〜第三章〜 迫りくる波乱の予感
動揺している場合じゃあない。
リリアンはアスタロトから視線を外さないまま、今しがた落とした剣の柄をブーツのつま先で蹴り上げた。
鮮やかに宙を舞ったそれを再び手にし、腰の鞘へと流れるように納める。
パチ、パチ、パチ、とアスタロトから場違いな拍手が鳴った。
「お見事です。ですが、よろしいのですか? 武器を納めてしまっても」
「あなたが本物の悪魔なら、小手先の刃など通じないだろう。現に聖職者たちがこぞって逃げ出すほどだ。余程の大物なのだと見受けられる」
「いや~、それほどでもありますね」
あるのか。そして自分で言うのか。
リリアンは脱力を覚えつつも、詳細な情報を得るために頭をフル回転させ続けた。
(アレクが異端で捕まる? ……罠だ。アレクが私たちに心配をかけるような真似をするわけがない。何があった? 誰が嵌めた?)
一番可能性が高いのは、昨日アレクを呼び出した司祭長だ。
(もともと司祭長にアレクのことを尋ねに行くつもりだったが……使いを寄越してきたことといい、私に何らかの発言を求めているのか?)
まだ「捕まった」という情報しかない。それも、この悪魔の言うことが本当ならば、だ。
異端で捕まった者の末路は残酷極まりない。裁判とは名ばかりで、ほぼ確定で極刑に処される。だが、証拠を記録し、その正当性をアピールしなければならないのもまた事実だ。
(私を呼ぶのは――その『証人』としてか……!)
熟考を重ねたリリアンが導き出した最悪の答え。
己の解に、わなわなと肩が震えだす。
(このまま、してやられてたまるか。死なせてたまるか! 奪われてなるものか!!)
覚悟は決まった。
リリアンは改めて、目の前の大悪魔を真っ直ぐに見据える。
「……あなたには聞きたいことが山ほどある。だが、先にこれだけ答えて欲しい。あなたは、私たちを害する敵か?」
その直球の質問に、アスタロトは「いいえ」とあっけらかんと答えた。
「わたくしの目的は別にあります。基本、目的以外の労働は好みませんので」
「……そうか。先ほどは剣を向けてすまなかった」
「どうされたのですか急に。気持ちが悪いですね」
「悪魔とはいえ、敵でないのなら、礼を欠いたことを謝るのは当然だろう?」
にこりと含みのない微笑みを向けるが、アスタロトは胡乱げな表情を崩さない。まったく失礼な奴だ、と先ほど彼の胸倉を掴んだことを棚に上げてリリアンは思う。
次に、彼女は背後を振り返った。
「クレマン、アニー。すまないが、先に家の中に戻って欲しい」
「リリアン様、何を……!?」
「それならお嬢さまも共に!」
リリアンは緩く首を振った。
「私はまだ、彼に訊くことがある。……クレマン、頼む」
「ちょっと待ちなさい。わたくしは面倒はごめんですよ」
「彼も私に話があるみたいだし」
「あれ? わたくしの声、聞こえてます?」
後ろの悪魔が何か言っているが、そんなものは後回しで構わない。
リリアンは二人の手を優しく握り、安心させるように告げた。
「私は大丈夫だ。安心して欲しい。――神に誓う」
「悪魔の前で神に誓うとは、大した根性をしていますね」
クレマンたちが渋々引き下がり、二人きりとなった後。
アスタロトが、呆れ果てたようにそう言った。
「二人が納得してくれるなら、今は誓うさ。――まだ、アレクは死んでいないからな」
アスタロトは言葉の真意に気づき、引きつった笑みを浮かべた。
つまりはこの娘、あの男が死ぬようなことがあれば、躊躇なく神を見限ると言っているのだ。
「本当にあの人間と血は繋がっていないのですよね?」
「アレクシスのことを言っているのか? 彼は養父だが、自慢の父だ。それがどうかしたのか?」
「いえ……あの人間も、自分が捕まるという時に『あなた達に害が及ぶことがあれば、神に剣を振るう』と大絶叫していたのを思い出しましてね」
すると娘は目を見開き、少しの間をおいて「なるほど」と零した。――え? なるほど?
