おい、あんた」


 ならば遠慮はいらないなと、開き直りの早いジャンマルコが司祭長へずいっと近寄った。


「な、なんだお前は!」

「誰でもいいだろーが。それより、聞きてぇことがある。あんた、四ヶ月ほど前だ……他国に使者を送ったな? 偽の召喚文書の弁明の件で」

「な、なぜそのことを……お前のような荒(あら)くれ者が知っている!?」

「うるせぇ! 誰が荒くれ者だ! おれもてめぇと同じ、神の下僕だ!」


 そう言い放つと、ジャンマルコは首から下げた十字架を粗暴に突きつけた。


「この際言っとくが、おれはローマ教会からの使者だ。今回の出来事の話をつけに来たんだよ。……だが、そっちの出した使者と行き違ったせいで、動くに動けなくなっちまった。だからおれには知る権利がある。言え、使者に持たせた文書の内容を。あんたが書いたはずだろ」


 司祭長はジャンマルコと、彼が示す十字架を交互に見比べながら呆気に取られている。どうやら、目の前の男が聖職者であるとは未だに信じられないようだった。


「おい、何黙っていやがる。さっさと吐きやがれ! その口は飾りか? あぁ!?」

「マルコ君……どこから見ても荒くれ者にしか見えないよ」

「るっせぇ! あんたも気になってんだろ! さっさとこいつの口を割らせるぞ」

「でも、リリーが『手を出してはいけない』と……」

「だから、殺さなきゃいいんだろうが」

「なるほど」


「いや、『なるほど』じゃありませんよ。落ち着きなさい、人間ども」


 アスタロトは「はあ」と、深々と溜息をついた。

 まったく、とんでもない面倒事を残してくれたものだ。だが……こうなるだろうなと、何となく予想はしていた。この人間たちの執着心を甘く見ていた、あの娘とは違って。


「これは、ここに置いておく方が危険ですね」


 司祭長を『これ』と呼び捨て、アスタロトが軽やかに指を鳴らした。

 ——パチン、と乾いた音が響いた瞬間、司祭長の姿が一瞬で掻き消える。


「! おい悪魔! 奴をどこにやりやがった!」

「あれの自室ですよ。ここにいても邪魔なだけでしたから」

「どこに転送しても構わないけど、後にしてくれ。まだあいつから文書の中身を聞き出していないんだ」

「それなら、わたくしからお答えしましょう。……なぜなら、そう記すよう命じたのはわたくしであり、中身を用意したのはリリアンなのですから」


 唐突に明かされた真相に、二人は最初こそ驚愕したものの、次第に静かな落ち着きを取り戻していった。

 今ここでアスタロトに食って掛かったところで、何の意味もないと察したのだろう。賢明な判断だ。もしこれで攻撃でも仕掛けようものなら、アスタロトは絶対に口を割らないつもりであったのだから。


「……本当は、口止めされていたんですけどね」


 内緒にしてくれと言っていたリリアンの顔が脳裏を過ぎったが、アスタロトに罪悪感など微塵も湧いてこなかった。むしろ、ようやく話せるという爽快感すら覚えている。


(あの娘は、少しは思い知ればいいのです)


 人間の想いの深さというものを。

 悪魔である自分が言うのもおかしな話だが、心底そう思った。


 それから、アスタロトは静かに語り出した。


 あれはアレクシスが着せられた冤罪を、「悪魔の仕業だ」とハタリを使ってから、およそ一ヶ月ほど経った頃のことだった。


 その夜、リリアンは机に向かい、黙々と手紙を綴っていた。

 アスタロトは、すわまた父親の元へのお使いかとゲッソリした。宮廷に入れないリリアンは、手紙を通してアレクシスとやり取りしていた。そして、その手紙を届けるのはいつもアスタロトの役目だったのだ。いくらお願いの体であっても、地獄の大悪魔を伝書鳩のように使う人間など、彼女くらいのものだろう。


