〜最終章〜 その声はどこまでも響いた
いくら扉が開いたままになっていたとはいえ、あまりにも堂々と乱入してきた男に、裁判官の怒りは頂点に達した。
「執行人は何をしている!!」
「も、申し訳ございません! 気づいた時にはすでに……っ」
——嘘である。
本当は、扉の陰に姿を現した瞬間に捕らえようとしていたのだ。
最初に現れたジャンマルコは聖職者であったため見逃した部分もあったが、後に続いたこの男はどう見ても貴族であった。今度こそ捕らえようと踏み出した矢先、完全に目が合ってしまったのだ。
『……邪魔をするのか?』
そう問いかけてくるように細められた瞳に、計り知れない畏怖を覚え、思わず足が竦んで動けなくなったというのが真実であった。
「ええい! 役に立たん奴め! ……貴様も異端者を庇うというのであれば、同罪として裁かれると知っての行動か!」
「本当に異端者であればの話ですがね。……その前に、自己紹介を。わたくしはパリから参りました、アレクシス・ホーマンと申します」
「……っ」
ジャンマルコは、こんな場違いな状況でありながら、思わず感心してしまった。
……とても綺麗なイタリア語の発音だった。
(まあ、イタリア語が喋れるって言ったからここまで連れて来たんだがよ……)
リリアンを移送する馬車に間に合わせるため、ジャンマルコとアレクシスは一刻を争って馬を走らせていた。
ボニーベンナルト親父と使用人二人は追って馬車で到着し、ジャンマルコの実家で待機する予定だ。悪魔と天使たちに関しては『移動』という概念すらなく、裁判が終わった頃に合流する約束になっている。……もう二度と会わなくてもいいくらいなのだが。
ともかく、アレクシスには「危険はないから先に実家で待っていろ」と言い含めたはずだった。だが、本人が頑として『ついて行く』と言って聞かなかったのだ。最終的に折れたジャンマルコが「せめて外で待機する」ことを条件に約束させた……という経緯があった。
だのに、まさか裁判の最中に堂々と乱入してくるとは思わなかった。
——と、ジャンマルコは己の棚上げ行動を完全に棚に上げていることには、まったく気づいていない。
アレクシスの自己紹介を聞き、裁判官は目の前の男が誰であるかをようやく理解した。
裁判官の頭の中には、あらかじめ被告に関する情報が叩き込まれていたからだ。
「被、被告の義父か! なぜ被告に陥れられた被害者である貴殿がここにいる!? まさか……そこの魔女にたぶらかされたとでもいうのか!!」
裁判官の認識において、アレクシスは悲劇の被害者であった。
しかし——そう言い放った次の瞬間。
裁判官の顎が、強い力で締め上げられた。
静まり返った室内で、ミシリと骨が軋む不気味な音が響く。
「……黙れ。そして、よく聞け」
アレクシスの声は、凍りつくほど冷たかった。
「彼女は僕の娘だ。魔女などではない。……これ以上あの子を侮辱するようなら、いっそ二度と喋れなくしてあげようか?」
「あ、……っ」
「おい、落ち着けって! そもそもなんでここにいんだよ! 外で待機してる約束だったろ!」
本当に裁判官の顎を粉砕しかねないアレクシスの殺気を見抜き、ジャンマルコは焦って声を張り上げた。
すると、アレクシスは手元から視線を外すことすらなく、冷ややかに答えた。
「君がなかなか帰って来なかったからね。素直な君のことだ、どうせいいように丸め込まれているんだろうと思って来たんだよ。案の定だったね」
「誰が素直だ!」
「いいから、そこで見ていなさい。大人の駆け引きというものを教えてあげる」
言い終えると同時に、アレクシスはようやく裁判官の顎から手を離し、携えていた分厚い書類の束を机の上にドサリと広げた。
「証拠を欲していたね。だったら、それをあげよう」
嫌な予感を拭えぬまま書類を一枚手に取り、一通り目を通した裁判官は、喉の奥からひゅっと小さく悲鳴を上げた。
