15章 重なる幸せ ④
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ゴォォォォォ……ッ。
上空を飛び交う飛行機の巨大なエンジン音が、建物の中まで低く響いてくる。
キャリーケースを引く人、大きな荷物を抱えて行き交う大勢の旅行客たち。
やっと、やっと着いた……羽田空港!!!
バッ!
「ありがとうございます!!」
私は息を切らしながらタクシーのドアを開け、手持ちの現金を運転手さんに押し付けるようにして払い、空港の巨大なエントランスへと飛び出した。
走りながら、震える手で腕時計を見る。
(やばい……! もう、十時半すぎだ!!!)
朝の渋滞に巻き込まれてタクシーが全然動かず、本当にギリギリの時間になってしまった。十一時搭乗開始なら、もういつ中に入ってしまってもおかしくない。
キノ!! どこにいるの!?!!
もしこのまま間に合わなかったら、もう二度と……あの優しい笑顔には会えなくなってしまうかもしれない。
私は、喉の奥から込み上げてくる涙を必死に堪えながら、チェックインカウンターが果てしなく並ぶ広い出発ロビーをキョロキョロと見渡した。
(だめだ……空港なんて今まで来たことないから、どこに行けばいいか全然わかんないっ!)
人が多すぎる。広すぎる。
私はパニックになりかけながら、近くを通りかかった航空会社の制服を着た女性の従業員さんに、すがるように声をかけた。
「すみませんっ!! 十一時から搭乗できる、ニューヨーク行きのゲートってどこですか!?」
「えっ……ゲートですか? お客様、搭乗券はお持ちですか?」
息をハァハァと荒らげる私を見て、従業員のお姉さんは心配そうに、けれど冷静に聞き返してきた。
「あ、搭乗券はなくて……っ。その飛行機に乗る人に、どうしても、どうしても会いたくて!!」
「なるほど……。申し訳ありませんが、搭乗券をお持ちでなければ、保安検査場の手前までしかお入りいただくことはできません」
従業員さんの申し訳なさそうな言葉に、私はサーッと血の気が引いた。
もし、キノがもうすでに検査場の中に入ってしまっていたら……もう、絶対に追いつけない。
「はっ……どうしよう……っ」
絶望で、ガクガクと震える足がその場に崩れ落ちそうになる。
すると、従業員さんは私の顔を見て何かを察してくれたのか、パッと表情を明るくして、ある方向を力強く指差した。
「大丈夫です! 十一時の搭乗開始なら、まだ間に合います!! 保安検査場はあちらです!! 早く、見つけてあげてください!」
「っ!! ありがとうございます!!!」
私は、「大丈夫」と背中を押してくれた従業員さんに深く頭を下げると、指差された方向へ向かって、再び弾かれたように走り出した。
……キノ!!! キノっ!!!
大勢の人が行き交うロビーを、人を避けながら必死で走る。
こんなにがむしゃらに、息が切れるほど全力で走ったのは、高校の体育祭以来だ。
息が持たない。肺がちぎれそうに痛い。
低いヒールだけど、かかとが酷く靴擦れを起こしていて、一歩踏み出すたびに激痛が走り、もう動けなくなりそうだ。
つまずいて転びそうにもなるし、すれ違う人の肩にぶつかってしまう。
でも、そんなこと、もうどうだっていい!!!
キノに……っ! キノに、この本当の気持ちを伝えられないまま一生後悔して生きる方が、足の痛みなんかよりもずっと、ずっと辛いんだから!!!