 しかし話を聞くと、どうやら今回は違うようだった。お使いはお使いでも、今から書くことと同じ内容を司祭長に書き写させ、彼が偽召喚文書を送った国へ、賠償金と一緒にその手紙も出すよう命じてほしい、とのことだった。あの矮小な人間はアスタロトを恐れているため、命じること自体は容易いが……。


 後ろからリリアンの手元を覗き込んでいたアスタロトの眉間に、だんだんと深い皺が寄っていく。

 書き終えたリリアンがペンを置き、一度大きく伸びをすると、アスタロトへと振り返って不敵に笑った。


「どうだ、私はとても悪い女だろう?」

「……頭の、ですか?」


 そこに書かれていたのは、あまりにも凄惨な『自白の文書』だった。


 ——自分は悪魔に魂を捧げた魔女であり、此度の偽召喚文書も悪魔に命じさせて義父に罪を被せた。理由はスラムで育った自分と同じく、対等の地獄を味わわせるためである……等々、目を疑うような内容がびっしりと書き連ねられていた。


 嘘ばかりが塗り固められた自白の手紙は、さらにこう続いていた。


『私が下級悪魔たちを倒して回っている噂も信じないでいただきたい。疑惑の目を逸らすための、ただの仮面に過ぎないからだ。おかげで随分と楽しませてもらった。賠償金はその礼だと思って受け取るといい。ちなみにその金は、偽の儀式にまんまと金を払った愚かな貴族たちのものだ。気にせず使うといい。ああ、愉快でならない。私はもう満足した。下級悪魔たちがいなくなった時、私の遊戯は終わりだ。あとは焼くなり好きにするといい。後悔はない。次は地獄で、悪魔たちと戯れよう』


 そう締めくくられた手紙に、「誰だお前は」と喉まで出かかった。

 目の前で笑う目の前の少女とは、あまりにもかけ離れた凶悪な人物像がそこには描かれていた。


「……もう父親の無事は確定したのでしょう? そのためにわたくしが憑いている訳なのですし。まあ、建前ですけれど」


「いや、教会が手を出せないだけで、事件が解決した訳じゃない。今後アレクに危害が及ばないようにするには、矛先を変えるのが一番手っ取り早い。つまりは私だ。スラムの暮らしが悪かった訳じゃないが、誰も私の過去なんて知らないだろ? 言ったもん勝ちだ。こうやって動機も捏造できる。それに、教会も本当はうやむやにしたくはないはずだ。『高位の悪魔が原因だから無罪です』なんて理由が世の中に通じたら、やっぱり舐められる。『悪魔が強ければ教会は膝を折るのか』とな。だったら、正々堂々と糾弾できる的を用意してやる。アレクは生粋の貴族だが、私はそうじゃない。教会だって、私のような素性の知れない者なら裁きやすいはずだ」


「……わたくしでしたら、事件そのものを全員の記憶から消し去ることくらい出来ますよ?」


「それは凄いな。だが、それはしない。人間が招いた過ちを、あなたに後始末させるわけにはいかないからな。……と言ったものの、実際は頼ってばかりなんだが。最後くらい、始末は人間である私自身でつけるさ。それに、私が司祭長の身代わりになるのは教会の為じゃない。一番の理由はアレクの無事を確保するためだが……あともう一つ、あるんだ」


「父親以外に? あの盲目的なあなたが?」


「微妙に失礼だな。……被害者のな、遺族が石を投げつける先が欲しいんだ」


「……どういう意味です」


「もし今回の件で殺された被害者がいたら、それはうちの責任だ。しかも、その死に何の意味もなかったとなれば……遺族に『すべては悪魔の仕業だから涙を飲んでくれ』というのは、あまりに酷な仕打ちだろう。せめて遺族が怒りをぶつけられる対象を与えたい。それだけで、少しでも気が晴れるのなら」