「さすがアレク、名案だ。ならば私は、悪魔の軍勢を率いて彼に続こう」
「やめてくださいよ!? ルシファーが絶対面白がるんで! 天界戦争の再現なんて冗談じゃありませんよ!?」
この娘なら、本当にやりかねない。
アスタロトはリリアンへの認識を、『ひ弱な人間のメス』から、『いつ破裂するか分からない油断ならない時限爆弾』へと改めた。期限は、娘の父親が死ぬまでだ。
(……立ち寄らなきゃよかった!)
今さら過去は変えられないが、アスタロトは己の行動を激しく悔いた。
アレクシスという人間の冤罪は同じ人間によるものだが、それを決定づけるようにルシファーが下級悪魔を放ってしまったのは、さすがに少し悪いと思ったのだ。だからこそ、あの男に直接会いに行った。しかし会うことが叶わず、代わりに娘に一言謝っておくかと気楽に寄ったのが運の尽きだった。
このままこの親子を放っておいたら、第二次天界戦争の始まりとなりかねない。本当に冗談ではなかった。
「アレクが無事なら、そんなことはしないよ」
「よし。では、あの男を助ければ良いのですね!」
「それは願ってもないが……結界に阻まれたのだろう?」
あ、とアスタロトは我に返る。そうだった。
しかし、と思う。自分ほどの悪魔を通さない結界となると、それこそ神がかっている。そこまでの力を持つ人間が、たまたま同じ時代の、同じパリに存在したのだろうか?
(本当に、人間の仕業なのでしょうか……?)
まさか。
「天使じゃないのか」
アスタロトが今まさに脳裏に思い浮かべたかつての知己たちと、リリアンの発言が完璧に重なった。
「……根拠は?」
「いや、現に悪魔が存在したのだからな。天使も存在するんじゃないか? あなたほどの大物を跳ね除けるほどの力を持つとなると、同じように大物の天使か、あるいは神しかいない。けれどアレクは、聞くところ神を冒涜する発言をしたようだし、まず神自身は助けてはくれないだろう。まぁ、そこは天使も同じかもしれないが、まだ神よりは可能性がある」
「そう、かもしれませんが……簡単に言ってのけますね。普通はまず、聖人の遺物による奇跡だ、などと考えそうなものですが」
「聖職者は信用ならない」
きっぱりと断言したリリアンに、アスタロトは反論の言葉を失う。
「どのみち、異端の容疑を掛けられている内は安易に手を出せない。なんとかして容疑を晴らさねば、永遠と教会に追われる羽目になるからな。だからこそ――より詳しい情報が欲しい」
そう言って、一歩、また一歩と、リリアンは静かにアスタロトとの距離を詰めていく。
「そろそろ聞かせてくれないか。アレクに、何があったのか」
アスタロトは降参といったように両手を挙げると、ルシファーから得た情報を簡潔に話し出した。
「つまり――司祭長とそのルシファー殿とやらを、まとめて斬ればいいのだな」
それが、すべてを聞き終えたリリアンの第一声であった。
「物騒が過ぎません!?」
「冗談だ。気持ち的にはそうしたいのは山々だがな」
リリアンは額を押さえて深く息を吐き出した。
「まさか他国をも巻き込む計画だったとはな。……遠からず、各国から調査が入るだろう。それまでにアレクの無罪を示さねば」
本当に、教会の上層部は馬鹿なことをしでかしてくれたものだ。
「確かに、うちのルシファーもご迷惑をおかけしていますが……」
「いや……そうか。待てよ」
最初こそ、街に悪魔を放ったというルシファーに腹を立てたが、ふと思いつく。
今、このパリが未曾有の混乱に陥っていなければ、アレクシスの刑の執行はもっと早まっていたはずだ。それに、本物の悪魔の存在がこうして白日の下に晒された。ならば――。
「アレクに悪魔が憑いていたことにすればいいのか」
「突然の冤罪!! いきなり何を言い出すのですか!」
「もともとアレクは冤罪だ」
「ええ、ですが人間同士の計画でしょうに!」
「解っている。だが、一度着せられた『異端』の容疑を真っ向から覆すのは本当に難しいんだ。下手に容疑を否認するより、『悪魔が憑いていて悪さを働いた』ことにした方が、周囲も納得しやすい。冤罪を掛けた張本人である司祭長も、自分の首が絞まる以上、それが嘘だという真実を口にはできないはずだ。言えば破滅を迎えるのは自分だからな」