「こ、こ、これは……っ!?」
「司祭長ほどの者が、まさか教会のみならず国の金にまで手を出していたなんてね。まったく、嘆かわしいことだ」
芝居がかったように、やれやれと肩をすくめてみせるアレクシス。
彼が提示した書類には、此度の魔女騒動とはまったく無関係の場所で繰り広げられていた、あまりに醜悪な不正の数々が記されていた。
教会の備品を新調するという名目での資金集め、孤児や貧困層への施しと称した架空の寄付金——果ては、自分より地位の低い聖職者からの賄賂から、善行を建前とした国からの補助金に至るまで。あらゆる金の流れが、すべて司祭長個人の懐へと吸い込まれていたのだ。
過去に遡って洗っていたアレクシス自身、あまりの汚さに呆れ果てたほどである。
(あんたが言っていた保険って、まさか……)
ジャンマルコは開いた口が塞がらなかった。
それから、パリを発つ直前の出来事を思い出す。
一度かかった異端の疑いを覆すのが、どれほど困難か。それはリリアン自身も解っていたことだった。だからこそジャンマルコは、圧倒的な証拠を集めるために奔走したのだ。
司祭長を脅迫……もとい説得し、此度の真相を告白する自白書と、それを決定づける直筆の署名を手に入れること。
アスタロトに協力を仰げば手っ取り早かっただろうが、そこはむしろ悪魔本人が珍しく「手を貸しましょうか」と申し出てきたほどだった。しかし今回は遠慮させた。リリアンを救うための行動に悪魔が加われば、それこそ「やはり魔女ではないか」と疑いを深めさせるだけだからだ。
天使たちも同様であった。天使の威光など借りてしまえば、裁判どころかリリアンの存在そのものを消しかねない。「民衆から聖女として祭り上げられる前に」と、教会側が封殺に走る恐れがあったからだ。
結果だけ見れば、アスタロトの放つ圧倒的な恐怖政治が司祭長への「説得」に絶大な効果を発揮したわけだが……ともかく、街中から集めたリリアンの助命を乞う大量の嘆願書も揃い、あとは一路ローマへと向かうのみとなった、まさにその時だ。アレクシスが「あと一日待ってくれ」と言い出したのは。
『あとひとつ、保険が欲しいな』
その時は「何言ってんだ!」と彼に食ってかかった。いくら完璧な証拠を揃えようと、審問が終わり判決が下ってしまっては意味がない。それが解らないアレクシスでもあるまい。むしろ誰よりも焦っているのは彼のはずだった。
しかしアレクシスは、「一日で構わない」と頑として譲らなかったのだ。
(まさか……こんな恐ろしい代物を、たった一日で用意してきたのか!? それも、たった一人で……!?)
味方としてはこの上なく頼もしいはずなのに、ジャンマルコは背中を伝う冷や汗を止めることができなかった。
アレクシスは単身で司祭長の過去の金の動きを徹底的に調べ上げ、横領の動かぬ証拠を掴むや否や、その過去の罪までも本人に吐かせたのだ。いったいどんな手を使い、どんな顔で追い詰めたのやら。
そして、ジャンマルコが息を呑んだのはそれだけではなかった。
「腐っても彼は王室司祭長だったからね。身柄を押さえるのには少し手間がかかったよ。……王から直々に許可を貰ったりしてね」
そうなのだ。この男は、一国の国王とも対等に渡り合っているのだ。
男爵という下位の貴族でありながら即座に謁見を望み、そして王もまたその呼び出しに応じている。それだけで、彼と王室との間にどれほど強固で深い信頼関係が存在するかが透けて見えた。
絶句するジャンマルコを余所に、アレクシスはなおも酷薄な演技を交えて言葉を重ねる。
「あとは、彼の身柄を正式に教会裁判所に移行するだけなんだけど……」
そこでアレクシスは一度言葉を切り、静かに、けれど逃げ場を塞ぐように告げた。
「彼の罪を『司祭長』として裁くか、……それとも『元司祭長』として裁くかは、君たちの選択次第、ということになるかな?」
(ぎゃあー!!)