「……あなたが、その的になると?」

「偽善と笑うか?」

「笑いを通り越して呆れてます。そこまでやる必要がありますか?」

「知ってるか? 魔女は火炙(ひあぶ)りだ。過去に例外なくな」


 驚愕に目を見開くアスタロトへ、リリアンは変わらぬ笑顔で言い放った。


「どうせ死ぬなら、最後まで役立たせるさ。——『魔女』という役者をな」




 アスタロトがリリアンとの過去にあったやり取りをすべて話し終えると、聞き手たちの反応は綺麗に二手に分かれた。


 ラファエルとシャルロットは彼女の献身に静かに涙を流し、アレクシスとジャンマルコは今にも抜刀しそうな殺気を醸し出していた。もちろん、二人とも今は剣を佩(は)いてはいなかったが。


「とても身勝手な話だね。……これは、連れ帰ったらみっちりお説教だな」

「ふざけるのも大概にしやがれ、あの女! 遺族のことは仕方ねぇっつったのに、諦めてなかったのかよ! くそっ、見事に騙された。何が的だ! それは司祭長、ひいては教会の役目だろ! ああ! 無論知ってるぜ! 教会が自分の保身に走るのなんてな! くそったれめ!!」


 静かに、しかし底知れぬ怒りを滾らせるアレクシスと、地団駄を踏みながら声を荒げるジャンマルコ。

 それを眺めながら、アスタロトはふと思う。自分もどちらかと言えば二人の気持ちに近い。だが、それを口に出していいものか少し躊躇われた。なぜなら自分は悪魔なのだ。人間の献身など笑いこそすれ、怒るなんてどうにもおかしい。

 おかしいのに——、


(そうだ。わたくしは、ずっと腹立たしかった)


 本当は、この話はするなと口止めされていたのだ。それを簡単に破るくらいにはリリアンに対して怒りを感じており、一泡吹かせて仕返しをしてやりたかった。

 きっとこれで彼女の思惑も崩れ去るだろう。胸がすくような思いだった。我ながら、随分と人間臭くなったものだと思う。


(帰ったら、ルシファーに笑われそうですね)


 今もきっと、彼は見ているはずだ。地獄の底から。

 帰ったら絶対に、からかわれるに違いない。


(もう、この際笑われてもいいです)


 どうせ自分たちはこの先、人間の何千、何万倍もの時間を生きるのだ。血の迷いを起こした一瞬の過去があったと、遥か未来で笑い種にされるくらい、我慢してやろうじゃないか。


 アスタロトが腹をくくったところで、アレクシスがパンと力強く手を打ち鳴らした。


「よし、じゃあリリーを連れ戻す作戦会議を僕の家で行おう」

「あんたの家って……そりゃここよりはいいけどよ、家人たちが驚くだろうが。こんなにぞろぞろ人を引き連れて来ちゃあさ」


 そこで、ジャンマルコはふと気づく。

 アスタロト、ラファエル、シャルロット、それからアレクシスを見回して——、


(人間の方が、少ない……だと……?)