「あなた、悪魔を自由に使いすぎじゃありませんか? そもそも、どうやってその悪魔憑きを証明するつもりですか」
アスタロトの至極真っ当な疑問に、リリアンは、じっと彼の紅い瞳を見つめた。
「え、嘘でしょう?」
「もちろん、ただでとは言わない。この作戦が上手くいけば、私の魂でも何でも差し出そう」
「結構です、遠慮します。わたくしはそんな下等な悪魔とは違います。というか、簡単にそういうことを言うものではありませんよ。――特に今は」
そう言って、アスタロトは悪魔の飛び交う不穏な頭上を見上げた。
ただでさえ今のパリは、人間の負の感情に飢えた悪魔たちに侵されているのだ。少女のあまりの無鉄砲さに、思わず説教めいたことを言った己に呆れを覚える。本当に、この娘には調子を崩されっぱなしだ。
「では、あなたの『仕事』を手伝うというのはどうだ?」
それでも、リリアンの瞳は折れなかった。
「先ほどの話では、あなたは友人が放った悪魔たちを回収しに来たのだろう?」
「回収……まぁあながち間違いでもありませんが。言い方」
そういえば、父親の件と同時に己の目的も話してしまっていたな、とアスタロトは思い出す。
正確には「下級悪魔たちを説得して地獄に帰らせること」なのだが。当然、リリアンからは「同じ悪魔なのに、なぜそんな面倒なことを?」と疑問を持たれた。だから、正直に理由を述べてしまったのだ。悪魔に堕落させられる人間が増えると、その人間が死んだあと、地獄の事務処理担当である自分が仕事に追われて大忙しになるからだ、と。
(……黙っておけばよかった!)
後の祭りである。次に何を言い出すのかとヒヤヒヤしていると、リリアンは肩を竦めて言った。
「そんなに身構えないでくれ。心からの親切心だ。あなた一人では、これほど多くの悪魔を全員説得するのは骨が折れるだろう? だから私も手を貸そう」
「確かにそうですが……一体どうやって? 失礼ながら、あなたに悪魔への説得が可能とは思えませんが」
「え? ――片っ端から、斬ればいいんじゃないのか? どのみち行き先は同じ地獄だろう?」
「悪魔ですかあなた!!」
理屈は合っている。合っているが、発想が悪魔のそれよりも遥かに容赦がなかった。
「何を言う。悪魔はあなただろう」
「そういう意味ではなくて! わたくしが、直属の部下ではないとはいえ、同胞を傷つけるのを許すとでも!?」
「そもそも、説得なんか本当に必要なのか?」
リリアンは、未だにアスタロトに傅いたままの悪魔たちを見渡しながら言った。
「ずいぶんと、あなたを恐れているようだが」
「それはそうでしょう。わたくしは地獄が生まれる前から存在しているのですよ。格が違います」
「じゃあ、わざわざ説得なんかせずとも、あなたがパンと手を叩けば勝手に地獄へ帰るんじゃないのか?」
「そんな、鳩じゃないんですから……!」
――その時だった。
それまで大人しくアスタロトに叩頭したままだった下級悪魔たちが、一斉に動いた。
彼らの真の主は、元はルシファーである。さらに目の前で、人間の小娘相手に手こずっているアスタロトの様子を見て、侮ったのだ。
この高位の悪魔をここで討ち取れば、凄まじい箔が付く――。そんな邪な野心を抱いた異形たちが、アスタロトを目がけて一斉に飛びかかった。
悪魔たちの襲撃を同時に察知した二人は、片や剣を引き抜き、片や冷徹に手をかざし――。
「愚か者が。わたくしを誰だと心得る。――四十の軍団を指揮する地獄の公爵とは、このアスタロトのことですよ」
アスタロトの掌から放たれた眩い光。
それにつつまれた悪魔たちは、悲鳴を上げる暇すらなく、瞬く間に光の塵と化して消滅した。
その圧倒的な光景を目の当たりにしたリリアンは、怯え、震える――はずなど、当然なかった。
「なるほど。とりあえず、見つけたら片っ端から斬る方向で構わないな」
我が意を得たりとばかりに微笑むリリアンに、アスタロトはもう、何も言えなかった。
「剣は得意な方だ。私の働きを期待してくれ」
「……そうですか」
「その代わり、私の方も協力を頼むよ」
「……もう、好きにしてください」
「ありがとう! それじゃあ、まずは家族に改めて紹介しないとな。やっぱり驚くだろうか。困ったな……よし、『とてつもなく品行方正な悪魔』という設定にしてもいいか?」
