3章 仮の関係?? ①
12月24日、早朝。
とうとう、この日が来た。
母と住んでいた家のリビングには、段ボールがいくつも積まれている。
今日、俺は都内の会社近くのタワーマンションに引っ越す。
引っ越しの立ち会いがあるため、仕事は休みを取って調整した。合間で会社に顔を出さなければならない用事はあるが、夜には高校時代の男友達から誘われた飲み会に参加する予定も入っている。
段ボールの山を横目に、俺はランニングウェアに袖を通し、玄関に置かれたランニングシューズを履いて外に出た。
いつもなら朝5時には起きて走り始めるのが日課だ。だが今日は、引っ越しの最終準備に手間取り、時計の針はすでに7時を回っていた。
冬の冷たい空気を肺に吸い込みながら、住み慣れた住宅街を走る。
駅へと向かう会社員や、学校へ急ぐ学生たちとすれ違っていく。
ふと、前方に見覚えのある後ろ姿を見つけた。
「おはよっ……光」
足音を潜めるように近づき、声をかける。
仕事で都内に向かおうとしている光だった。
「わっ、びっくりした! おはよ! ランニング?」
「……うん。今日引越しだから、最後にこの辺りを走っておこうと思って」
「確か、前お母さんたちとご飯食べた時に言ってたよね!引越し気をつけてね!」
光は、パッと花が咲いたような笑顔を向けた。
その瞬間、俺は彼女が纏う、いつもとは違うほのかな空気に気づいた。
普段はカジュアルな服装が多い彼女には珍しい、少しドレッシーなスカート姿。足元も、歩き慣れないヒールのある靴を履いている。それに、メイクもいつもよりずっと念入りだ。
……俺は、すぐに察した。
「光は、今日だったよね……」
「……?」
光が不思議そうに首を傾げる。
その純粋な瞳を見つめながら、俺は胸の奥がギュッと締め付けられるのを覚えた。
「いや……啓司と今日、会うんだよね。……楽しんできて」
言葉の裏側に渦巻く不安と、どうしようもない葛藤を必死に押し殺し、俺は無理矢理に笑顔を作った。
「あっ、うん! ありがとう!」
一瞬、光の顔に不安そうな翳りが差したように見えた。けれど、彼女はすぐにそれを打ち消すように、とびっきりの笑顔を俺に向けた。
あの日からずっと守りたかった、大好きな笑顔。
その笑顔が愛おしいからこそ、彼女が今向かっている場所を思うと、たまらなく切なかった。
「……送るよ」
俺は走るペースを落とし、ヒールで少し歩きにくそうにしている彼女の歩幅に合わせて、最寄り駅まで並んで歩いた。
「いってらっしゃい」
駅の改札。光がパスケースを取り出すのを見届け、俺は小さく手を振った。
「行ってきまーす! キノも引越し頑張ってね!」
改札の向こう側で、光がもう一度振り返り、満面の笑みで手を振り返してくれる。
その笑顔を見送った後も、俺はその場から動けずに立ち尽くしていた。
本当は、あの無理をしているような、どこか不安げな瞳を見た瞬間、その手を引いて引き留めたかった。
『行くな』と、彼のもとへ向かう彼女を止めたかった。
けれど、19年間胸に秘め続けた想いは、そう簡単に俺の理性を壊してはくれない。彼女の幸せを願う自分が、常に俺の感情にブレーキをかける。
「……っ」
グッと奥歯を噛み締め、俺はくるりと踵を返した。
冷たい冬の風を切り裂くように、再び走り始める。息が上がるほどペースを上げれば、この胸の痛みも少しは誤魔化せるような気がした。




