〜序 章〜 異端審問官の怒りと決意
深夜の森を抜け、あばら家の朽ちかけた扉を押し開けた。
頭からすっぽりと被った黒のローブに手をやり、目元まで隠れていることを確認する。万が一、誰かに見られたら――。そこまで考えて、首を振った。
肺に溜まった息を吐き出し、地下へと続く隠し板を開けて階段を降りる。
「お待たせいたしました」
「おお、これで全員そろったな」
燭台の灯火だけで照らされた部屋の中、男がローブをめくり顔を晒すと、志を同じくした仲間たちが微笑んで出迎えてくれた。
「さあ、君も血を」
「ふふ、私の血があの方の血肉となるのですね」
声音はうっとりとしていた。持参していたペーパーナイフで親指の腹を切り、長台の中央に置かれたワイングラスの中に血をしたたらせる。
グラスの中にはすでに他の同志たちの血が満ち、赤い液体が妖しく混ざり合っていた。
それを満足そうに眺めていた、その時だった。
スッ、と横からグラスがさらわれた。
「……え」
そこには、見知らぬ人間が立っていた。
今の今まで、気配すら感じなかったことに鳥肌が立つ。仲間も同じだったらしく、突然の不審者の登場に声を荒らげて非難を始めた。
先ほどの自分と同じように目深くローブを被った侵入者は、周囲の怒号など意にも介さない。奪い取ったグラスを軽く揺らし、燭台の炎にかざすようにして、濁った赤い液体の中身をじっと見つめている。
「なるほどな」
最後のパーツはここか。小さな呟きが、侵入者の口から漏れた。
「誰だ貴様……!」
仲間の金切り声にようやく振り返った侵入者は、ニィと薄い唇で弧を描き――そしてあろうことか、グラスを逆さまにした。
当然、中にあった血は残さず床に散った。
同時に、二つの美しい色のガラス玉も。
「何をする!!!!」
声を荒らげるのは、今夜の儀式の主催者だった。
しかし侵入者はその声を無視し、つかつかとある場所へ向かった。足を止めたそこには、ひとりの裸体の少女が横たわっていた。両手に収まるほど小さな十字架を握りしめながら。
そう、今夜のために用意された贄であった。
侵入者は屈み込むと、少女の白い首に右手を添えた。そして左手で顎をすくう。
「……絞殺か」
下衆が、と、怨嗟を込めた低い声音に、参加者全員に悪寒が走る。
侵入者は己のローブを脱ぐと、少女に優しく覆いかぶせた。
「……ちゃんと家に帰してやる。少し待っててくれな?」
そうして立ち上がった侵入者の姿に、全員が目を見開く。
想像以上に若い男だった。やや浅黒い肌に、短い癖毛は濃い茶色。瞳も同じく暗めの茶色。
わずかな面積の布から覗く、すらりとした長い腕。その手首には、無骨な金色の輪が嵌められていた。そして胸元には、キラリと光る銀製の十字架が揺れている。
「し、神聖なる儀式を邪魔しおって……!」
主催者の怒声に、またもや全員がハッとする。初めて見る異様な装いを前に、彼らは一瞬、己の置かれた現状すら忘れかけていた。
「無関係なガキを殺しといて、神聖とかぬかしてんじゃねぇよ、ハゲ」
先ほどまでの優しい声音は空耳だったのかと疑いたくなるような、底冷えする蔑み。主催者は唖然と固まっていた。
他人事のようにその様子を眺めていると、侵入者――その青年は眉をしかめ、自分と、他の仲間を順番に見渡した。
「おい、言っとくが、てめぇらも同罪だかんな。上は今夜のことを存在ごと消すと判断した」
「な、に?」
「天使崇拝は認められてねぇ。お前ら、教会に唾吐いてる自覚ある? んで、お怒りになられた教会からおれが派遣されたって訳。まさか"材料"しかり、他にも無関係の人間を手にかけてるとは思わなかったぜ。贄が必要なんて、どこにも記されてなかったはずなんだがなぁ」
「な、なぜそのことを!」
主催者の問いかけに、青年は暗い瞳でふっと嗤った。
「あんたの懐の羊皮紙は写しだ。本物はとっくに証拠品で上に挙がってるぜ? んで、そこに書いてあったんだよ。どいつを喚ぶものかもやり方も、すべて。そこにゃあ贄のことなんざ載ってなかったが、もしかしててめぇの判断か? ったく、迷惑な親切心出しやがって。天使様へのデザートのつもりだったのか? ほんと糞だな」
「き、貴様、言わさせておけば――」
「おい、まだおれが罪状述べてんだろ、黙れ。つっても、もう話すこともねーけどな。今出回ってる羊皮紙の出どころも解ってる。あとは贄にされた子の情報なんだが……あんたはもちろん知ってるな? ああ、ちなみに、証人は一人で十分だ」