「とてつもなく品行方正な悪魔は、もはや悪魔と言わないんですよ」
「あとは、呼び名だな。ずっと『あなた』呼びも寂しい。一時とはいえ、過酷な戦いを共にする仲だ。私のことはリリアンと呼んでくれ。――アスタロト殿」
「距離の詰め方がおかしい! この人間!!」
「リリアンだ」
ムッとして引き下がらないリリアンに、アスタロトはガシガシと派手に頭を掻いた。もう、完全なやけくそである。
「……今回限りですからね! リリアン!」
その言葉にリリアンはニッコリと満面の笑みを浮かべると、アスタロトの手を強引に掴んで力強く握手を交わした。
「共に、アレクシスを助けよう」
「……本当に、最後までブレませんね、あなたは」
最初から、最後まで。
この娘はずっと、たった一人の人間のことだけを案じていた。そこには、大悪魔であるアスタロトも素直に感心せざるを得なかった。
まさか、ただ一人の養父を助け出すためだけに、本物の悪魔の手を躊躇なく借りるだなんて。
(下手をすれば――『魔女』として国中から糾弾されるというのに)
だが、この規格外の娘のことだ。そんな言葉を突きつけたところで、どんな顔をして返すか目に浮かぶようだった。きっと間抜けな顔で、「それがどうした」などと言うに違いない。
「……わたくしと手を組んだことが世間に露見すれば、魔女の汚名は免れませんよ?」
「それがどうした?」
「ふっ……」
アスタロトはらしくもなく、声を上げて愉快そうに嗤ったのだった。
◇◆◇
ジャンマルコ・デ・ニコラ。歳は二十歳。
異端審問官である彼の出自はかなり異例であり、その事実を知る者はほとんどいない。
彼は、聖地エルサレム巡礼中だった父と、そこで出逢った暗殺者の母との間に生まれた子であった。もう、この時点で前例がない。
当時、彼の母親は旅人を狙う暗殺者ギルドに属していた。普段は旅の踊り子に徹し、獲物を見つけて暗殺を決行する時は、女の細腕で二対の半月刀を扱う凄腕の手練れだったそうだ。
そして、その時に獲物として狙われたのが、彼の父親である神父、ボニーベンナルト・デ・ニコラだった。
しかし二人は、あろうことか互いに一目惚れし、なんとそのまま結婚してしまったのだ。
――そんな馬鹿な話があるか! と言いたいだろう。あったのだ。そして、その事実を未だに最も受け入れ難いのが、息子のジャンマルコだった。
当時、母は十八。父は四十。
年齢の壁も、宗教の壁も、なんなら命のやり取りすら乗り越えての大恋愛の末に生まれたのがジャンマルコなのだが、物心ついた頃に両親の馴れ初めを聞かされた彼が放った最初の一言は、「ばかなの?」であった。
それもそのはず。元神父の父は、母と結婚したことで聖職者の位を返上する羽目になった。カトリックは聖職者の結婚に対して極めて厳格だったからだ。しかし、父はそれでも地位より母の手を取ったのだ。
いや本当に、馬鹿なの? である。こっそり愛人として囲えば良かっただろうに、などと思うのは、己の心が汚いからだろうか。
まぁ、過ぎたことを考えても仕方がない。両親に対しては色々と複雑に思うところはあるが、それでも感謝の心は忘れていなかった。彼らがあの日、そんな大バカな恋に落ちてくれなければ、自分はここに存在すらしていないのだから。
「マルちゃん、お友達が来ているわよ」
「その呼び名、本当にやめてくれ。――あと、友達じゃなくて同僚だ」
今もなお少女の面影を残した美しい母、マリアンは、息子の文句に不満げに唇を尖らせた。
一見すれば愛らしい淑女に見えるが、彼女こそ、幼いジャンマルコに己の暗殺術を叩き込んだ張本人である。
「なんでよぅ。可愛いじゃない」
「成人した息子に向かって呼ぶものじゃないだろ。あと、ぶりっ子もやめろ。歳を考えろよ」
――シュッ、と。
言葉の終わりの瞬間、果物ナイフが真っ直ぐ飛んできた。
ジャンマルコがやすやすと頭を傾げて避けると、ナイフは背後の壁に深く突き刺さり、ビーンと鋭い金属音を立てて柄を揺らした。
「次、歳のこと言ったら殺すわよ?」
「はいはい。……それより、親父は?」
たった今、命のやり取りをした二人とは思えないほど、室内には緩い空気が流れていた。この程度、彼らにとっては日常茶飯事の戯れなのである。
「お客さんのお相手中よ」
「はあ!?」
それを早く言え!