ジャンマルコは心の中で絶叫した。
アレクシスは今、明確に脅迫しているのだ。
「教会の信用を世間的に失墜させるのも、破滅的な大打撃とまではいかずとも冷めた視線に晒される程度で済ませるのも、すべてはそっちの胸三寸だぞ」と。
容赦という概念が、微塵も存在しなかった。
裁判官は、今にも歯が砕け散りそうなほどの形相で血走った目を剥いている。
「き、貴様が望むのはリリアン・ホーマンの無罪であろう? ならば引き換えに、司祭長の身柄をこちらに渡してもらおうか。彼はここローマ教会において厳重に判決を下す」
「そんな、生ぬるい……!」
アレクシスは可笑しそうに笑った。だが、その瞳には一切の光も浮かんでいない。
「そんなことをしたら、君たちはどうにか口実を作って彼を逃がしてしまうだろう? ……過去の悪事の隠蔽くらいなら、見逃してあげてもいい。けれど、今回の件だけは絶対に駄目だ。白日の下に晒し、奴にはしっかりと身をもって償わせる。裁くのはそれからだ。身柄を渡すのもね。……だからまず示せ。どうするのかを、今、この場所で」
彼を『聖職者』という肩書きのまま教会の闇の中で処理するか。それとも、聖職者の身分を剥奪してただの罪人として俗世の法で裁かせるか。
二つに一つを選べと、アレクシスは突きつけているのだ。
裁判官は内心で激しく頭を抱えた。
教会側としては、どちらを選ぼうとも醜聞を避けることなど不可能だ。
——教会の刑、アレクシスの言うところの「教会裁判」とは、ローマ教皇庁直属の最高法廷を指す。当時、高位の聖職者を裁く権利を有していたのはそこだけであった。しかし聖職者に対して死刑が適用されることはなく、最も重い刑であっても「聖職剥奪ののち、俗世への追放」である。
「そ、それは……また後日、上層部と話し合ってから……」
「今、選べ」
取りつく島もなかった。
教会から罪人を出す訳にはいかない。本来ならば罪を犯した司祭長を、存在ごと隠蔽しただろう。しかし「それは許さない」と、先に釘を刺されてしまった。
となれば、残るは司祭長から聖職を剥奪して俗世へと引き渡すことになる。が、それでも、世間からは保身に走ったと冷たい目で見られるのは間違いない。
(くそっ、どうしてこうなった!)
結果など端から見えていた、ごく簡単な異端審問のはずだった。
それが、最初に乱入してきた青年の登場から狂い始め、この男の出現で完全に崩壊したのだ。
(あの若造は絶対に破門にしてやる……!)と内心で苛立ちをジャンマルコへぶつける裁判官。
……そして、そこでハッと我に返った。
(待て……この男は、貴族だ)
それも、せいぜい男爵位に過ぎない。
そんな取るに足らない存在に、なぜ自分ほどの者が怯えているのだと、己を強引に鼓舞する。
——もしこの時、ジャンマルコが裁判官の思考を読み取れていたなら、「やめておけ!!」と喉を引き裂かんばかりの声で静止したに違いない。
「……先ほどから言わせておけば! たかが男爵位の男に、どれほどの民が耳を貸すというのだ! ここ教皇聖下のおわす聖なるローマ・カトリック教会において、それ以上の不遜な態度は断じて許さん! 己の立場を弁えよ!!」
裁判官が威勢よくそう言い切った瞬間——。
ジャンマルコは、背筋が急速に凍りついていくのをはっきりと感じた。
アレクシスが、静かに笑い出したからだ。
くっ、くっ、と肩を揺らして低く笑う男の姿に、裁判官もまた、遅まきながら底知れぬ恐怖を察知したらしい。
怒りで真っ赤に染まっていた顔面が、一転して死人のように真っ青へと変わっていった。
「なるほどなるほど。一介の貴族は口を挟むなと。証拠も証言も、他国の男爵風情の言うことには聞く耳すら持たない……と、そういうことなんだね?」
「あ、いや……」