 軽い衝撃だった。シャルロットは元人間ゆえに中間として数えても、その割合は五分五分だ。こんなこと、普通の人生でそうそうあるか? ——あるのだ。ここに。


「大丈夫だ。うちは既に、アスタロト殿を受け入れている」

「……そうだった」


 なんなら、すっかり餌付けも済ませている。


「ただ、問題はボニーベンナルト殿だな。彼と私たちの間に認識の相違(そうい)があってはいけない。姉さんは、じい——クレマンとアニーにはもう会ったかい?」

「ええ、リリアンちゃんに呼んでもらった時にね。二人とも私のことを覚えていてくれて、再会をすごく喜んでくれたわ。私もとっても嬉しかったわ」

「そうか、それは良かったよ」


「うちは、おれから親父に伝えてる。シャルロット殿はあなたの姉で、今は守護天使だってことも……です」

「そう……。あれ、なんか急に距離がよそよそしくなってないかい? 僕の気のせいかな?」

「あなたが年上なことを忘れてました。だいぶ今さらですけど、一応、態度を改めようかと」

「つまり、僕が若く見えたってことかい?」

「ああもう! やっぱりあんた、あの女の親だな! その楽観的な思考とかそっくりだ!」

「ははっ、そうだよ。親なんだよ。それでいいんだよ。今さら年上扱いされるのも気味が悪い」

「そこまで言う?」


「あとは、アスタロト殿とラファエル殿だな。ラファエル殿はみんな初見だろうから、僕から説明するとして」

「待ちなさい。なんて説明するつもりです?」

「アスタロト殿のご友人で、天使だよ?」

「わたくしが! わたくしから説明します! あなたは口を挟まないで下さい!」

「まったく、照れ屋なんだから」

「だまらっしゃい!」


 とても既視感を覚える二人のやり取りを見て、ジャンマルコは思わず自分の目をこすった。


「嘘だろ、アレクシス殿があいつと重なって見えた……。育ての親ってすげぇな」

「褒めても何も出ないよ?」

「嫌味だよ!!」

「……で、最後はアスタロト殿だな。といっても、ここには肝心のリリーがいないから、本人に訊くしかないんだけど。まずマルコ君は、父君になんて説明したんだい?」

「だからジャンマルコだ! ……そりゃ簡潔に『事件の真犯人は司祭長で、リリアンが父親を救う仮面(口実)に仕立て上げた悪魔がそいつだ』ってな」

「なんだか、わたくしが非常に不憫に聞こえるのですが」

「なるほど。で、リリーは君をなんて説明したんだい?」


「わたくしのことは……『地獄の王ルシファーが地上に混乱をもたらさんと放った悪魔を、地獄に連れ戻すために同じく地獄から出向いた悪魔』となっています。そして、たまたまそこで困っている娘と出会い、娘の父親を冤罪から救うために、悪魔憑きという嘘をついてでも護らんとする紳士だ……とも言っておりましたね」


「なんでお前、そんなすげーいい奴になってんの!?」

「何やら使用人を怖がらせたくないからとかで。とてつもなく品行方正な悪魔に仕立て上げられました」

「あいつ……っ」

「認識の相違が見つかったな。よし、リリーの案に寄せよう」

「待て、おれの説明の方が圧倒的に現実的だろ!」

「似たようなものじゃないか」

「いや、ちげーだろ! ……あ? 言われてみりゃ、中身はそんなに……?」

「もっと頑張りなさい、人間! わたくしの名誉のためにも!」

「よし、みんな準備はいいかい? なら、さっそくうちに帰って作戦会議だ」

「待ちなさい! わたくしの心の準備が——……ああ、もう好きにしなさい!!」


 アスタロトは、早々に折れた。

 ……思えば、ホーマン親子を前に己の意思が通ったことなど、一度でもあっただろうか。いや、ない。


 こうしてアレクシスを筆頭に、リリアンを救い出すための極秘作戦会議が執り行われることとなった。

 もちろん——当の彼女は、そんな騒動を知る由もない。













「リリアン・ホーマン、出ろ。これよりお前の身柄を異端審問所へ移行する」


 無遠慮に牢屋へと入ってきた兵の言葉を聞き、リリアンはようやくか、と思った。


(すぐ裁判にかけられると思ってたんだがな……)


 ローマに連行されてから、リリアンはまず地下の牢屋へと通された。どうやら裁判の準備と手続きが整うまでの間、ここで待機させられるらしかった。

 窓すらない地下牢では、当然ながら時間感覚も狂う。実際はほんの短い時間だったのかもしれないが、リリアンにとってはあまりに長く感じられた。


 そして今、ようやく解放される。

 しかし——その先に待っているのは、己の『死』であった。


(それでも『早く出たい』と思うのも、変な話だな)


 別段、死に急いでいるわけではない。だが、結末が解っているのにただ待たされる時間ほど無意味なものもない気がした。こういうせっかちなところを直さねばいけないのだろう。


(まあ……今さら直したところで、何の意味もないが)