ジャンマルコは急いで玄関へと向かった。
「おお、マルコ」
息子の姿に気づいた初老の父、ボニーベンナルトは、嬉しそうに片手を挙げた。
彼の前では、ジャンマルコの同僚である男が、一冊の本をまるで聖遺物であるかのように大切そうに抱きしめている。
「ありがとうございます! 一生の家宝にします!」
「ほっほっ、大袈裟じゃのう」
「いや待て、ナニしたじじぃ……!」
「これ、父親をじじぃ呼びとは何事じゃ」
「くそっ! おい、行くぞ!」
「これこれ、お友達は大事にせいよ」
「だから同僚だっつーの!」
ジャンマルコは同僚の神父の腕を強引に掴むと、這うようにして我が家を後にした。
「ああ、もう少し大先生とお話ししたかったのに……」
「じゃあ戻って、じじぃと永遠に喋ってろ」
またもや、親父に魅了された馬鹿が一人増えた。正確には、親父の書いた『お話』に、だが。
神父ではいられなくなった父は、母との出逢いから結婚までの経緯を一冊の恋愛小説に仕立て上げた。もちろん、完全なる趣味である。
本の中の母は「暗殺者」という物騒な本性を伏せられ、可憐な旅の踊り子として描かれていた。巡礼の旅先で始まった神父と踊り子の大恋愛の物語は、大衆小説として貴族から市民まで瞬く間に売れ、父は今や幅広い恋愛小説を手掛ける超人気作家となっていたのだ。
息子としては父の活躍を誇らしく思うべきなのだろうが、手掛ける本がすべて甘ったるい恋愛小説なのと、今でも新婚夫婦のように仲睦まじい両親を目の当たりにするのとで、胃が焼けて砂糖を吐きそうになる。
ジャンマルコは、隣の同僚が宝物のように抱える本を横目で睨みつけた。
普段は滅多に自分の実家へ来ないこの同僚も、最初から父のサインが目当てだったのだろう。私物であろう本の見返しには、見覚えのある父のサインがばっちりと躍っていた。
「お前……まさか、それを持って職場に行くつもりなのか」
「解る。こんな貴重なもの、職場じゃ危ないよな。仲間を疑いたくはないが、魔が差す奴が出ないとも限らない。悲しい窃盗事件が起こる前に、やっぱり一旦家に帰って、神棚に保管してきた方がいいよな!」
「おお、帰れ。んで、二度と戻ってくんな」
親父の恋愛脳に侵されると、なぜ皆こうも馬鹿になるのだろう。
父の書く本は、教義によって結婚が許されない聖職者たちの間では、特に爆発的な人気を誇っていた。せめて物語の中にだけ、あり得たかもしれない自由な夢を見るのだろう。
しかし――出来れば己の見えないところで、勝手に夢に浸っていてほしいものだ。
「ったく。馬鹿言ってないで行くぞ」
そう吐き捨てながら、ジャンマルコは隣の同僚の尻を力任せに蹴り飛ばした。
彼らの職場である検邪聖省に着くと、そこで二人は別れた。その日は、ジャンマルコだけが上司に呼び出されていたのだ。
ようやくお呼びがかかったか、とジャンマルコは胸の内で小さく呟いた。
検邪聖省とは、いわゆる異端審問所のことである。
かつてルネサンスで栄光を手にしたイタリアだったが、他国との大きな戦争に敗れ、現在はハプスブルク家が統治する神聖ローマ帝国の支配下にあった。
同じく宗教戦争によって力が弱まったカトリック教会は、失った元の権力を取り戻そうと今、必死になっている。その手段の一つが「異端の厳罰化」だった。
異端者――すなわち、キリストの正統なる教えから外れた危険な思想を持つ者たち。
この者たちを捕らえ、裁判にかけ、容赦なき判決を下す呪われた場所が検邪聖省であり、そして彼、ジャンマルコこそが、その裏の執行役として最も貢献している青年であった。
ジャンマルコ・デ・ニコラは、聖職者であると同時に、教会が公式に認める刺客だった。
もちろん、その事実を知るのは彼の両親と、上司を含めた教会の上層部、そして直属の部下くらいである。
幼い頃から元暗殺者の母親に叩き込まれた剣の腕を買われ、十五の時にはすでに暗殺の汚れ仕事を請け負うようになっていた。彼は今でも、教会の密命とあらばその半月刀を躊躇なく振るう。
