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〜第一章〜 僕は君に、君は僕に出逢う運命だったんだね


「よろしいのですか、坊ちゃん。久しぶりの社交の場をすぐ後にして」


 壮年の執事が馬を操りながら、背後に語りかける。呆れと愉悦を含んだ声音だ。


 馬車の中には、二つの人影が向かい合うように座っていた。

 こちらも世話役なのだろう、メイド服に身を包んだ婦人と、いかにも貴族といった風体の青年だ。

 青年は行儀悪く足を組み、顎をさらして天を仰いだ。


「よろしいんです、よろしいんです。挨拶はしたし、十分でしょ。あれ以上あの場にいたら、僕の鼻が壊れちゃうよ」


 香水臭くって。


 若き主人の言い分に、御者台の執事と隣のメイドは苦笑するに留(とど)めた。

 彼がこのように我が儘な愚痴をこぼせるのは、両親同然の自分たちの前だけだと知っているからだ。


 彼、アレクシス・ホーマンは、五爵(ごしゃく)の中でも古い歴史を持つ伯爵の家系に生まれた。しかし、幼い頃に悲惨な事件に巻き込まれ、爵位が宙に浮いてしまったという過去を持つ。

 最近になってようやく玉座が安定し、本当ならば元の伯爵位を賜ることもできた。だが、貴族社会に辟易(へきえき)していた彼はそれを拒み、あえて一番位の低い男爵の地位を願った。持っていた領地はすべて両親と懇意(こんい)にあった貴族に譲り、今はただ、この廃れ切った街の再興に力を入れている。

 

 アレクシスはふと馬車の外を見る。

 ――暗いな。夜というのを差し引いても暗いものがある。当てもなく夜道をさ迷う平民たちがちらほら視界の端をかすめていく。今でも内紛が絶えない国だ。見慣れた光景でもやはり眉が寄るのは仕方ない。

 王位こそ揺るがなくなったが、国はまた別だ。虐殺の爪痕は深く、今は一刻も早く体制を整える時期だ。だのにだ。


(踊っている場合か。浮かれ貴族どもめ)


 抜け出してきた舞踏会に出席していた貴族たちの顔を思い浮かべては、苛立ちが募る。

 始めはサボろうかと思っていた。しかし主催側が有力貴族だったこともあり、家人たちの説得という名の脅迫に負けた。どうやら主人(ぼく)が貴族社会から爪はじきされる事態を防ぎたかったのだろう。その気持ちはありがたいが、正直無視されるならそれはそれで構わない。一度は死んだと思われていたくらいだ。今更取り繕われても気持ちが悪いだけだった。


 そもそも、だ。未だ家を失い、職を失い、餓死する平民が後を絶たないというのに、何が舞踏会だ。アレクシスは会場ですり寄って来た令嬢たちを思い出し、舌打ちした。

 たかが男爵位の男に媚びを売ってなんになる。もっと有力な独身貴族を狙えばいいものを。


 だがしかし、彼は気づいていない。彼女たちは肩書よりも、その容姿に惹かれていたのだと。

 白磁(はくじ)のような透き通る肌。首筋を流れるブロンドの髪。そして切れ長の澄んだ海色(アクアマリン)の瞳。さらに、彼の高い矜持は人を寄せ付けない雰囲気を放っていた。しかし、それが逆に乙女たちの心に火を着けたのだ。


 わらわらと自分を取り囲む女たちに、元々出世欲のないアレクシスが音(ね)を上げるのは早かった。少し一人で外の空気に当たりたいと言い、そのまま抜けて来たのだ。

 顔見知りである貴族との挨拶は一通り行った。ならばもう、あんな場所に用はない。


(ほんと、くだらない時間だった)


 おしゃべりに夢中で誰も手に付けない豪華な料理を見ては、唇を噛んだ。今、どれだけの人間が飢えに苦しんでいるのだと。出来るのなら、その料理を馬車一杯に詰め込んでスラムに届けたいくらいだった。


 スラムとは、国が見捨てた人間が生活している無法地帯である。そこに住む者たちに法などあってないようなもので、下手に近づけば、身ぐるみを剥がされるまでは運が良く、最悪の場合は殺されることすらある。