「え」
己の喉から、か細い声が漏れる。
「他の奴らは……」
言いながら、青年が背に両手を回す。
そこから、二振りの小振りな刃が現れた。
「異端審問官による粛清だ」
地下なのに、風が吹き抜けた。
いや、違う。青年が走り抜けたのだ。
声を上げようとして、出ないことに気づく。
喉笛から勢いよく血が噴き出し、慌てて手を添えた。何が起こったのか、理解が追いつかない。
視界が徐々に霞み、辺りの悲鳴が遠ざかっていく。
ようやく理解できたのは、ここで己が死んでいくという事実だけだった。
理解したと同時に、意識が飛んだ。
異端審問官を名乗った青年は、くるくると、まるで踊り子のように暗器を振るった。
彼の愛剣であるそれは、ここイタリアでは珍しい半月刀だった。反り返った刃が、次々と参加者の喉を掻っ切っていく。
「ひっ、あ、悪魔……!」
最後の一人となった主催者が、腰を抜かして後ずさる。
その言葉に、青年は可笑しそうに嗤った。
「おあつらえ向きだろ?」
血のりをパッと払って剣を鞘に納めると、戸の外に待機している部下を呼ぶ。
すぐに顔を隠した三人の人間が、部屋へなだれ込んできた。一人は手に、油の入った桶を持っている。
「お疲れ様です、隊長」
「ああ。待たせたな。ひとり生かしてある。まだ訊くことがあるからな、連れて行け。暴れるようなら半殺しにしてもいい。だけど、声は出せる状態にしとけよ」
「ハッ!」
「あと、奥に寝かせてる女の子。肌の張りからして、たぶん上流階級の子だ。死因は絞殺。首の痕を白粉で隠して、両親の元へ還すように。所在はそのハゲから聞き出せ。正しく聞き出せたら連絡を入れろ。最後はおれが処理する」
「承知しました」
「隊長、この樽も証拠品として挙げますか?」
部屋の隅に、ポツンと置かれた大きな樽。まるで、人一人が丸ごと入るようなサイズだった。
「中、見たか?」
「え」
「見てみろ」
言われて素直に樽を覗き込んだ部下が、次の瞬間、その場で激しく嘔吐した。
「ひ、し、失礼、しま、うっ……!」
「意地悪して悪かったな。無理に喋らなくていい。おれは事前調査で知っていたし、前にも見たことがある」
青年は、吐き続ける部下の背を軽く叩きながら言葉を続けた。
「本来なら彼らも元の家に還すべきなんだろうが、いかんせん、もう区別がつかねぇ。悪いが、ここで一緒に焼く」
「焼く!? それらを集めるのに、どれほど苦労したかと……!」
部下の腕に組み伏せられていた主催者が、血相を変えて悲鳴を上げた。
この期に及んでまだそんな余裕があるのかと、青年は心底呆れた。元々、今回の儀式に関わった人間には、等しく生きたままの火刑が待っていたのだ。だが、この悲惨な事件を世間に明るみにしたくない教会から、「秘密裏に処理せよ」と密命が下った結果がこれである。
(ま、こいつらも、生きたまま炎に巻かれるよりはマシだろ)
一瞬の短い苦痛の中で絶命に至らせてやったのは、おれからの砂粒程度の慈悲だ。
そんな風にどこか黄昏ながら、床に散る屍たちを眺める。
「あ、そういや」
青年は部屋の中央まで歩くと、先ほどひっくり返したワイングラスの側で屈んだ。
「さっきは落としちまって悪かったな」
ねっとりとした血の塊から、二つのガラス玉――美しい色彩を放つ人間の目玉を優しく拾い上げる。そして、先ほどの樽の中身に、そっと添えるようにして置いた。
「じゃあ各々、後始末をヨロシク。特にこの場所は念入りにな」
ニコリと、油の桶を持つ部下に笑いかける。
「心得ました」
「ありがと。全部終えたらお前らも帰っていいからな。お疲れさん」
「「「お疲れ様でした!」」」
部下たちの敬礼に、片手を軽く挙げて応える。
先に地上に出た青年――ジャンマルコは、北の方角、正確には『パリ』の方角を冷徹に睨みつけながら、手の中の羊皮紙を強く握りしめた。さきほど擦れ違いざまに、主催者の男の懐から鮮やかにすり盗ったものだ。
彼の国から流れてきているこれには、天使を召喚するための恐るべき手順が記されていた。
十三人の人間の体の一部を材料とする、まるで悪魔が考え出したような悪趣味な内容。
「いい加減、無視できねーな」
――おれも、教会も。
身を翻すジャンマルコを不気味に照らすように、背後でボッと、激しい火の粉が夜空へ舞い上がった。




