16章 番外編 見守る人
私は、都内にある高級タワーマンションでコンシェルジュを務めている。
こちらにお住まいになられているのは、いわゆる『選ばれた方々』ばかりだ。企業の役員、著名人、若くして成功を収めた起業家など、誰もが羨むような地位や財産を持った方々が日々このエントランスを行き交う。
その中でも、上層階にお住まいのとある男性は、私たちコンシェルジュの間でも少し特別な存在として噂になっていた。
大手外資系法律事務所にお勤めの国際弁護士、木下秀介様。
芸能人顔負けの飛び抜けた容姿に、洗練されたスタイル。そして完璧な職業。さらには、弁護士としての収入だけでなく、不動産や株の投資などでも莫大な資産を築いていらっしゃるという。
天は二物を与えずと言うが、彼に限っては一体どういう星の巡り合わせがあれば、あそこまで全てに恵まれるのだろうかと、同性の私でさえ感嘆してしまうほどだ。
しかし、そんな華やかなスペックを持たれている木下様だが、実際の私生活は驚くほど地味でストイックでいらっしゃる。
朝早くからパリッとしたスーツ姿で仕事へ向かわれ、夜遅く、時には日付が変わってからお帰りになる。ロビーを歩いている時でさえ、流暢な英語で海外と電話会議をされていることが多く、常に仕事に追われる日々を送られていた。
このマンションにお住まいの方の中には、毎日のように入れ替わりで派手な女性をお連れになる方も珍しくない。
しかし、木下様は華やかな女性関係とは無縁の、生粋の仕事人間。
女性の影など全くなく、むしろ「あんなに働き詰めで、心が休まる時があるのだろうか」と、こちらが勝手に心配になってしまうほどだった。
そんな、ある春先のことだ。
木下様が珍しく、朝から私服姿で、ご自身の車のキーを持って外出されるのをお見送りした。
毎日ほぼスーツ姿しか見たことがなく、移動はタクシーを利用されることが多い方なので、休日に自らハンドルを握られるお姿をとても珍しく感じたのを覚えている。
その日の夜、東京はバケツをひっくり返したような大雨に見舞われた。
夜も更けてきた頃、「木下様はまだお帰りになっていないようだが、事故などされていないだろうか……」とコンシェルジュデスクで案じていた、その時だった。
ウィーン、とエントランスの自動ドアが開いた。
木下様だ。
私はすぐに姿勢を正し、お迎えの準備をする。私たちコンシェルジュは、基本的に必要以上に住人の方と目を合わせたり、プライベートに踏み込むようなことはしない。無言で一礼し、静かにお出迎えをするのが務めだ。
いつものように深く頭を下げ、顔を上げようとした時。
(……あら?)
木下様のすぐ後ろに、今まで一度もお見かけしたことのない女性が、彼にぴったりと寄り添うようにして歩いてくるのが見えた。
片手にはコンビニの小さな袋を提げ、少し不安そうな、目のくりっとした小動物のような可愛らしい女性だ。
その女性がキョロキョロとロビーを見渡し、ふと、私と目が合った。
目が合ったからには、ご挨拶をしないわけにはいかない。
「お帰りなさいませ、木下様」
「……ただいま」
木下様はいつも通り、感情を読ませない涼しい顔で私を一瞥し、エレベーターホールへと歩を進める。
後ろの女性は、木下様と私を交互に見て、少し戸惑ったようにパタパタと彼の背中を追いかけていった。
(……なるほど)
決して派手な着飾り方をしているわけではなく、どこにでもいそうな素朴で温かい雰囲気を持った女性。
お二人の距離感を見るに、まだお付き合いをされている感じではなさそうだったけれど……。
このマンションの住人が好みそうな、ハイブランドで身を固めた華やかな女性たちとは完全に対極にいるようなあの方こそが、木下様の好みなのだろうか。
気取らず、誠実な木下様らしいと言えば、らしいけれど。
私は、いつも孤独に戦っているように見えた木下様の隣に、あのような温かい雰囲気の方がいてくださることに、少しだけホッと胸を撫で下ろした。
――それから、数ヶ月が経った頃。