 しかし、アレクシスは知っている。彼らは彼らの家族を護るために必死に生きていることを。自分も一時期スラムの住民だったことがある。彼らは、身内にはとても優しかった。


(周りの目さえ無ければ)


 先の計画を実行に移していただろう。己だけが裁かれるならまだいい。しかし、家人にまで罪が及ぶ事態は避けたかった。

 もう、家族を失うのはこりごりだ。



 ここパリでは、もう何十年も醜い内紛が続いていた。

 ユグノー(カルヴァン主義プロテスタント)とカトリックが各々の主義主張を通そうと互いに殺し合い、その都度(つど)街を血で染め上げた。

 後に良王と慕われるアンリ四世がこの内紛を終結させるまで、実に四十年近くの歳月が流れることになる――。



 アレクシスはそっと目をつむる。


 彼はカトリックの父と母を持ち、唯一の姉弟(きょうだい)であった姉もろとも、家族を殺された。彼がまだ、六つにも満たない頃のことだった。突然屋敷に押し入ってきたユグノー信者たちに、問答無用で蹂躙(じゅうりん)されたのだ。

 本来ならば、彼も殺されていたはずだった。しかし聡明だった姉は、混乱の最中(さなか)であるにもかかわらず、彼をベッドの下へと隠した。狭い隙間だった。


 姉が自分を隠した直後、やってきた男の剣が、姉の胸を容赦なく貫いた。


 ベッドの隙間から、口から血を流し、瞳から涙をあふれさせる姉と目が合う。

 男が出て行った気配がした。「まだ隠れていなさい」と目で訴える姉は、泣きじゃくる声を必死に抑える自分を見て、静かに微笑んだ。

 姉の最期(さいご)の呟き――あれが無ければ、自分はきっとここに居ないだろう。


『生きて』



 ふー……っと、アレクシスは深い息を吐き、ゆっくり瞼(まぶた)を持ち上げる。


(迷惑な遺言だよまったく)


 おかげで死ぬことも出来ない。


 自分は生きた。その頃、世間では「ホーマン家は皆殺しにあった」と言われていたようだが、冗談ではない。姉が命を張って助けてくれたのだ。なら自分は生きて生きて、生きて、その存在を世に知らしめよう。

 幼い間はスラムで泥水をすする大人のように過ごし、十を超えてからようやく屋敷に戻り、骨だけになっていた家族と使用人たちの亡骸を弔った。


 当時の家人はみな殺されてしまっていたが、彼らの縁者にあたる二人が、やがて生き残った自分の前に現れた。それが、執事(じい)ことクレマンと、メイドのアニーである。

 どうやら自分は覚えていないが、幼い頃に彼らと会ったことがあるらしい。我が家が全滅したと嘆いていたところ、自分が生きているという噂を聞きつけ、駆けつけてくれたのだ。


 優しい彼らを、二度と昔と同じ目に遭わせるわけにはいかない。そのためなら、なんだってした。

 苛烈(かれつ)な宗教争いが続く中、常に状況を見て優勢な方に改宗した。時にはプロテスタントにもなった。そして、新王アンリが玉座に就いた時には、王と同じカトリックへと。

 ――信仰心なんて、とっくの昔に捨てた。


(今回も酷いものだったな)


 最初から気乗りしなかった舞踏会だったが、外から風に乗って運ばれてくる血の匂いと、淑女(しゅくじょ)たちの香水の匂いで会場はむせ返り、長時間あそこにいたら気が狂いそうだった。

 他の人間はよく平気だなと感心し――ああ、すでに狂っているのか、と独り言(ご)つ。でなければ、ダンスの合間に人が殺されても続行なんてしないだろう。


 反対派の暗殺者だったのか、衛兵に捕まった男が会場から連れ出されていた。きっと命はない。この手の光景は何度も見てきた。

 しばらくして、遠くから聞こえてきた断末魔(だんまつま)に吐き気がした。


 今夜も一人の人間が死んだ。いや、実際は見えないところで何人も死んでいる。

 それでも貴族たちは踊って笑うのだ。


 ……本当に、狂っている。


(同じ神を仰いで殺し合うなんて、本末転倒もいいところだ)