「いやあ、反省したよ。そうか、僕には反省が足りなかったんだ。最初に司祭長に嵌められた時も、もっと強く抵抗していればよかった。そうすれば家族に迷惑をかけることもなかったのにね。……しかし立場や身分というのは、どこに行ってもついて回って厄介なものだな。貴族のしがらみも面倒だと思っていたけれど、教会での階級制度も中々に面倒そうだ」
「……い、いったい何の話を……!?」
「だから——『立場』が問題なんだろう?」
そう呟くと、アレクシスは右手の白手袋の端へゆっくりと指を掛けた。
「これを使わずに済むなら、それに越したことはなかったんだけどね。君があんまり頭が固いから、仕方がないじゃないか」
「……っ!」
すわ暗器でも隠し持っていたか、と裁判官は反射的に両腕で顔を庇った。
(そんな訳ねーだろ)とジャンマルコは呆れたものの、それもほんの一瞬のことであった。次の瞬間には、彼自身も衝撃のあまり目を見開くことになる。
やがて、攻撃が来ないことに安堵した裁判官も、恐る恐る顔を覆っていた腕を下げた。
そして——目の前に突きつけられた『それ』を目撃し、絶句した。
「次の王室司祭長は、この僕だ」
その静かな宣言とともにアレクシスが見せつけたのは、右手の手のひら中央に刻まれた——痛々しくも美しい、貫通した聖痕であった。
後ろに立つジャンマルコにもはっきりと理解できた。かつてイエスが十字架に打ち付けられた際、釘で貫かれたとされる傷痕そのものであることが。
聖なる領域に身を置く者であれば、直ちにひざまずいて平伏してもおかしくはない、紛れもない『奇跡』がそこにあった。
「そ、そんな……まさか……! 貴様、いやお前……いや、貴殿は、確か男爵では……!?」
「『まだ』、ね。今もパリでは着々と手続きが進んでいる最中だよ。……まあ、王から許可を貰うのには相当骨が折れたけどね。これを機に教会の膿をすべて出し切ってしまいたいから、と……それでようやく納得していただいたよ。あとは、このあと教皇聖下からのお許しをいただくだけだ。一番の目的は娘の解放だったけど、ここに直接出向くことができたのは、実に都合が良かったよ。そういう訳だから……パリへ戻ったら、君と同職だ。よろしくね」
そう言って、アレクシスはどこまでも朗らかに、ニッコリと微笑んでみせた。
反対に、裁判官のガタガタと激しく震えていた。
今まで生きてきて、聖痕という真の『奇跡』をこの目で直視したことなど一度たりともなかったのだから、無理もない。
聖人が直接異議を申し立てている裁判? ——無効に決まっている。
そして、先ほど彼が提示した「どちらかを選べ」という二者択一すら、あまりに寛容で慈悲深い処置であったのだ。聖痕を宿し、次期王室司祭長となる男であれば、自身の一存だけで司祭長の身柄も裁判の行方もどうとでも料理できたのだから。
……その恐ろしい事実に気づいた時には、すでに何もかもが遅すぎた。
「君に決めて貰おうと思ったけど、あまりにも駄々を捏ねるから仕方がないね。――現司祭長は事件の真犯人として世間に晒し、身分も明るみにして教会裁判にかける。もちろんそこで聖職は剥奪されるだろう。そしてしかるのち、俗世の裁判にかける。次はただの一般人として。――判決が楽しみだね?」
最悪だと裁判官は思う。最悪の展開になってしまった。
教会、ひいては我らの聖域から犯罪者を出し、あまつさえそれが世間に晒される結果になってしまった。そして、「楽しみだ」と哂う男にぞっとする。そんなもの、俗世に落とされれば極刑に決まっている。高位の聖職者だった者が、こうもたやすく破滅させられる現実に、恐怖で震えが止まらなかった。
「き、貴殿もこれから同じ聖域に身を置く者でしたら、もっと慎重にお考えになられた方がよろしいかと……!」