 再び黒塗りの馬車に乗せられ、重々しい石畳の街並みをゆっくりと馬が進んでいく。

 その時、外から聞こえてきた激しい喧騒に惹かれ、リリアンが小窓から顔を出した——直後。


 額に、ガツンと激しい衝撃が走った。


 重い手枷を嵌められたままの手でそっと額に触れると、ぬるりとした感触が伝わる。……血だった。

 激しい痛みを感じたことで「恐らく自分の血だろう」と察し、リリアンはどこかホッと胸を撫でおろした。足元へ目をやると、拳ほどの大きさの石ころが転がっていた。


「この魔女め!!」

「早く火炙りにしろ!!」

「見ちゃ駄目よ!」

「死ね!」

「殺せ!!」


 耳をつんざくような罵詈雑言(ばりぞうごん)の嵐に、リリアンは思わず、場違いなほど柔らかく微笑んでしまった。

 これだ。まさにこれこそが、自分が望んでいた光景だった。


(もっと叫べ。石でも何でも投げるといい。……ああ、でも無理はするなよ? 肩を痛めたら大変だからな)


 今まさに、己の手に余るほどの大きな石を構えている婦人へ向けて、リリアンは心配そうに苦笑いを浮かべた。


 恨んでくれればいい。好きなだけ。

 殺された被害者の遺族は、この群衆の中にいるだろうか。……いたらいいなと思う。自分の惨めな姿を目に焼き付けて、呪って、祟って、少しでもその無念を晴らせたなら。


 そんなことを思いながら、集まった群衆を静かに眺めていた。

 やまない暴言と投石の中を馬車が進む中、母親の手に引かれた小さな子どもが、ポツリと呟いた。


「ねえ……なんでみんな、お姉さんを傷つけるの? ずっと、あんなに優しそうに笑ってるのに」


 子どもの呟きは、決して大きな声ではなかった。

しかし——まるで冷水でも浴びせられたかのように、一瞬にして周囲を圧倒的な静寂が包み込んだ。


 やがて、群衆の間で再び不穏なざわめきが立ち上る。

 けれど……もう二度と、リリアンに向けて石が投げられることも、罵声が飛ぶこともなかった。



 街中ではあのような猛烈な罵声を浴びせられたが、実際に審問所へと到着してみると、裁判は完全な非公開で行われるようであった。


 リリアンが裏の事情を知らないのは当然であったが、当時の異端審問は密告者を被告人に悟らせないためにも、人目のつかない密室でひっそりと執り行われるのが常であった。

 さらには原告すら存在せず、「誰が自分を告発したのか」という底なしの疑心暗鬼(ぎしんあんき)と孤独の中、激しい尋問を受ける恐怖が待ち受けているのだ。


 しかし、リリアンの場合はすでに自白済みであったため、手荒な尋問やすり合わせもなく、証人が淡々と罪状を読み上げ、裁判官が罪を問うという形式で進められた。


 薄暗い密室の中には、リリアンの正面に裁判官が一人、証人が一人、そして記録官が一人。

 さらにその背後には、判決後に被告人を拘留(こうりゅう)・連行するための刑執行人が静かに手持ち無沙汰に控えていた。

 本来であれば被告人の肉体を痛めつける尋問も担う執行人だったが、一切の抵抗すら見せず、従順すぎるリリアンの佇まいに、底の知れない不気味さを感じ取っていた。


「……リリアン・ホーマン。お前は悪魔と契りを交わし、義理の父親を利用して世間を悪質な偽召喚文書で騒がせた魔女である。相違ないか」


 契り? 魂を売り渡した、ということだろうか。

 若干の疑問は生じたものの、リリアンは深く頷いて返答した。


「はい。間違いございません」

「被告が記したという自白の手紙の写しがここにあるが、この内容は被告本人が書いたものと相違ないか?」


 差し出され、広げられた羊皮紙の文面を一瞥し、それにもリリアンは静かに肯首する。


「間違いございません。確かにわたくしが書いたものです。……まあ、それを清書に書き写したのは別の人間でしょうけれど」

「……我が国だけではなく、偽文書が出回った周辺諸国にも同じものが渡っているらしい。知っていたか?」