 だからアレクシスは神を信じない。


 突然、馬車が急停止した。

 夜盗でも現れたかと、アレクシスは反射的に腰のレイピア(細剣)へ手をやる。


「何があった」

「いえっ、こどもが!」

「こども?」


 ここからではよく見えない。

 ドアを開けると、アニーから「危のうございますっ」と引き留められたが、構わず地に踵(かかと)を下ろす。


 クレマンも今気づいたらしく、隣に並んだアレクシスに「坊ちゃん!」と声を荒らげた。

 ――まったく、心配性な二人だ。

 アレクシスは心の中でくすりと笑う。


 改めて、前方に目を向ける。


「これはこれは小さいお嬢さん《プティットゥ・フィーユ》? 僕らに何か用かな?」

「食い物をよこせ。さもないと、ころす……!」


 アレクシスは目を細める。

 こんな小さい子ですら夜盗の真似事をするのだから世も末だ。


 アレクシスの呆れを拒否と取ったのか、少女は鋭い眼光をそのままに、どこで拾ったのか、刃がボロボロのナイフを必死に構え直して言う。


「早くしろっ」


 正直、距離を詰めてナイフを取り上げるのは造作もない。が、


「うーん。ねぇアニー、何か食べ物ってあった?」


 それにアニーは恐る恐ると言った風に答える。


「か、間食用のビスケットでしたら……」

「それ持って来て。全部」

「は、はい。少しお待ちを」


 馬車の中から菓子の入ったバスケットを受け取ると、アレクシスは少女に近づく。


「はい、どーぞ」


 まさか、こんなに呆気なく食べ物が差し出されるとは思わなかったのだろう。

 目を白黒させる少女を見て、アレクシスは笑いを噛み殺した。


「ほらほら、早く受け取って。それとも、ナイフ(それ)を握ってないと不安? なら僕が運ぼうか」


 ナイフを両手で握る手が震え、少女の困惑を伝えている。


「どこに運べばいい? 案内をお願いしても? プティットゥ・フィーユ」

「…………その呼び方やめろ。カゴだけよこせ」

「ふふ、勇ましい子だなぁ。はいあげる。その代わり僕もついて行っていい?」

「来るな」

「ありがとう」

「………」


 少女は呆れと侮蔑を込めた視線を残し、アレクシスを置いていくように駆け出した。だが、小さな子供が走ったところで大人の早足程度だ。


 悠々と追いかけるアレクシスの行動に、さすがに家人たちは慌てた。主人がマイペースかつ強引な性格なのは知っている。しかし、みすみす危険に飛び込もうとしているのを放っておけるはずがない。


「坊ちゃん、いけません!」

「そうです! 渡したならもうよいではないですかっ」


 アレクシスは自分を心配してくれる彼らを無下にすることに罪悪感を覚えたが、どうしてもこの子が気になって仕方がなかった。


「ごめんね、すぐ戻るよ。大丈夫。絶対危ない真似はしないから」

「すでに危ない真似をなさっておいでです!」


 不謹慎(ふきんしん)にも笑った。ごめんよ、じい、アニー。でももう諦めてるでしょ? 付き合い長いもんね。

 腰のレイピアをぽんぽんと叩けば、二人だけの家人は深い溜め息をついてうなだれた。うん、解ってもらえて嬉しいよ。


「ほらほら、早くしないと僕が怒られちゃうんだからね」


 顔だけ振り返った少女から、ギロリと睨まれた。誰がついて来いと頼んだ、と言いたげだった。

 アレクシスは少しも気にすることなく、むしろ愉快にすら思いながら少女の小さな背を追った。小動物から警戒されているような、くすぐったい心地だった。これを言うと最悪ナイフが飛んできそうなのでやめた。


(こんな小さい子供が大の大人を脅してねぇ。勝てると思ったのかな?)