だいたい彼が裏で動く時は、異端者が組織ぐるみで悪事を働いている場合だ。集団で神に牙を剥く者たちにはもはや裁判の余地なしと見なされ、闇から闇へと葬る「即時粛清」の命が下されるのである。
「新しい情報でも入りましたか?」
先日のイタリア地下聖堂での粛清劇から、数日。
今か今かとこの時を待っていた。心の準備は、とうに済ませてある。
挨拶もそこそこどころか完全にすっ飛ばし、上司の執務室の扉を勢いよく開け放つ。
すると、そこにいた彼の上司は、大層呆れ果てた顔で苦言を呈してきた。
「おま……せめてノックくらいしろよ。俺は上司だぞ、一応、これでも」
「おれを呼んだってことは、例の天使召喚の偽文書の件でしょう?」
「そうだけども! もっと俺を敬えよ」
「何を今さら」
太い眉と大柄な体躯に反して茶目っ気のあるこの男こそが、ジャンマルコの上司、レオナルド・クラウンであった。
教会からの密命を彼に下すのも、このレオナルドの役目である。
レオナルドは昔から、ジャンマルコの父親をよく知っていた。巡礼の旅路を終えたら次期司祭長だろうと期待されていた父を、心から尊敬していたのだ。
しかし帰ってきた父は、「結婚したい相手ができた」と聖職者の権利をあっさり投げ捨てた。本来なら失望する場面だが、当時まだ若かったレオナルドは逆に強い感銘を受けたのだという。出世の機会を蹴り、教会を激怒させてなお愛しい女を優先したその豪胆さと誠実さが、彼の胸を打ったらしい。当然、彼の部屋の書棚には、今でも父の書いた恋愛小説がずらりと並んでいる。
ジャンマルコが生まれる前からの付き合いだけあって、レオナルドは彼にとって「第二の父」のような存在だった。
ジャンマルコが暗殺術に長けていることが教会の内層部に知られ、「教会の刃として役に立て」と指令が下ったとき、意外にも最後まで猛反対してくれたのがレオナルドだった。
護身用として身につけた技だが、それで人の役に立てるのなら構わない、とジャンマルコ自身には特に反論はなかった。両親も初めは猛反対したが、最終的には息子の意思を尊重してくれた。
けれどレオナルドだけは、当時まだ十五歳だったジャンマルコの精神が壊れることを恐れ、最後まで反対し続けてくれたのだ。
それでも教会の巨大な圧力には敵わず、ならばせめてと、レオナルドは「ジャンマルコに命令を下す時は必ず自分を通すこと」を条件として上層部に願い出た。彼を、一人きりで血の海に汚させないために。
そんな優しさを知っているからこそ、ジャンマルコもこうして生意気な態度で甘えていられるのだ。
「そろそろ、パリに向かった調査団が帰ってくる頃合いだと思ったんですよね。……で、街の様子はどうでした?」
どのみち、自分も近いうちにパリへ向かう予定だった。
件の召喚文書がフランス・パリ発のものであると確定した際、レオナルドを通して上層部から密命を受けたからだ。曰く――『犠牲者の無念を晴らすため、首謀者の首を持ってこい』と。
レオナルドは苦虫を噛み潰したような顔でその命令を告げてきたが、ジャンマルコ自身は当然の報いだろうと思ったし、断る理由もなかった。ただ、「首を持ち帰るのはさすがに腐敗する」という現実的な問題から、始末した証拠があれば構わないという話で落ち着いている。
そもそも、なぜ出どころがパリだと判明したのか。理由は簡単だった。
我が国の国民に扮して最初の羊皮紙を持ち込んだのが、フランス人だったのだ。そこからさらに別部隊が拷問にかけて吐かせたところ、そのフランス人はパリからやってきたことが解った。
そして――白状した首謀者の名は、アレクシス・ホーマン。男爵家の男らしい。
しかもただの男爵ではなく、長年フランスに忠誠を誓ってきた由緒ある名門の家系だという。
それを聞いた時は、なるほどと納得した。
あのフランスという国は、宗教の行き違いによる激しい内紛が続いていたせいで、今もなお復興の目処が立たないと聞く。となれば、今一番恐れているのは「周りの国々からの侵略」のはずだ。