 それに対しては、綺麗に白(しら)を切る。


「まあ……それは存じ上げませんでした。やはり悪事というものは、いずれ白日の下に晒される運命なのですね」

「白々しい……! だが、仮に被告が企てたとしても、己で己の首を絞める行為に他ならん。これ以上の追及は無駄とみなす」

「賢明なご判断です」


「貴様は……己の犯した罪の重さが解っているのか……!?」


 突然、裁判官がバンと机を叩いて大声をあげたため、リリアンは少し驚いた。

 すべてを肯定して素直に従っているというのに、なぜこの男は怒っているのだろうか。


「解っておりますとも。わたくしは魔女です。悪魔を召喚して人々を恐怖に陥れただけでなく、偽の文書で世間に大混乱を招き、数多くの犠牲者を出しました」


「……証人!」


「はっ。ひとつ異議を申し立てるとすれば、被告は祖国において悪魔を退治して回っていた模様。そしてそれを目撃した者も複数おります。悪魔と契約しておきながら、その行動には明白な齟齬(そご)が見られるかと」


「被告、これはいかなる理由か」


「理由、とおっしゃられましても……手紙にも記したはずですが。それは単なる『仮面(口実)』ですよ。契約した悪魔とは別の下級悪魔を呼び出し、わたくし自らの手で葬ってみせることで、周囲の疑惑の目を逸らしたのです」


「では、なぜ今になって急に自白する気になった! 貴様の思い通り、誰も疑う者などいなかったはずだ!」


 リリアンははっきりと、しかし瞳の奥に狂気を孕ませて言い放った。


「飽きたのです」


 裁判官のみならず、部屋にいた全員が息を呑み、呆気に取られた。


「あ……飽きた? 飽きただと……!?」

「ええ、飽いたのです。もうこれ以上は、自分の望む地獄も見られそうにないな、と。ですから……もういいかなと思いまして」


「人の……人の命を、なんだと思っているのだ!!」


 激高し、咆哮する裁判官に向け、リリアンはくすくすと嘲笑(わら)ってみせた。


 ——ここからが、役者としての見せ場であった。


「人? 命? ……ふふ、それはどれほど大事なものなのでしょうね? あいにくわたくしはスラムで生まれ落ち、人として扱われてこなかったもので。どうやら『普通の人』とやらが持つ感情が、ハナから備わっていないようなのです」


「証人……っ!」

「ひ、被告人は、現在の義父に引き取られてからの十年間という年月、周囲から見ても疑いようのないほどの深い愛情を注がれて育っております……!」


「被告!」

「確かに、義父は溢れんばかりの愛情を注いでくださいましたわ。ですが——壊れた盃(さかずき)にどれほど上等な酒を注ごうとも、溜まることなどございませんでしょう?」


「つまりは無駄であったと……!? 貴様は、その義父に何一つ恩を感じなかったというのか!」


「いいえ? 義父は此度、とても役に立ってくださいましたよ。わたくしの代わりに偽の召喚文書を各国に手配するなど……身寄りのないただの小娘には到底できない芸当です。ああ、ですがそれも『悪魔が憑いた義父』でしたけれどね。彼の立場、人脈、そして人柄のおかげで、随分と楽に事が運べました。……わたくしは本当に運に恵まれました」

「……っ!」


 裁判官は怒りで顔を固ゆで卵のように真っ赤に染め上げ、全身を打ち震わせた。

 一刻も早く、この邪悪な化け物に極刑を処したい。当然、生きたまま焼き尽くす『火刑』だ。


 しかし、異端審問の厳格な順序だけは守らねばならない。裁判官は屈辱と怒りに苛まれながら、血を吐くような思いで声を絞り出した。


「被告……最後に言い残すことはあるか?」


「まさか、こんなに長く裁判がかかるとは思いもよりませんでした。まだ聞き足りないことはございません? これ以上わたくしの罪をお疑いになるのは、ご自身の無能を晒すだけでございますよ?」