 よく考えれば解ることだ。通りかかったのが自分たちの馬車でなければ、斬り捨てられていてもおかしくない。投げやりにも思えた。

 しかし、それでいて真剣な瞳だった。命を懸けていたのだ。その小さな体で。


(それに、あの目、どこかで……)


 ――ああ、そうだ。あの子は死んだ姉に似ているのだ。

 顔の造作などではなく、醸し出す雰囲気が。最期の最期に何かをやり切ろうとする、覚悟を決めたあの瞳に。


 少女の足が止まる。

 先ほどから鼻をつんざいていたのは、死臭だった。目の前には、高く積み上げられた山――よく見れば、それはすべて死体だった。アレクシスは眉をひそめるのを我慢できなかった。


 ようやくナイフを捨て、バスケットだけを持った少女は、躊躇(ちゅうちょ)することなくその死体の山をよじ登っていく。身体の軽い少女だからこそできたことだろう。自分が登れば、腐敗した遺体に足を取られるに違いない。



「お母さん」



 アレクシスは息を呑み、目を大きく見開いた。

 一番真新しいであろう女の死体に向かって、少女は言ったのだ。――母、と。


「遅くなってごめん。やっと、ごはんが食べられるよ」


 少女はビスケットを一つ取り出すと、かつて母だったものの口元に押し当てる。


「ちゃんとかんで食べないとだめだよ」


 しかし、いくら待っても咀嚼(そしゃく)する様子はない。当たり前だ。

 少女も、おそらくは気づいている。ビスケットを口内に無理やりねじ込むような真似はせず、ただただ、半開きの唇に押し当ててじっとしている。


 その光景にたまらない愛おしさと切なさが押し寄せ、気がつけば、アレクシスの口から言葉が突いて出ていた。



「……とてもおいしいわ。あなたも食べてごらん」



 少女の肩がビクリと跳ね、眼下のアレクシスを見下ろした。

 アレクシスは続きを促すように、今までになく優しい眼差しで首を傾げる。


 少女は恐る恐る、二枚目のビスケットを手に取ると、そっとかじった。


「お、い、しい、ね」

「なんていうお菓子なのかしら?」

「な、なん……」


 続けられるお芝居。しかし、少女は応えることができなかった。これまで彼女にとって食べ物とは、「食べられるもの」か「食べられないもの」かの二択しかなかったのだ。

 少女の焦りを察したアレクシスは、コホンと咳払いをして言った。


「ビスケットだよ。アニーの手作りは世界一美味しいんですよ、美しいお母様(ヴォートル・メール)」


 先ほどまでの高音の女口調から地声に戻し、屈託なく笑う。

 少女は驚いたように一度彼を振り返ったあと、はにかむように笑って再び母に話しかけた。


「ねぇお母さん、これ、びすけっとって言うんだって。初めて食べたね。しかも、世界一のびすけっとなんだって。ふふっ」

「だからとびきり美味しいのね!」


 再びの女口調に、少女は吹き出すのを止められなかった。


「世界一?」

「もちろんだわ!」

「ふふ、あのお兄さん、うさんくさいのに、言うことは嘘つきじゃなかったんだね」

「うさんくさい!」


 演技も忘れて、地で驚いてしまった。胡散臭い――生まれて初めて言われた言葉だった。


「ふふっ、ははっ」


 ショックで固まるアレクシスを見て、少女は笑った。泣きながら、大声をあげて笑った。


「お母さん、残りは全部食べていいよ。わたしはもう、おなかいっぱいだから」


 少女はバスケットを母の隣に置くと、死体の山から危なげなく降りてきた。


「あの……ありがとう、ございま、した」


 敬語には慣れていない。それに、散々失礼な態度を取った。けれど、この感謝の気持ちだけは絶対に伝えたかった。

 ちゃんと伝わっているだろうか。アレクシスの前に立ち、うなじが見えるほど深く頭を下げる少女の脳裏を、そんな不安がよぎる。


 だが、返ってきたのは優しい問いかけだった。


「ねぇ、それより君の名前は?」

「……リリアン」


 訝(いぶか)しげに顔を上げたリリアンの目に、「アー」と喉の調子を整えるアレクシスが映る。

 まだお芝居を続けるつもりなのかと身構える少女に、彼は今までで一番優しい声で言った。


