〜幕 間〜 手紙
「ホーマン男爵、突然で申し訳ありませんが、部屋をご用意いたしましたので。……そちらへ移動願えますか?」
「は?」
乱暴に牢へ放り込まれたかと思えば、一夜にして周囲の対応が激変した。
正確には、二日目の夜を迎えようとしていた頃だったろうか。窓がないため肌感覚だが、おそらくそれくらいだと思う。
「何を企んでいる」
「いえいえ! 企んでいるなどと! 自分は詳しくは聞かされていないのですが、司祭長様からあなた様を『最上級に丁重に扱うよう』と厳命されまして。とりあえず、お部屋までお送りいたします」
アレクシスは牢番が南京錠をいそいそと外すのを、唖然と眺めていた。
(どういう心境の変化だ?)
謀略が頓挫したのか。しかし、昨日自分が知る前に、あのおぞましい召喚文書は国外にまで流出し終えていたはずだ。――己の、アレクシス・ホーマンという名と共に。
(今さら止められるはずもない。いったい、外で何があったんだ)
考えを巡らせている内に、案内された部屋へと着いたようだ。
通された室内を見渡し、再び唖然とする。まるで国賓に与えられるような、目も眩むほどの豪華さだった。事実、そこは宮廷内にある、外国の賓客を滞在させるための最上級の客室であった。
「おい、牢番」
「ひっ、申し訳ありません! 自分は本当に何も聞かされていないのです! もう間もなく司祭長様がお見えになりますので、ここでお待ちください!」
そう言い残し、牢番の男はそそくさと部屋を後にした。
怯えられているのが明らかな上に、絶対に何かを知っている様子だったが、逃げられては仕方がない。鍵も掛けられずに閉じた重厚な扉が再び開くのを、アレクシスは手持ち無沙汰な心地で待った。
しばらくすると、静かなノックの音が響いた。
「アレクシス殿、わしだ。……入っても良いか?」
「司祭長。ええ、どうぞ。心待ちにしていましたよ」
扉から司祭長が顔を出す。――顔面蒼白で。
「いや、すまなんだ。突然のことで、さぞ驚いていることだろう」
「…………はい」
司祭長が来たら洗いざらい吐かせてやろうと思っていたが、ここまで顔色が悪く、滝のような冷や汗を流している姿を目にすると、逆にこちらの気持ちが凪いでしまった。
「アスタロト様、これで……これでよろしいのですね?」
「ご苦労です、人間」
もう一人、いたのか。初めて聞く声音に扉を注視する。
すると司祭長の背後に、この世の者とは思えないほど美しく整った顔をした男が立っていた。それこそ、本物の天使と見間違うほどに。
「司祭長、彼は?」
「貴殿には悪いことをした! どうか事態が収まるまでここで過ごしてはもらえないだろうか。もちろん不便は掛けん! 貴殿の家族にも、今後一切の手出しをしないと神に誓う!」
「いや、ですから彼は……」
「王にはまだ、あの計画のことも貴殿のことも話していない。まだ間に合う! 貴殿が無事に家に帰られるよう助力は惜しまぬ! 知らなかったのだ、貴殿が――」
「余計なことは言わないでもらえます?」
「はい! 申し訳ございません!」
「あなたの役目はここまでです。あとはこの人間をわたくしと思って、丁重に扱いなさい」
「はい! ……その、そうしたら」
「ええ、約束通り、百の悪魔とともに大人しく地獄へと帰りましょう」
「あ……ありがとうございます、ありがとうございます……!」
「そろそろ、彼と二人きりになりたいのですが」
「はい! 邪魔者はただちに消え失せます!!」
還暦を過ぎたとは思えない速さで身を翻し、文字通り逃げ去っていく司祭長の後ろ姿を、アレクシスはただただ呆然と見送るしかなかった。
