16章 花束と誰か ④
キノの車の赤いテールランプが夜の闇に溶けて見えなくなってから、私はゆっくりと実家の玄関ドアを開けた。
「ふぅ……」
靴を脱ぎ、住み慣れた実家の匂いを嗅ぐと、さっきまでの夢のように甘い時間が少しだけ遠のいて、現実の世界に戻ってきたような気がした。
それでも、彼にキスされた頬はまだ熱を持ったままだし、何より両腕に抱えられた大きなピンクの花束からは、キノの面影を感じさせるような甘く瑞々しい香りが漂い続けていて、私の頭の中はずっとフワフワしたままだった。
ガチャリ。
私は、はち切れそうなほど大きな花束を胸に抱えたまま、リビングのドアを開けた。
すると、そこにはお風呂上がりでパジャマ姿のまま、ソファでのんびりとテレビを見てくつろいでいた両親の姿があった。
二人は、ドアを開けて入ってきた私――正確には、私が抱えている尋常じゃないサイズの花束――を見て、同時にギョッと目を見開いた。
「た、ただいま……」
三十四歳にもなって、こんなロマンチックすぎる花束を抱えて帰宅する気恥ずかしさに、私はひどくぎこちない挨拶をしてしまった。
すると次の瞬間、お母さんの顔がパァァァッ! と、まるで後光が差したように明るく輝いた。
「まぁあああっ♡ なんて綺麗なお花!!! ……ってことは、ひかり! もしかして秀介くんがくれたのね!!!!!」
お母さんはテレビの音も気にせずソファから飛び起きると、小走りで私に駆け寄ってきた。そして、花束に顔を近づけてクンクンと匂いを嗅いだ後、ニヤニヤと悪戯っぽい笑みを浮かべて私の顔を覗き込んできた。
「う、うん……。キノがね、またお母さんにも『よろしく』って言ってたよ……っ」
私は顔が真っ赤になるのを誤魔化すように目を逸らし、逃げるようにダイニングテーブルへと向かって、その立派な花束をそっと置いた。
「きゃーーっ、よろしくですって!? 本当に、秀介くんって昔からお行儀が良くて、律儀で素敵ねぇ♡ あんな完璧な男の子、探したってどこにもいないわよ!」
「うん……」
お母さんのテンションの高さに圧倒されながらも、私は小さく頷いた。
お母さんの言う通りだ。私には勿体ないくらい、キノは昔から優しくて、誠実で、人間としてもすっかり出来上がっている。
こんな私が、あんなに素敵な人の隣にいていいのだろうか……。
ふと、そんな自嘲気味な感情が顔を出しかけた、その時だった。
バンッ!!!
「痛っ!?」
お母さんの平手が、私の背中に景気良くクリーンヒットした。
「もーう! 弱気な顔しないの! 絶対に、秀介くんを逃しちゃダメだからね!! あんないい男、二度と現れないんだからっ!!!」
お母さんのものすごい迫力と背中の痛みにびっくりして振り返ると、そこには、いつものお節介でお調子者な顔……ではなく、どこか心の底からホッとしたような、安堵に満ちた優しい母の顔があった。
「お母さん……」
ああ、そうか。
きっとお母さんも、私これまでの恋愛で、深く傷ついて、ずっと自分に自信を持てずにいたことを、誰よりも心配してくれていたんだ。
「……うんっ。ありがとう」
私は、ジンと温かくなった胸を押さえながら、力強く頷いた。
ふと視線を横に向けると、ソファに座ったままのお父さんと目が合った。
お父さんは普段から無口で、こういう時に気の利いた言葉をかけてくるようなタイプではない。
でも、私が失恋して実家の部屋で泣き明かしていた時期、リビングで顔を合わせるたびに、どう声をかけていいかわからず、ひどく心配そうな、痛ましそうな顔をして私を見ていたのをよく覚えている。
でも、今のお父さんは。
テーブルに置かれたピンクの花束と私の顔を交互に見て、目尻に深いシワを寄せながら……本当に安心したような、幸せそうな顔をして、ウンウンと小さく頷いていた。
(お父さん、お母さん。いつも心配かけて、ごめんね……)
私は、二人を包み込むような花束の甘い香りの中で、心の中でそっと両親に謝った。
そして、今度こそは絶対に自分の手で幸せを掴むのだと、彼がくれた花の束を見つめながら強く、強く決意した。
(次は……絶対に、幸せになるからね)