「リリー。ありがとう。あなたは生きてね」


 リリーとは愛称だ。きっと母親なら、こう呼んでいただろうから。


 それと――自分がずっと呪いだ(あるいは『呪縛だ』)と感じていた、過去の姉のセリフ。

 なるほど。今、あの時の姉の気持ちが、よく解(わか)った。


 生きていたら、本当に母親が言ってくれたであろうその言葉に、少女の肩が一度大きく震えた。


「おかあさん……」


 リリアンはぽつりと呟き、堰(せき)を切ったように泣き崩れた。

 アレクシスは彼女の両の手を掴んで立ち上がらせると、涙でぐちゃぐちゃになった顔を見つめて口を開く。かける言葉は、すでに決めていた。


「ねぇ、リリー。僕の子になる気はない?」


 それが、僕と――僕の娘であるリリアンとの、出逢いだった。



「あ、僕はアレクシス。気軽にお父さんって呼んでいいからね」

「……アレクシス、さん」

「ありゃ、残念。アレクでもいいよ。僕もリリーって呼ぶし」

「アレクシス」

「後退しちゃった」


 そんなやりとりをしながら、アレクシスがリリアンの手を引いて仲良く馬車に戻ると、クレマンとアニーが同時にその場によろめいた。


「あれ? 二人とも大丈夫?」

「大丈夫に見えますか!? ただでさえ寿命が縮む思いでお待ち申し上げておりましたのに……その子供を連れてきて、いったいどうするおつもりですか!」

「まさか、ナイフを向けてきた相手をそのまま連れて帰る、なんておっしゃらないですよね、坊ちゃま!」


 クレマンとアニーの剣幕もどこ吹く風で、アレクシスはこてんと首を傾げる。


「この子は僕の娘だよ。連れて帰るに決まってるでしょ」


 リリアンが居心地悪そうに手を離そうとするのを、逆にきゅっと力を入れて繋ぎ止める。ポカンと自分を見上げる少女に、アレクシスはふくれっ面(つら)で言った。


「君も僕に反対するの? 嫌だよ? 君は僕の娘だって決めたんだから」


 もぉ〜、とさらに子供っぽく言葉を足されたリリアンは、ただひたすら困惑して目の前の男女を見つめた。だが、助けを求めた相手はそれどころではなかった。


「いったい何があったのですか! 一から十までしっかり吐いてもらいますぞ!」


 やれやれと肩を竦(すく)めたアレクシスは、そこでようやく、これまでの経緯(いきさつ)を語った。


 話を聞き終えた二人は、始めこそ愕然(がくぜん)としていたものの、徐々にすすり泣く声が大きくなり、ついには滂沱(ぼうだ)の涙を流して泣き崩れた。


「そ、そのような、じ、事情が、おありだったの、でしたら……も、もっと早く、お、おおおおっしゃってくださいな……!」

「アニー、大丈夫?」

「そ、そ、そ、そうですぞっ! 申し訳ない、リリアン殿……心にもない言葉をををを、くうううううっ!」

「あのさ、君たち、とりあえず落ち着いたら?」


「坊ちゃんに至っては深く反省してください!」

「そうですわ! こんなにも心配をかけて!」


「わあ、いきなり滑舌(かつぜつ)よくなったね」

「坊っちゃん!!」


 説教モードに入ったクレマンを無視して、アニーはリリアンを優しく抱きしめる。


「ああっ、こんなに冷えて……。帰ったらすぐにお湯を張ります。しっかり暖まってくださいね、リリアンお嬢さま」

「あ、僕も。夜会でついた香水の匂いが臭いんだ」

「坊ちゃまはお嬢さまの後です!」


「あれぇ? うちの主、僕だったような。まぁいいや。――リリーを受け入れてくれてありがとね。二人とも」


 アレクシスは最初(はな)から二人を信じていた。事情さえ話せば、リリアンを拒絶するはずがないと。

 しかし、話の過程をすべてすっ飛ばす癖がある彼は、説明や説得というものが極端に苦手であった。クレマンが「反省しろ」と言ったのも、まさにその悪癖のことである。


 だが、アニーとリリアンを微笑ましく見守っている彼が、それを理解したとは思えない。現に、クレマンの説教を聞いてすらいない可能性が高かった。

 ――そういう男なのである。


 すっかり泣き止み、歓迎モードになったところでようやく帰宅する。アニーがお風呂の準備をしている間に、アレクシスは暖炉に火を起こした。