「考えたよ? だって、家族と一緒に暮らせなくなるんだよ? 『俗世とは離れろ』ってさ。いっそ聖痕のことも黙っていようかと考えたくらいだよ。でも、ほっとけば司祭長は教会に庇われるだろうし、教会も腐敗したままじゃないか。だから、仕方がないから次の司祭長の役目を担うことにしたんだよ」
「仕方がない!? 神に選ばれておいて、そんな口を叩くのか!」
「言うよ。なんなら、その神もご存じさ。僕はもともと、そこまで信心深い質じゃなかったんだ。それが、リリーが連行されたその夜かな? この痕と共にお告げがあったのは。『神を疑う僕だからこそ、客観的に教会の在り方を見られるだろう』ってね。『そんな僕に教会を正せ、そのための奇跡を与える。僕ならば正しく使うだろう』って。だから『どうしてそんなに僕を信じるんだい?』って訊いたんだ。そしたら、『ずっと見ていたからだ』ってさ」
——お前がどう生きてきたか、見てきた。辛い試練も乗り越え、孤独な少女の心も救った。その生き様を称えよう。
「『生き様』って言われてもさ、僕まだ三十二だよ? ちょっと期待しすぎじゃないかな。それに、見てたんなら戦争くらい止めてよっても思ったよ。でも、神もそこまでは介入できないみたいだね」
アレクシスは、自身の右掌をじっと眺めながら続けた。
「そりゃあもちろん、男爵がいきなり高位の聖職者にとっていくだなんて前例はなかったよ。でも、僕の生い立ちってちょっと変わっていてね。そこそこ歴史がある家系で、それこそ王様が代わる方が多かったくらいなんだ。それでまぁ、実は——伝手と財力は公爵家よりあるんだよ。そして何より、ありがたいことに国王からの信用が厚くてね。そういう事情もあって、一足飛びに司祭長になったんだ。まだ何か聞きたいかい?」
裁判官は、ぶるぶると首が取れそうなほど激しく左右に振った。
「なら、この裁判は終わりだね」
コクコクと、裁判官は頷く。
「娘は連れて帰るよ」
コクコク。
「…………さっき、ちらっと見えたんだけどさ。娘の額に、小さな傷があったんだよね。……君たちの誰かがやったの?」
ブンブンブンブン!!
「ならいいけれどさ……。ここに来るまでに市民が興奮していたから、もしかして彼らかな……?」
「し、市民にだけは手出しを……!」
そこは腐っても聖職者らしく、民を護ろうとする裁判官を、アレクシスは冷ややかに睥睨する。
「口が利けなくなったのかと思ったよ。手を出すわけないだろ。彼らはリリーが冤罪だなんて知らなかったんだからね」
(まったく。次に何か投げるなら司祭長にしてよ。もうすぐ元司祭長になるけどさ)と、到底実現不可能な無理難題を心の中で呟きながら、アレクシスはリリアンとジャンマルコの方へと振り返った。
「お待たせ二人とも。帰ろうか」
今度こそ含みのない笑顔でアレクシスは言った。
三人が退室するまで、室内に残った全員が首を垂れていたのは余談である。
「アレク……あの、」
もうすぐで狭い暗道を通抜き、広間へ出ようとしていた時だった。
リリアンは無言のまま先を歩き、自分の手を強く引っ張っていたアレクシスの背中に、恐る恐る声をかけた。
そこでようやく足を止めてはくれたものの、彼は振り向こうとしない。
(やはり、相当怒っているのだろうな……)とリリアンが申し訳なさそうに俯いた——その瞬間。
突然、正面から力強く抱きしめられた。
『抱き潰された』と言った方が正しいかもしれない。それほどの力であった。
「……言いたいこと、たくさんあったのにさ。どうしてかな……何言おうとしたか、全部飛んじゃったよ。……生きててくれて、本当によかった……っ」
先ほどまでの恐ろしい凄みとは別人のように、弱り切った声で呟くアレクシス。