「さて、人間」
謎の男が言いながら取り出したものに、アレクシスは首を傾げた。
傾げた首が、さらに直角まで傾くのは仕方のないことだった。なぜなら彼の手には、暖炉用の大きな『火バサミ』が握られていたからだ。いや、一体どこから出した。
そんなツッコミを必死に呑み込んで動向を見守ると、手紙らしきものを先端に挟んだ火バサミが、己の方へとずいと突き出された。
「受け取りなさい」
「僕は猛獣か」
「わたくしは訳あって、あなたに近寄ることができないんです。いいから早く受け取りなさい」
「はあ……」
なぜ近寄れないのかと様々な疑問は湧いたが、とりあえず火バサミの先から手紙をもらい受ける。
それは上質な封筒に入ってはいたが、蝋で閉じられていなかった。訝しげに中身を取り出す。丁寧に折り曲げられた便箋だった。
いったい誰が、と開いた瞬間、そこに見慣れた文字が並んでいるのを見て、アレクシスの目が限界まで見開かれた。
『愛するアレクシスへ。
これを読んでいるということは、無事牢から出して貰えたのですね。それでも、あなたの危機にすぐに駆け付けられなかったことが、とても恨めしい。これからは、あなたに傷ひとつ負わせはしません。クレマンもアニーも、私も、もちろん無事です。何も心配なさらないでください。
さて、あなたと別れてから何が起こったのか、私が何をしたのか――あなたに怒られるのも覚悟で、今、このペンを握っています。すべてを読み終えたあなたは、私を疎ましく思うかもしれません。嫌ってもいい。勘当してもいい。その処罰は、無事に帰宅した、あなたの口から直接聞かせて欲しい』
(馬鹿だな。嫌うわけないのに)
勘当など、もってのほかだ。
まだ手紙の序盤だというのに、彼女の悲壮なまでの覚悟が見えて、胸が詰まるように苦しかった。クシャリ、と手紙を持つ手に力が入り、小さなシワが寄る。
「あ、握り潰すのはやめてくださいね。わたくしが館に帰ってから、あの娘に怒られるんですから」
台無しである。というか、完全に置物扱いしていた。あの男の正体もここに書かれているのだろうか、とアレクシスは続きを読む。
『ちなみに、この手紙を届けたのはアスタロト殿といって、彼が言うには地獄でも相当偉い悪魔だそうです』
アレクシスは盛大に噴き出した。
「げほっ、けほっ! は、はあ!?」
それからアレクシスは、悪魔と書かれている人物の方をマジマジと見つめた。
「なんです?」
「君……本物の悪魔なの?」
「どこからどう見ても悪魔でしょう。ああ、解ります。美しすぎて天使とよく間違われるのでね」
「いや、見た目だけはね。しゃべってみれば、あ、違うなって一瞬で思ったけど」
「親子揃って失礼極まりないですね!」
「しかし、悪魔って本当に存在したんだな」
文献の中だけの存在かと思っていた。あるいは、子どものしつけによく使われる便利な偶像かとばかり。
「言っておきますが、今外は悪魔だらけですよ。まぁ、わたくしと違って下級の悪魔ですが」
「待て! それは、僕の家族は無事なのか!?」
「あなたの御息女が、外でバッタバッタと片っ端から斬り捨ててますよ。一体どういう教育をなさっているのですか」
「さすが僕のリリー、本当に頼りになる」
「…………」
しょっぱい顔で閉口した悪魔を尻目に、手紙を読み進める。
『今、パリの街はコウモリのような悪魔が飛び交っています。でも安心してください。相手にもなりません。まだあなたとの剣の稽古の方が、よほど腕が鳴ります』
え、なんかちょっと残念がってる?