(――あの天使召喚の偽文書は、いわゆる『火種』だ)
天使を崇拝する者が増えれば、教会も先日のイタリアの事件のように、異端として厳しく対処せざるを得ない。これがもし、手に負えないほど信者が増えてしまったらどうなるか。
かつてのパリが血で染まったような、凄惨な「宗教戦争」の再来である。
(国を護るために、他国を潰すか)
偽文書で異国の信者を募り、内紛のきっかけを与えて他国の弱体化を図る。周りの国々が自国の内乱で手一杯になれば、フランスもしばらくは安泰だろう、という計算か。
もし本当にそういう意図なのだとしたら――つくづく、大馬鹿な真似をしたものだと思う。
こうしてローマの異端審問所にバレてしまえば最後、余計に敵に攻め入らせる隙を与えるだけだというのに。
(このアレクシスという男は、そこまで頭が回らなかったのだろうか)
だが、ローマ・カトリック教会は、彼の首ひとつで今回の件はすべて水に流すことに決めたらしい。
どうやらこの事態を招いたのは「すべてアレクシス個人の暴走」であり、フランス王室もフランス教会も一切関わっていなかった――という体で話がついているようだ。他国の無実の国民まで巻き添えにして処刑してしまっては、国同士の全面戦争に発展しかねないからだ。
そして、もう一つジャンマルコに課せられた使命。それこそが、もっとも教会が懸念している不穏の種だった。
(――くれぐれも国民に知られないよう、秘密裏に始末しろ、か……)
アレクシスの行動理念が「国と国民のため」とあっては、罪を犯してでも祖国を護ろうとした彼を、後々になって英雄として持ち上げる人々が現れかねない。
なんせ、あのフランスという国には、ジャンヌ・ダルクという前科もあるのだ。
当時、フランスはイングランドとの戦争中に彼女を聖女として矢面に立たせ、敗戦が続くようになると、今度は一転して魔女だったとジャンヌを火刑に処した。しかし、そこにはイングランド側の政治的意図があったとして、ローマ・カトリック教会は彼女の処刑後、魔女判定を否認。名誉回復裁判を経て、最終的に無罪の判決を下したのだ。
余談だが、この時はまだ「無罪」となっただけで、ジャンヌ・ダルクが正式に聖女(列聖)と認められたのは西暦1920年と、ずっと未来の話である。
ジャンマルコが彼の悲劇の少女とアレクシスを重ねて考えていた、その時だった。
「マルコ!」
「は? なん……うるせぇな」
「何度呼んでも反応しないから大声を出したんだぞ!」
「え? あー……」
どうやら自分は、思った以上に深く物思いに耽っていたらしい。悪い悪い、と右手をひらひらと振って詫びる。
「すみません、ちょっと考え事をしていました。それで? パリに向かった調査団からの報告はどうだったんです?」
これから自分には、フランスへの潜入任務が待っている。
潜入に欠かせないのは、何よりも「新鮮な情報」だ。身分は神父見習い。格好は、中に暗器をどれほど仕込もうがローブで幾らでも誤魔化せる。あとは現地の住民に何を訊かれても怪しまれずに返せるよう、最新の情勢を知っておく必要があった。そのためにわざわざ先遣の調査団を向かわせたのだ。
しかし、ジャンマルコの問いかけに対し、レオナルドは「落ち着いて聞け」と、何やらただならぬ重苦しい雰囲気を醸し出していた。
「――覚えていないらしい」
「は?」
「だから全員、パリでの記憶をごっそりと失っていたんだ」
「はあああああ!?」
どういうことだ。調査団は無事に戻ってきているのに、記憶がない? しかも、全員が。
「どこからの記憶がないんです?」
「パリに足を踏み入れた時から、そこを出る時までの間だ」
「肝心なところ全部じゃないですか!」
「だから、落ち着いて聞けと言っただろう」
「いやいや、落ち着いていられますか! 絶対に何かあったじゃないですか!」
それこそ、人間業ではない「何か」が。
(――あの天使召喚の羊皮紙は、偽物だったはずだ。はずなのに……)
これではまるで、本当に「本物の悪魔」がしでかした仕業ではないか。