「……っ! いいだろう、望み通り火刑に処してやる!」


 リリアンは、その判決を聞いてくすりと笑った。

 裁判官の目には、狂気の笑みにしか映らなかっただろう。


(……ようやく、終わった)


 アレクのことを持ち出された時は、胸が引き裂かれるように痛かった。嘘であっても、彼に恩を感じていないなどと口にしたくはなかった。

 だが、ここは舞台であり、自分は演者だ。そして今、ようやく一つ目の舞台から退場できる。


(次の舞台は、刑場だな……)


 ここでは判決のみが下され、実際の執行は俗世で行われる。

 ……そこにも、あの被害者の遺族たちが現れてくれるといいのだが。焼かれていく自分を見て、少しでも無念を晴らしてほしい。


 そんなことを、リリアンが静かに考えていた——その時だった。


 密室の唯一の出入り口である重厚な扉が、ギギギ……と不穏な音を立てて開いた。

 判決の最中は、何人たりとも立ち入ることを許されないはずの扉が、だ。


 驚愕して全員がそちらへ視線を向けると、そこにはリリアンにとって非常に見慣れた男が立っていた。


「よう、大根役者。……邪魔しに来てやったぜ」


 全身に正式な法衣を身に纏い、まさに正装で現れたジャンマルコは、そう言い捨てて室内へと足を踏み入れた。

 あまりの衝撃に声を失っているリリアンとは反対に、我を取り戻した裁判官が激高して声を荒らげた!


「この聖なる場を荒らすとは何事か! それも聖職者の身でありながら! 破門は覚悟しておけ!」


 破門、という言葉を聞いて、リリアンもようやく我に返る。


「マルコ殿! 何しに来たんだ……!」

「てめぇに文句を言いに来たんだよ、この馬鹿野郎が」


 リリアンを一蹴してから、ジャンマルコは裁判官を見据えた。

 そして首の後ろへ両手を回すと、身に着けていた十字架を静かに取り外した。


「これで満足ですか?」

「な……それを外す意味を理解してのことか!?」

「ええ。破門? 望むところですよ」


(え、破門はダメだろ! 望むな!!)


 心の中で必死に叫ぶリリアンの頭の上に、ジャンマルコは外した十字架をぽんと置いた。

 重力に従ってするりと落ちてくるそれを、リリアンは慌てて手枷のついた両手で受け止める。

 ——こら! 人を物置きにするな! という視線の抗議を完全に無視し、ジャンマルコは裁判官へと歩み寄った。


「神に仇なす者が……! 何をしにこの場へ来た! 貴様も異端にかけられたいのか!」

「リリアン・ホーマンは、無罪です」

「……は?」


「聞こえませんでしたか? 被告は無実です」


 はっきりと言い放つジャンマルコを、馬鹿めと鼻で笑おうとした裁判官だったが、その言葉は途中で詰まった。

 あまりにも、青年の瞳が真っ直ぐで真剣だったからだ。


「……根拠は」

「自己紹介が遅れましたね。私の名はジャンマルコ・デ・ニコラ。しがない異端審問官です。此度はローマ教会の命を受け、事件の真相を調査するためパリへと赴いておりました。……そこで、本当の犯人が判明いたしました」

「本当の犯人だと……!?」

「ええ。その者は被告の義父に罪をなすりつけ、難を逃れようとしておりました。そして、その義父の罪を拭わんと一芝居(ひとしばい)打っているのが、今そこに立っている馬鹿な被告です」

「ならば本当の犯人は誰だ! 連れてきているのか!?」

「連れて来られたら良かったのですがね。あいにくと、教会側に許可が下りませんでした」

「教会側? 許可……? ま、まさか……」


「犯人は、パリのカトリック教会——王室司祭長です」


 とんでもない高位の聖職者が犯人だと告げられ、裁判官はしばらく言葉を失った。

 しかし、カリカリとペンを走らせる音にハッと正気に戻ると、慌てて怒鳴り散らした!