『話が逸れました。アスタロト殿は、このコウモリのような悪魔――面倒なのでコウモリと略します。コウモリたちを地獄に帰すためにやって来たそうです。そもそもこの事態を招いたのは司祭長だと知っています。詳しく書くと長くなるので割愛しますが、アスタロト殿とは利害が一致し、今、共に暮らしています。彼は安全なので心配はいりません』
アレクシスは再び、激しく噴き出した。
「貴様ぁっ! まさかリリーに手を出してないだろうな!?」
「馬鹿も休み休み言ってください! 一体何が書かれているんですか、わたくしに見せなさい!」
「嫌だ! まだ僕が読んでいるだろ!」
「駄々っ子ですか! まず全部読んでみなさい! 早合点しているんじゃありませんか!?」
悪魔の言葉にそれもそうかと、視線を手紙へと戻す。
『あ、誤解しないでくださいね。共に暮らしているのは本当ですが、宿として貸しているだけです。部屋もちゃんと客室を使って貰ってます』
なんだ、そうか。アレクシスは心の底からホッとしたが、それでも同じ屋根の下というのがどうにも気に入らない。そういえば、さっき百の悪魔と帰るとか言っていたな。まぁ、百はおおよその数だと思うが。
『あなたを無罪にする為、彼の仕事を手伝うことにしました。コウモリたちは物理的な攻撃が通じるので、斬って捨てるか説得かで地獄へ帰るみたいです。
手伝う代わりに、アスタロト殿には私の願いを聞いて貰っています。この手紙に関してもそうです。宮廷の聖職者たちにその圧倒的な存在を明かして貰い、あなたには「アスタロトが取り憑いている」ことにしています。
今、あなたはアスタロトの悪魔憑きという立場にあります。きっと周りから恐れられるでしょう。しかし、これで不当な扱いはされない筈です。勝手をしてすみません。あなたの無事を確保する為に、あなたの名誉を汚してしまいました。本当にごめんなさい』
そんなこと、まったく気にしなくてもいいのに。
異端として囚われた時も、自分の身はどうだって良かった。汚名など気にもしなかった。ただ、家族にまで被害が及んだらと、それだけが心配だったのだ。だから、謝るなんて筋違いだ。
むしろ自分のために、本物の悪魔と手を組んでまで即座に手を打ってくれた、その気持ちがどうしようもなく愛おしくて嬉しい。
『今はまだ、あなたを自由にはできません。なぜならば、あなたの身を狙う者は国内に留まらないからです。今回の出来事はすべて悪魔の仕業ということにして、あなた個人に掛けられた容疑を晴らしていくつもりです。
時間は掛かるでしょうが、必ず自由にしてみせます。それまではどうか、宮廷に身を置いてお待ちください。あなたとの再会を、心から願っています。
親愛を込めて、リリアンより』
アレクシスは背を丸め、文面にそっと顔を押し当てた。
たまらない気持ちだった。溢れそうになる熱い涙を、必死にこらえる。
「ああ、リリー……僕の騎士」
しばらくそうしていたが、ひとつ大きく息をついて心を落ち着かせる。自分ばかり安全な場所にいて何もできないのは歯がゆいが、今は彼女の言うことに従おう。
(この手紙も、残念だけど処分しなければな)
正直、お守りとして肌身離さず身に着けていたい。しかし万が一、別の人間の目に触れでもしたら、リリーの努力も水の泡になってしまう。さて、どう処分するべきかと考えていると、
「読みましたね? ではその手紙をこちらへ。ああ、くれぐれも近寄らずにお願いします。こちらから受け取りますから、手紙を差し出しなさい」
まだいたのか。再び火バサミを突き出してきた悪魔を、アレクシスは呆れたように見た。
「本当に、君は地獄の大悪魔なのか?」
「うっさいですね。あなたこそ、ただの人間ですか? あなたから、微かに天界の匂いがしますよ」
「は?」
「今はそばにいないようですが、加護の残滓だけはしっかりと残っていますね。本当に天使だったとは……」
「何を言っているんだ?」
「あなた、過去に天使に会いましたか?」
「何を突然、訳の解らないことを。今日初めて、本物の悪魔を目にしたくらいだ」
すると、アスタロトはくっと目を細め、しばらくして盛大に舌打ちした。