「困ったことになった。状況が解らないままお前を送り出すわけにはいかない。だからマルコ、今回は――」
「行きますよ」
「マルコ!」
「おれは、それでも行きます。情報なら、現地に到着してから徐々に集めればいい」
「もし、お前が『教会の刺客』だとバレでもしたらどうする」
「だからこその、おれでしょう?」
ジャンマルコには、並の剣客や暗殺者ならば闇に屠れるという絶対的な自信があった。それを裏付けるだけの圧倒的な実力も、すでに血で証明してきた。
彼の実力をよく知るレオナルドは、まだ何かを言おうとして、結局は沈黙するほかになかった。疑いようのない腕前もさることながら、ジャンマルコの「怒り」が痛いほど解るからだ。彼こそが、カルトの犠牲になった多くの被害者たちの、もっとも惨い亡骸を目にしてきた男なのだから。
「お前のお袋さんとボニーさんには、俺から上手く謝っておく。……無事に戻ってこいよ」
「後者の心配は感謝しますが、前者の謝罪はマジでやめてください」
こうしてジャンマルコは、馬車と、一人の御者だけを伴ったパリへの旅路に出た。
ローマを発ち、しばらく馬車を走らせた頃。
ふと、ジャンマルコは思い出したように御者台へ声をかけた。
「おい、御者殿。そういえば名前を聞いていなかったな。おれはジャンマルコ・デ・ニコラ。かなり危ない旅になると思うが、よろしく頼む。……まぁ、行きと帰りだけでいいさ。パリに着いたら、安全な宿で待っていてくれ」
「そんな寂しいことを言うんじゃないよ、マルコ」
は?
ものすごく、聞き覚えのある声だった。
ジャンマルコは慌てて馬車の中から御者台の前布をまくり上げた。
――そこには、想像通りの人物が、のんきに手綱を握っていた。
「儂の名はボニーベンナルト・デ・ニコラじゃ。ほっほっ、こちらこそよろしく頼むのぅ、息子よ」
「じ、じじいいいいいいいいいいいいっっっ!!」
なんでここにいる!?
いや、もう理由は解った。レオナルドから全体の顛末を聞いて、先回りしたに違いない。おれを心配してのことだとは解る。解るが……!
「帰れ! もしくはお袋と代われ!!」
あの母親ならば、その身を護ってやらなければなどと欠片も思わないし、その必要すら一切ない。しかし、父親は別だ。この男は、これまでの人生で戦闘経験がまったくのゼロなのだから。
「可憐な母さんに、この過酷な任は重いじゃろうて」
「おれの暗殺の師匠はお袋だからな!? つーか、初対面でお袋に殺されかけた奴が、何寝言を言ってやがる!!」
「お前は本当に口が悪いのぅ。一体、誰に似たんじゃ?」
「足手まといなんだよ! 頼むから帰ってくれ!」
「失礼な奴じゃ。これでも元は神父。必ず役に立って見せるぞ」
「ごめんだけど、おれも一応神父! しかも現役バリバリのな!」
「む。なら、どちらがより神父っぽく見えるか勝負じゃな」
「ローブで頭から全身覆ってりゃ、どっちも似たようなもんだろ! いいから帰れ!!」
「息子の仕事場が見られるとはなぁ。知らせてくれたレオナルドには、感謝せんといかんな」
「だから、実家には絶対にチクるなって言ったのにいいいいいいいいっ!!」
あの上司、ローマに戻ったら絶対にただではおかない、とジャンマルコは心に誓った。
「いざ行かん、パリへ!」
「待て。おれが操縦する。親父は大人しく中へ入ってろ」
とうとう説得を諦めたジャンマルコは、せめて目的地に迷わず、最短ルートで辿り着くためにも御者台へ登った。
「おお、代わってくれるのか。なんと孝行息子じゃのぅ」
「そういう意味で言ったんじゃねぇけど……もういい。中でじっとしていてくれ」
そしてパリに着いたら、一番安全な宿の頑丈な部屋に閉じ込めよう。ジャンマルコは固く心に決めたのだった。
本来ならば一ヶ月半から二ヶ月はかかるとされている険しい道のり。
しかし――内心で怒りの嵐を荒ぶらせたジャンマルコが狂ったように操縦した馬車は、わずか一ヶ月を待たずして、悪魔の巣食うフランス・パリへと到着したのだった。