「記録官! やめよ! 今の会話を記録するな!!」


 裁判官といえど、彼もまた教会の人間であった。

 即座に教会の不利益を悟ると、証拠となる記録を残させまいと醜い保身に走ったのだ。


「はっ……厳粛(げんしゅく)な裁判が聞いて呆れるぜ」


 それまでの礼儀正しい態度を一変させ、ジャンマルコは吐き捨てるように言い放つ。


「証拠は! 証拠はあるのか!!」


「ほらよ」


 持参した書類の束から、一枚をひらりと差し出す。


「司祭長の自白文書だ。本人直筆、ついでにサイン入りだ。……これで満足か?」

「こ、これをどうやって本物と証明する!」

「それを持って、本人に直接問い質(ただ)せばいいだろ」


 ちなみにそれは、アスタロトの威圧と監視のもと、脅して書かせた紛れもない本物であった。

 脅迫——もとい説得には相当手こずったものの、アスタロトが牽制してくれていたおかげで、なんとか手に入れることができたのだ。

 司祭長を犯人として突き出しても、教会側が簡単に罪を認めないことは百も承知であったが、それでもリリアンが代わりに火炙りに処されるよりは、遥かにマシだった。


「あと、これもだ」


 そう言って、残りの分厚い書類の束を裁判官の机の上にバサバサと散らす。


「被告の無罪を主張する奴らの嘆願書(たんがんしょ)だ。市民から貴族、兵隊まで揃ってるぜ。……そんな奴が魔女だと? 馬鹿馬鹿しい。この茶番劇、まだ続けますか?」


 嘆願書に次々と目を通す裁判官の顔に、たらりと嫌な汗が浮かぶ。


 まさか、こんな土壇場で判決を覆されるようなことがあってたまるか!


 最後の悪あがきのように、裁判官は重い口を開いた。


「証拠は……?」


「は?」


「司祭長の自白文書も、嘆願書も……本物だという証拠がどこにある?」

「はあ!? だからそれが証拠なんじゃねーか!!」

「解らんぞ? 魔女の怪しい力によって操られて書かされたのかもしれん」

「てめぇ……っ!」


「そしてお前もだ。魔女の毒気に惑わされたのだな、憐れな……。何、私から上に口を利いて、処分を軽くしてやろう。この文書たちの存在を黙っておく代わりにな」


 ジャンマルコは、目の前の男を殴り倒しそうになるのを必死で堪えた。

 ここまで教会が腐り切っているとは思わなかった。


「神は見ているぞ……!」

「神に背いたお前の言葉など、響かんな」


 劣勢から一転、見苦しい勝機を見つけた裁判官が言葉を重ねる。


「お前は何も見ていない。聞いていない。何も持ち込んでいない。……そうすれば、今回の無礼な乱入にも目を瞑ってやろう」

「我が身可愛さに、無実の人間を売れだと? ……ふざけるのもいい加減にしろよ、じじぃ」

「……ならば仕方がない。お前も異端として捕らえるまでだ!」


「くそったれが!!」


 ジャンマルコが激怒して吠えた、その時——。

 開け放たれたままの扉から、音もなくもう一人の人間が入ってきた。

 こちらは法衣など身に着けておらず、気品ある貴族然とした若い男だった。


 最初に気づいたリリアンの息が止まる。


 その男は、リリアンの頭をポンと優しく一度撫でると、足を止めることなくジャンマルコの隣へと並び立った。

 悔しさに歯噛みしていたジャンマルコが、驚いて隣を仰ぎ見る。


「こんなことだろうと思ったよ」


 肩をすくめ、呆れたようにため息をつく男こそ——アレクシス・ホーマンその人であった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。