「駄目ですね。この距離からでは、誰の加護かも解りません。ルシファーといい、なぜあなたはこうも面倒な輩に気に入られるのでしょう」
「待て。ルシファー? 誰だそれは」
「手紙に書かれていませんでしたか?」
「割愛されていた」
「何、重要なところを割愛してるんですか、あの娘は……! まぁいいです。元々あなたには、直接お詫びしたかっただけですので。とりあえず手紙を寄こしなさい。いい加減、腕が疲れました」
この会話の最中、ずっとプルプルと火バサミを差し出していたアスタロトが言う。なんとも滑稽な光景だった。
火バサミを通してアスタロトの手に手紙が渡ると、彼の掌から現れた黒炎がジュッと音を立て、一瞬でそれを塵へと変えた。それを見たアレクシスが、思わず感心して手を叩く。
「手紙は惜しいが、正直処分に困っていたんだ。君はなかなかに便利だな」
「凄いと言って貰えませんかね!?」
こうして大悪魔の力を見せつけても、娘のリリアンといい、この親子は一般人から激しくズレた感想しか抱かない。
「それで、そのルシファーとやらがどうしたんだ?」
「乱暴な話の戻し方もそっくりですよ……」
「君が言い出したんじゃないか。僕は、何かあなた方に詫びられるようなことがあるのか?」
「ああ、もう! つまりですね!」
アスタロトから事のあらまし(ルシファーの気まぐれな嫌がらせ)を聞いたアレクシスは、深く深く頷いた。
「なるほど。もし僕の家族に何かあったら、そのルシファーとやらも司祭長もろとも、剣の錆にしてくれる」
「いや、そっくりすぎるでしょうが……! だからこうして、悪かったと謝っているじゃないですか!」
「君は何も悪くないじゃないか」
「正統な正論ありがとうございます。ですが、やはりあれでもわたくしの友ですので……」
「僕には友と言える存在はいないが。そうか、君はとても友人想いなんだね」
「……やめてください、気味が悪くて鳥肌が立ちました」
実際に友人想いのほか言いようがないだろうに、アレクシスには、この素直じゃない悪魔がなんだか人間臭く思えて可笑しかった。
「手紙を読んだけど、今外にいる悪魔は君の配下ということになっているんだろ?」
「その方が、より教会への脅しが効くというあなたの娘の案ですね。悪魔より悪魔らしい策略なのはどうかと思いますよ」
「リリーは賢いんだ」
「これが人間界に存在する、噂の『親ばか』ですか。まぁそのおかげで、聖職者たちには軒並み恐れられるようになりましたがね」
「なるほどな。司祭長のあの態度も納得がいく。しかし、僕の無罪を手伝って貰うのはありがたいが……君は無事、地獄へ帰れそうかい? 悪魔祓いとかでもされたら」
すると、アスタロトは鼻で笑った。
「どれほど位の高い聖職者であれ、このわたくしをどうこうするなんて、天地がひっくり返ってもあり得ませんね。わたくしは、神の子イエスより先に地獄に存在しているのですよ?」
「そんなに偉かったのか」
「そんなに偉いのです。あなた達の相手をしていると、自分が偉い大悪魔だということを忘れてしまいそうになりますがね」
そうか、とアレクシスは拳を口元に当てて、何やら真剣に考え始めた。
「それなら、君の言うその下級悪魔たちだけど」
「はい?」
「わざわざ一匹ずつ説得しているんだろう? 娘と違って」
「わたくしが要領が悪いみたいな言い方、やめてもらえます?」
「いや、実際面倒だろう。君がそんなに偉い悪魔なら、ラッパでも吹けば勝手に帰るんじゃないのか?」
「この、似たもの親子!!!!!」
――その後。
ホーマン家の邸に、精神的に息も絶え絶えになって戻ると、玄関からリリアンが勢いよく駆け寄ってきた。
「おかえり、アスタロト殿! 手紙を届けてくれてありがとう。今回は父と話すことができたのか? 素晴らしい人格者だっただろう」
アスタロトは、期待に満ちた目で自分を見上げるリリアンを、死んだ魚のような目で睥睨した。
「お願いですから、あなた達親子は、死んでも絶対に地獄へ来ないでください」
「どうしたんだ急に。優しいな」
「もうやだ、この親子……」
地獄に帰りたい。
アスタロトは両手で顔を覆い、心の底からそう思った。