その背中に触れたリリアンの目にも、一気に熱いものが込み上げてきた。彼女はぎゅっと唇を噛み締め、それを必死で堪える。
「ごめん……本当にごめんなさい。……たくさん心配をかけて……」
同じように背中へ手を回してそう呟くと、アレクシスの腕にさらにぐっと力がこもった。
「本当にだよ。……でも、元は僕が招いた種だ。僕を護ろうとしてくれて、ありがとう。——僕の騎士」
その言葉に、ついに涙腺が崩壊し、リリアンの瞳からとめどなく涙があふれ出した。
「アレク! 私は……怖くなかったんだ! 裁かれることも、処刑されることも……っ! だけど、アレクやみんなと二度と会えなくなるのは……それだけは嫌だって……! だから、考えないようにしてたんだ……ずっと……!」
「うん」
「また、会えて……嬉しい。とっても……っ」
「うん」
アレクシスは、自分の胸の中で幼子のように泣きじゃくるリリアンの頭を、慈しむように優しく優しく撫で続けた。
「……君の憂いは、これで全部消えたかい?」
「っ……ああ! ありがとう、アレク!」
これで司祭長が教会の闇に紛れて逃げ延びることはできなくなった。
真犯人の罪が白日の下に晒されれば、あの被害者遺族たちの無念も、幾分かは晴れるだろう。——そう願いたかった。
「本当に……どこまでも献身的なんだから。むしろリリーの方が神に選ばれるべきじゃないのかい? 主も見る目がないなぁ」
「私には無理だ。だって私は、あなたを護るためなら悪魔とだって仲良くできる人間だぞ? 神だって信用できないさ」
「ふーん……アスタロト殿と、そんなに仲がいいんだ?」
「ああ! 大の仲良しだ!」
ここにいないアスタロトは絶叫した。『それ以上はやめてください! あなたの父君の顔をご覧なさい! 「あいつどうしてやろうか」という恐ろしい表情が目に入らないのですか!!』……と。
リリアンはアレクシスの身体からそっと離れると、彼の右手を取った。
この手袋の下には、あの聖痕がある。リリアンの位置からははっきり見えなかったが、それでも掌を貫通したかのような赤い痕が、手の甲側にまで透けて見えた。
……掌の傷は、どれほど痛々しいものなのだろうか。
そんなことをぼんやりと考えていると、「どうしたの?」とアレクシスが顔を覗き込んできた。
「いや……驚いてな。聖痕のこともそうだが、アレクが次期司祭長だなんて」
「ね、驚くよね」
「いや、当人が他人事みたいに言うな!」
突然始まった親子の熱い抱擁に、(……少し行き過ぎてないか?)と密かに胸を痛めつつ、それを『気のせいだ』と誤魔化していたジャンマルコだったが、ここでようやく正気に戻った。
そして、水を得た魚のように勢いよくツッコミを入れ始める。
「なんなんだよ、さっき言ってた『大人の駆け引き』って! 最終的に権力と奇跡を使ったゴリ押しだったじゃねーか!!」
「使えるものは何でも使うのが、大人のやり方だよ」
「堂々と汚い発言すんな! ……はっ、まさかその聖痕も、自分で傷を付けたんじゃあ……」
「そこまで自虐的じゃないよ。失礼な子だなあ。お告げも本当さ。リリーを無事に助け出せたからいいけれど……これからが面倒だなぁ。だいたい、伯爵の地位を返上したのだって貴族社会のしがらみが面倒だったからなのに、次は聖域だって? 僕はただ、つつましく暮らしたいだけなのにさ」
「……主よ、なぜこんな身も蓋もない男を選ばれたのですか……っ」
「君たち教会がしっかりしないからでしょ?」
「ぐっ……何も言えねぇ……」
ジャンマルコはガックリとうなだれた。
教会の腐敗については、自分自身が一番身にしみて痛感していたからだ。
……それにしても、とジャンマルコは呟いた。
「ただの自宅謹慎で済むとはな……」
異端審問の場に無断で乱入することが、どれほど重い罪であるか。