「それはわたくしの仕事です!」


 馬屋から戻ってきたじいが焦って言うから、


「手が空いてる人間がいるのに?」


 と返したら、顔を両手で覆われた。うーん、どうも僕は主人としての威厳(いげん)が足りないらしい。


「リリアン様もいらしたことですし、いい加減、人を雇いませんか?」


 クレマンからは、使用人を雇うように前から打診(だしん)されていた。けれど、ずっと彼とアニーだけで十分だと断り続けている。そして、今回もきっぱりと断った。


「どうしてそこまで頑(かたく)なに嫌がるのです? わたくしどもが楽をしたいわけではありません。坊ちゃんの手を煩わせたくないんです」

「……うん。ごめんね」


 アレクシスは、大事な人が増えるのが怖かった。もし、あの悪夢が再び起こったら……。そう思うと、どうしてもあと一歩が踏み出せない。


(ああ、でも)


 リリーだけは、諦めたくなかった。そんな自分が不思議だった。


「じい、僕はね、とても臆病(おくびょう)なんだ」


 社交の場での、他人を寄せ付けない雰囲気作りも、実は意識してやっている。


「じいも、アニーも、リリーも、僕の手の届く距離にいて欲しい。それ以外は、最初から護れないくらいなら、傍(そば)に置きたくないんだ」


 ごめんね、と再び謝ると、じいは何とも複雑そうな表情を浮かべていた。


「……坊ちゃん、我々は……」


 ――ただの使用人です。そう言おうとしたクレマンを遮ったのは、意外にもリリアンであった。


「わたしはいいよ。まもってくれなくても」


 それまで大人しかったリリアンの突然の発言に、二人は同時に彼女を見た。

 一斉に視線を浴びたリリアンは、一瞬だけ怯み、次いで困ったように眉根を寄せた。


「あ、ごめんなさい。ちがうの。あなたが、たよりないとかじゃなくて、わたしが言いたいことは」


 そこで突然、両ひざを床に着いたリリアンに、またしても二人は仰天させられる。

 慌てて立ち上がらせようとアレクシスが彼女に近寄った、その時だった。


「スルヴィール エ プロテジェ、テル エ、モン スールマン」


 ――あなたに仕え、護り抜くこと。それが私の誓いです。


 まさに、真摯なる騎士の誓いであった。


 アレクシスとクレマンは言葉を失った。いち早く我に返ったアレクシスが、「どこでそれを……」と掠れた声で尋ねると、よく母の寝物語に出てきた騎士のセリフだと返ってきた。


「意味も、ちゃんとわかってるわ」


 リリアンは、まっすぐにアレクシスを見つめて続けた。


「ごめんなさい、けいご、まだ苦手なの。でも言わせて。わたしがまもるわ。今はこどもで、たよりないかもしれないけど、大きくなったら、みんなわたしがまもるから。ぜったい強くなって、アレクの大切なものは、全部まもってみせるわ」

 

 そう、少女は勝気な笑みを浮かべて言い切った。


 そこへちょうどアニーの声が掛かり、彼女は返事とともに立ち上がると、「おぼえておいてね」と言い残し、何事もなかったかのようにアニーの待つ浴室へと向かった。


 リリアンが去った後、それまで石像のように固まっていたアレクシスとクレマンは、深く息を吐き出して互いに顔を見合わせた。


「あ、あれ? 僕、お姫様じゃなくて、騎士様(シュヴァリエ)を拾った……?」

「さ、さすが坊ちゃんの御子(みこ)です。大変肝(きも)が据わっておられる……」

「いや、血は繋がっていないよ」


 びっくりした。本当にびっくりした。

 あんなこと、生まれて初めて言われた。まさか、これから先の人生でそんな言葉をかけられるなんて、思いもしなかった。

 だって、ここでは僕が主人で、主だからこそ――ずっと、僕がみんなを護らなきゃいけないんだって、そう思っていたから。


 それなのにあの子は、僕のことも護ると言ってくれた。じいもアニーも、僕の大切なものすべてを、と。


 胸が苦しかった。目に熱いものが込み上げ、唇を強く噛んで堪(こら)えた。


 ふと視線を感じて顔を上げると、じいがすべてを包み込むような優しい笑みを浮かべていた。それがなんだか酷く気恥ずかしくなって、ついそっぽを向く。


(アレク、とも言ってくれた)