コンシェルジュデスクの電話が鳴った。
「お電話ありがとうございます。〇〇レジデンス、コンシェルジュデスクでございます」
『……もしもし。〇〇号室の木下ですが』
木下様からだった。
確か、お仕事でニューヨークへ出張に行かれているはずだ。いつものスーツのクリーニングをこちらでお預かりしたままだったので、その件だろうかと思った。
「はい、木下様。いつも大変お世話になっております。いかがなさいましたか?」
『……少し、お願いしたいことがありまして。よろしいでしょうか』
電話口から聞こえるお声は、いつもの業務的な冷たさではなく、どこか躊躇いと、深い感情が入り混じったような響きがあった。
「はい。何なりとお申し付けくださいませ」
『……五月の、〇日の夕方頃に……』
遠く海を越えたニューヨークからの、木下様の『特別なご依頼』。
その詳細をお聞きした私は、思わず少しだけ目を丸くし……同時に、心がジーンと温かくなるのを感じた。
***
そして、木下様にご指定いただいたその日がやってきた。
私は指示されていた通り、彼がアメリカから帰国される時間に合わせ、ご自宅のドアの前である物を持って待機していた。
コロコロ……。
静かな内廊下に、キャリーケースを引く音が響く。
私はその音に反応し、足音の主が目の前に立ち止まるのと同時に、深く一礼をした。
「お待ちしておりました、木下様。ご依頼いただいておりましたお品物でございます」
顔を上げた私は、腕の中に抱えていた『大きく、甘い匂いのするもの』を、木下様へと丁寧にお渡しした。
「……ありがとうございます」
それを受け取った木下様は、出張帰りの疲労など微塵も感じさせないほど、優しく、そして幸せそうに綺麗な目を細められた。
ああ。コンシェルジュが住人の方に対して、このような個人的な感情を抱いてはいけないと頭では分かっている。
分かっているが……両腕に大きなピンクの花束を抱え、愛する人を想って微笑む木下様のお姿は、一枚の絵画のようにあまりにも様になっていて、美しかった。
「では、私はこれで失礼いたします」
私はこれ以上、余計な感情を表情に出してしまわないよう、深く一礼をしてその場を去った。
木下様も私に軽く頭を下げ、静かにご自身のお部屋へと入っていかれた。
一階へと下りるエレベーターの中で、私はホッと息をついた。
先ほどお渡しした、あの大きなピンクの花束を思い出す。
……ふふ。木下様。
私にお手伝いをさせていただけたこと、本当に光栄でございます。
実は、数週間前。
貴方が、今回手配させていただいたものとよく似たピンクの花束を抱え、帰ってこられた夜のことを、私は鮮明に覚えておりました。
いつも涼しい顔をされている貴方が、あの夜だけは……まるで世界の終わりを見たかのように、大切なものを永遠に失ってしまったような、ひどく絶望したお顔をされていたからです。
あのお姿を見た時、私は胸が締め付けられるほど心配しておりました。
でも、先ほどの、貴方のすべてが報われたような幸せそうなお顔を拝見できて、本当に安心いたしました。
……今回は、大切などなたかに、ちゃんとお渡しになられるのですね。
チーン、と音が鳴り、エレベーターが一階に到着する。
私はロビーを抜け、コンシェルジュデスクへと戻る途中、ふと、ロビーの隅にあるソファへと目線を向けた。
そこには、スマートフォンを見つめながら、少し緊張した面持ちで誰かを待っている女性の姿があった。
あの大雨の夜に、木下様の後ろをパタパタと歩いていた、あの小動物のような素朴な女性だ。
(……あの女性が、貴方の『特別な人』だったのですね)
数分後、あの美しいピンクの花束が、彼女の腕の中にすっぽりと収まる未来を想像して。
私は、心の中でそっと微笑んだ。
お二人のこれからの日々が、いつまでも温かく、幸せなものでありますように――。
私は定位置につき、真っ直ぐな姿勢で、この美しいタワーマンションのエントランスを見守り続けた。