たとえ被告人が冤罪であったとしても、あの密室の扉を開け放った時点で、聖職者であれば即座に破門が確定するほどの重罪なのだ。
「そうだぞ! マルコ殿だって無茶をしすぎる! 『破門も望むところだ』なんて言って……こっちの心臓が縮みあがったんだぞ!」
「じゃなきゃ、あの場に入れなかったんだよ!」
「だから、入ってくるなと言っているんだ!」
「そしたら、てめぇがそのまま有罪になんだろーが!!」
「自分を大事にしてくれと言っているんだ!」
「だったら、もう二度とあんな馬鹿な真似すんじゃねぇぞ! おれだって、次は謹慎じゃ済まねぇんだからな!」
——まるで、二度目があってもまた助けに来るような物言いだった。
「なぜ……そこまでするんだ。私とはまだ、会ってからそれほど経っていないだろう。……君の正義感か?」
「うるせぇ! この鈍感女が! もうこの話はすんな!」
「どん……?」
「リリー、もうその話はやめよう?」
「え……? アレク、だが……」
「言っておくけど、君も僕と同じく『聖域』の者になるんだからな」
「……わーってるよ」
ジャンマルコのトゲのある言葉に、リリアンはハッとした。
聖域! そうだ、聖域だ!
「アレク! 結婚は!? 跡継ぎはどうするんだ!? ホーマン家の家督はどうなってしまうんだ!?」
この人間世界には、二つの領域が存在する。
教会をはじめ神を頂点に抱く『聖域』と、王を頂点に頂く『俗世』だ。そして、聖域にその身を捧げる者は、俗世のすべてを捨て去るのが厳格な習わしであった。
「大丈夫だよ。あの屋敷はそのまま使っていい。もちろん『じい』とアニーも、使用人のままで大丈夫さ。……ただ、リリーには僕の代わりに、彼らの『主人』になって貰わないといけないけれどね」
「どういうことだ……! 私には、貴族の血など一滴も流れていないんだぞ!?」
「それさぁ……そんなに気にすることかい? アスタロト殿からも聞いたよ。ずいぶんと僕の血筋のことを気にしてくれていたみたいけれど……本来なら僕は六歳の時に死んでいてもおかしくなかったんだ。姉さんに助けられなければ、僕の血筋なんてあの瞬間に途絶えていたくらいの代物さ」
「だからこそ! なおさら大切なんじゃないか……! 私は……あなたがいつか結婚して世継ぎが生まれたら、家を出る覚悟だってあったんだ。もし新しい奥方が、私の存在を煩わしく思うのなら……」
「……リリーを邪魔者に思うような女性とは、絶対に気が合わないし政略結婚でもお断りだね。……って、何をいらない覚悟を決めていたんだい。そういう大事なことは、もっと早く言って欲しかったよ」
「それだって……アレクは私に気を遣って、結婚もしないんじゃないかって思っていたから……」
「……もう、この子は……」
アレクシスは深々と大きなため息をつくと、呆れと愛おしさを込めて、リリアンの頭をコンと軽く小突いた。
「僕は何かを我慢するのは大嫌いだ」
「言い切りやがった」
「君は黙ってて」
ジャンマルコは即座に口を閉ざした。条件反射でつっこんでしまうのだ。
「だから、結婚しないのは本当に興味がなかったからだし、世継ぎも無理に作ろうとは思っていなかった。なんなら、君を迎え入れた時点で世継ぎの心配すらしなくなっていたよ。まあ……君が誰かと添い遂げるとなったら、相手が誰であろうと全力で反対しただろうけれど」
「……反対したら、世継ぎも産めないんじゃないのか?」
「やめてよ! 想像もしたくない! だからリリーが男装してくれていても好都合だと思ったんだよ。結婚が遅れるってじいとアニーも心配していたけれどさ、もういいじゃないか。遅れたなら、ずっと僕たちと一緒にいればいい」
「私もその方が嬉しいが……一緒に住めるのか?」