 もう何年も耳にしなかった、己の愛称。

 誰からも呼ばれなくなったそれは、遠いあの日、家族を失ってから二度と聞くことはできないと思っていたものだった。


(あの子は、どこまで……)


 どこまで、自分を喜ばせたら気が済むのだ。

 己が大人であり、保護者なのだと思っていた。だが、これではどちらが護られているのか分からない。


「ふふっ……ねぇじい、さっきの話、アニーにも伝えておいてよ。きっと喜ぶからさ」


 自分たちだけで独り占めにするのは、ずるいと思ったのだ。


「ええ、坊ちゃん。ついでに、お嬢さまを迎えた坊ちゃんのいまのお気持ちも、一緒に伝えておきますな」

「あ、それは恥ずかしいから本当にやめて」


 冗談めいて言うクレマンに、アレクシスは年相応の若者らしく、赤くなって恥じ入っていた。



 数日後。


「じい、首尾(しゅび)は?」

「はい……毎日城へ知らせを出しておりますが、未だに返事が。わたくしの力が至らなくて、申し訳ございません」

「じいのせいじゃないよ」


 リリアンを正式に娘として迎えるためには、王の許可が必要だった。そのために何度も城に手紙を送っている。もし王の目に触れているのならば、あの尊いお方が無視をするはずがなかった。

 ――だとするならば、原因は一つだ。王の側近たちが「謁見は無用」と判断し、手紙を握りつぶしているのだろう。


 アレクシスは初めて、自分が貴族最下位の男爵位であることに不満を抱いた。

 別に、伯爵に戻りたいわけではない。けれど、こうも無下に扱われるのは腹が立つ。


「坊ちゃん」


 真剣な声音に導かれるように、顔を上げる。


「坊ちゃんの、その権力を笠(かさ)に着ようとしない性格は好ましいと思います。ですが――時には、それが必要なこともあるかと」

「……」

「リリアン様を、日陰者にするおつもりはないのでしょう?」


 当たり前だ。

 アレクシスは一度、深く目瞑(つむ)る。次に瞳を開けたときには、確固たる決意が宿っていた。


「これからリリーを連れて、城へ行く」


 そう告げると、クレマンは「畏まりました」と深く頭を下げた。


 アニーに着付けられ、正装を纏(まと)ったリリアンは、スラム生まれとは思えないほど気品に満ちていた。彼女自身の強い芯が、そう魅(み)せるのだろう。


 癖のない長い黒髪。シュッと引かれた美しい眉。そして、意思の強そうな星空の色(ラピスラズリ)の瞳。

 あの出逢いの翌朝、光の下で改めて彼女を見たときは驚いたものだ。スラム暮らしのせいで今はまだ痩せ細っているが、内面から溢れる光が眩く、贔屓目なしにこの子は原石だと確信した。将来、きっと誰もが振り向く美人になる。


「目一杯(めいっぱい)頑張らせていただきますわ!」


 城へ行くと伝えた際、アニーはリリアンの手を引いて我が事のように張り切っていた。反対に、リリアンは苦笑いを浮かべていた。

 本来は贅沢(ぜいたく)を好まない少女だが、アニーが「娘が欲しかった」という話を聞いてからは、着せ替え人形のように好きにさせるようになったらしい。


 クレマンは息子を、アニーは夫を内紛で亡くしている。彼らの家族は、かつてホーマン家に仕えていた使用人たちだった。

 それ故に、アレクシスは未だに負い目を感じている。あの時、子供だった自分にどうにかできたとは思えない。けれど、生き残った自分を詰(なじ)るわけでもなく、ただただ生還(せいかん)を喜んでくれた二人を、今度こそ幸せにしたかった。