「そこだよ、もー! 僕が一番『聖職』を嫌がった部分! 一緒に住めないとか聞いてないよ! いや、聞いたんだけどさ、聖職を受け入れてから言うのは反則でしょ! 嫌だ、みんなと一緒に暮らしたい……」
「私もだよ。でもアレク……それでも、アレクはパリにいてくれるんだろ?」
「もちろん。司祭長の部屋を使うのは癪だけれど、宮廷で過ごすことになるよ」
「なら、毎日会いに行くよ。……会えるんだよな?」
「もちろん! 何を差し置いても会うよ!」
「仕事は途中で投げるなよ?」
「ええ……」
「教会の見本になるんだろ?」
「見本というか……悪いことをしないように見張るというか」
「重責じゃないか。私はあなたが神を信じていなかったのを知っている。そんなあなたが神に選ばれた。私は、それがとても誇らしい」
「う……」
「これからも私の誓いは永久だ。私はずっと、あなたを護る騎士だ。もし教会で困ったことがあったら、すぐに頼ってほしい。力の限り助けになる。俗世には俗世のやり方があるだろう?」
「見てごらんマルコ君。僕の娘がこんなにも王子様だ」
「アレク、違うだろ。騎士だ」
「もちろんだよ。僕の愛する騎士」
アレクシスの返答に、満足そうに微笑むリリアン。
そこに、ジャンマルコが軽く片手を挙げた。
「どうした?」
「発言の許可を取ってんだよ」
「いつでも話せばいいだろ」
「お前の親父にだよ!」
「なんだい?」
「いや、あんたらこれからどうすんだよ。親父とクレマン殿たちはまだ到着すらしてねぇだろ」
「なあ」
リリアンは、そこでずっと気になっていたことを口にした。
「君は、私の名前を呼ばないよな」
「…………」
「僕も呼ばれたことがないな」
「いやあんたはあるぞ! たぶん! 作戦会議の時とか!」
「そう……だったかな?」
「じゃあ、私の名前をなぜ呼ばない? さすがに気づくぞ」
「いや……」
ジャンマルコは知らなかったのだ。
異性の、それも少し気になる相手の名を呼ぶ行為が、これほどまでに恥ずかしいものだということを。
そう、つまりはただ単に照れくさいだけなのである。しかし、今になって直接指摘されるとは思ってもみなかった。
「そ、そのうち……呼ぶ、と、思う……たぶん」
「私の名前を覚えているか?」
「そこまで馬鹿じゃねーよ! リリアンだろ! 法廷でも言ったじゃねぇか!」
「そうだ。そう呼んでくれ。リリーでも構わない」
「……っ!」
「マルコ君、聖域に入ってもリリーの父親は僕だからね?」
「わーってる!!」
最大かつ最強の障害は、お互いの立場などではなく、絶対にこの父親である。
(いや、障害って……何考えてんだ、おれは……!)
ジャンマルコは強引に話を逸らそうと、否、正しい道へ戻そうと声を張り上げた。
「それよりもどうすんだ! 宿とか借りるなら、紹介くらいはしてやるぜ!」
その申し出に、リリアンとアレクシスは同時に顔を見合わせた。
目で会話を交わしたのち、ジャンマルコへ向けて各々が告げる。
「いずれは宿を借りるだろうけれど、せっかくだから君のお母さんに挨拶させてよ」
「私もそう願う。ご子息を謹慎に追いやった原因は私だ。せめて謝罪させてほしい」
「え?」
「母君は……私たちが押し寄せたら困るだろうか?」
「そりゃあ……」
心配そうに覗き込んでくるリリアンを見て、ジャンマルコは思わずたじろぐ。
そして、己の実家と、今まさに家を守っている母親の顔を思い浮かべた。
『いらっしゃあい! あら、マルちゃんが女の子連れてきてるわ! さすがアタシの息子! やるわねぇ!』
(いかん……お袋の幻聴まで聴こえてきやがった……!)
「やはり……困るのか……」
「ちげぇ!!」
ジャンマルコは肺いっぱいに空気を吸い込み、思いきり叫んだ。
「―――大歓迎される!!!!