 王都に邸を構えているため、馬車はすぐに城へと到着した。


「じゃあ、行ってくるね」

「ご武運を」

「お気をつけて」


 リリアンと共に馬車を降りると、御者台(ぎょしゃだい)からじい、続いて窓からアニーの心配そうな声がかかる。それに微笑みで応え、前を向いた。


 さて。問題はここからだ。


 宮廷の正門に近づくと、さっそく複数の衛兵たちに囲まれた。


「貴様ら、どこの者だ」

「すでに遣いは出している。用があるのは陛下だけだ。どけ」


 普段の彼なら好まない居丈高(いたけだか)な振る舞い。だが、上下関係の厳しい貴族社会において、舐められないためにはこれが必要だった。


「なんだと? おい、この無礼者をとっ捕ま――」


 アレクシスの胸倉へと伸びる男の腕。

 それをかわすよりも早く、リリアンが衛兵の脛(すね)を力いっぱいに蹴りつけた。


「ぶれいものはお前だ。アレクに手をだすな」


 アレクシスはいけないと思いつつも、笑いを堪えきれなかった。痛みに悶えてうずくまる衛兵を無視し、冷ややかに周囲を見渡す。


「お前たち、うちの娘は怖いよ? 早く誰か、話の理解(わか)る者を連れてこい。――アレクシス・ホーマンが来たとね」


 そこへ、たまたま居合わせた上級貴族の一人が嘲笑(あざわら)った。


「ホーマン家と言えば、顔だけが取り柄の落ちぶれ男爵ではないか。陛下は多忙であられる。貧乏貴族は大人しく田舎に引っ込んでいろ」


 男の貴族から嫌われるのは慣れっこだった。故に腹は立たない。むしろ、ここで同じ貴族が居合わせたのは好都合だとすら思った。

 脳裏に、クレマンの言葉がよみがえる。


『――時には、それが必要なこともあるかと』


 ああ、じい。そうだね。

 アレクシスは改めて姿勢を正すと、傲慢な貴族と衛兵たちを冷徹な瞳で見据えた。


「……言い直そう」


 馬車の車輪の音すら消えたような静寂の中、アレクシスは朗々とその名を響かせる。


「私、アレクシス・ホーマン・シエル・ジュネリー・スワフ・プァーファル・ババロニー・リャイル・カロラン・アロマネオが、陛下への謁見を望んでいる。――そう、城の者へ伝えろ」


 途端に、嘲笑っていた貴族は顔を紙のように白くさせ、衛兵たちは我先にと城の中へ駆け出していった。


 唯一、リリアンだけが理解していない様子で首を傾げている。

 だが、貴族社会に身を置く者なら、この長い姓(せい)が何を示しているのか知らないはずがなかった。


 貴族の姓とは、その家が積み上げてきた歴史そのものだ。

 アレクシスの血族は今や彼一人だが、約五百年の歴史を持つ超名門大貴族。公爵や侯爵でさえ王の交代と共に平気で入れ替わるこの国で、唯一、彼らの伯爵家だけは王の交代に左右されない絶対的な権力を持っていた。それこそ、王が頭を下げて頼りにするほどに。

 アレクシスの家族が真っ先に凶刃(きょうじん)にかけられたのも、その尊(たっと)き血筋ゆえだったのだ。


 今にも卒倒しそうな男性貴族を見つめる。貴族はおしゃべりだ。きっと明日から、周囲の態度が一変するだろう。アレクシスは皮肉気な苦笑いを隠せなかった。


 その後、すぐに重厚な城門が開き、難なく謁見の許可が下りた。

 

 玉座の間。かつて面識のあった若き王は、アレクシスとリリアンを優しく迎え入れてくれた。


「よくぞ会いに来てくれた、アレクシス。そして、そなたが彼の選んだ娘か」

「……リリアン、です」

「良い瞳だ。その健気な騎士に、余からも祝福を授けよう」


 王は改めて、以前に辞退された伯爵の位に今一度戻ってくれないかと乞(こ)うたが、彼はそれをやはり丁重に辞退した。たとえ男爵のままであろうとも、国に助けが必要ならいつでも力を惜しまない、という約束を改めて交わして。


 ――こうして、目的の承認書を無事に手に入れた。


 馬車に戻ると、クレマンとアニーがソワソワした様子で外まで出迎えてくれた。

 アレクシスは晴れやかな気分で、王の署名が入った承認書をパッと掲げてみせる。


「ほら、できたよ!」

「おぉ……!」

「よかった、本当によかったです……!」


 二人は満面の笑みを浮かべ、涙を浮かべて新しいお嬢様を歓迎してくれた。


 王のもと、公式に――リリアンがアレクシスの本物の娘となった、最高の瞬間であった。

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