必死で走りながら、私の脳裏に、これまでの記憶が走馬灯のように駆け巡った。
初めてキノに会ったのは、私の家の玄関に、ミサおばさんと一緒に引っ越しの挨拶に来た時。
『なんて綺麗な男の子だろう』って見惚れてしまって、恥ずかしくてお母さんの背中の後ろに隠れたっけ。
それから、いつも重いランドセルを背負って、しんどそうに俯いて登校していたキノが、私の隣で少しずつ笑顔を見せてくれるようになった時……なんだかすごく、誇らしくて嬉しかった。
中学三年生の時、ミサおばさんが倒れた日。
どこかに消えてしまいそうなほど真っ青な顔をして震えていたキノを見て、『絶対に、私がこの子を支えてあげなきゃ』って、子どもながらに強く誓った。
高校の時、私が一人でこっそり園芸部の土いじりをしていると、「なんで、いつも一人でやっちゃうの?」と文句を言いながらも結局最後まで手伝ってくれたよね。あの不器用な優しさが、すごく嬉しかったんだよ。
そして……十六年ぶりに再会したキノ。
立派な大人になったキノは、私が絶対に手の届かないくらい遠い世界の人になっていて、びっくりした。
青田にクリスマスにドタキャンされて、惨めさと寒さでどん底に落ちて凍えていた私を見つけて、強く抱きしめてくれた。
落ち込んでいる私に、『仮の恋人』なんていう不器用な提案をしてくれて……そこから、ずっと止まっていた私たちの時間は動き出し、私の生活の隣には、いつもキノがいてくれた。
この数ヶ月間、本当に色々なことがあった。
キノとは住む世界が違うという現実を突きつけられて、辛くなることもあった。
その度に『いつも完璧で美しいキノの横に並ぶのは、私なんかじゃダメなんだ』って、卑屈になって逃げ出そうとしてしまった。
でも、でも、やっぱり……。
一緒に行った、お台場のレインボーブリッジの夜景。
マフラーのプレゼント。
私が勝手に誤解して泣いて飛び出した後の、公園でのカフェのプリン。
照れながら「似合ってる」って言ってくれた、ウサギの被り物。
隣で肩が触れ合いながら一緒に見た、テーマパークの光のパレード。
大雨の夜、急遽泊まることになったソファで、唇が触れるかと思ったあの熱い瞬間――。
キノがくれた、甘くて、温かくて、魔法みたいな思い出ばかりが、胸の奥からとめどなく溢れ出してくる。
そして……いつも、私を見る時にだけ見せてくれる、あの優しくて愛おしそうな笑顔が……私は、大好きなんだ!
「っ……!!」
走りながら、堪えきれずにポロポロと大粒の涙が溢れ出した。
絶対。絶対に……貴方のその手を、もう二度と離したくない!!
涙で視界が滲んでぐしゃぐしゃになる中。
私は、遠くの保安検査場の入り口付近に、スッと目を凝らした。
大勢の人が行き交う群衆の中で。
まるでそこだけ光が当たっているかのように、一人の男性の姿がクリアに浮かび上がった。
スーツに身を包み、長身で、片手にキャリーケースを引いた……見間違えるはずのない、あの背中。
「……っ!!」
私は、肺に残った最後の空気をすべて振り絞り、彼の背中めがけて、これでもかというくらいの大声で叫んだ。
「キノーーーーーーッ!!!!」
広大な空港のロビーに、私の声が響き渡る。
その声に反応して。
キャリーケースを引いていた彼が、弾かれたようにバッと振り返った。
いつも冷静沈着で、何があっても完璧なポーカーフェイスを崩さなかった彼が。
私の姿を認めた瞬間、信じられないものを見たかのように、限界まで大きく目を見開いた。
「ひ、光っ!? なんで、ここに……!?」
私は最後の力を振り絞り、よろけそうになる足で彼の元へと一直線に駆け寄った。
そして、彼の目の前で立ち止まると、涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げ、枯れそうな声で真っ直ぐに叫んだ。
「私……キノが好きっ!!! キノじゃなきゃ、絶対に嫌だ!!」
やっと、言えた。
ずっとずっと蓋をして隠し続けてきた、私の……本当の気持ち。
「…………っ」
あまりの衝撃に言葉を失い、呆然と立ち尽くす彼に構わず、私は涙声で続けた。
「ごめんね……キノっ。私、怖くて逃げてただけだった……っ! キノを幸せにできるのは……私じゃなきゃ、ダメだよね……っ!」
もう、逃げない。コンプレックスにも、周りに何を言われようが、負けない。
私が、貴方を世界で一番幸せにするんだ。
その決意を込めて、私は真っ直ぐに、彼の美しい瞳を見つめ返した。
すると。
目を見開いたまま固まっていたキノの腕から、力が抜け……持っていた紙袋が、パサッと足元に落ちた。
彼は、ふらつくような足取りでゆっくりと私に近づくと、ひどく震える大きな手で、私の涙に濡れた頬にそっと触れた。
「……夢、みたいだ……」
「っ……!」
頬に触れる彼の手の熱さ。
そして、至近距離で見上げた彼の美しい切れ長の目には、今にも零れ落ちそうなほどの……いっぱいの涙が溜まっていた。
次の瞬間、私の身体がふわりと宙に浮くような感覚に包まれた。
「あっ……」
キノの長い両腕が私の背中に回り、骨が軋むくらい、強く、強く抱きしめられた。
彼の広い胸元に私の頬がすっぽりと埋もれ、耳のすぐそばから、ドクン、ドクンという、彼の早鐘を打つような激しい心臓の音が聞こえてくる。
そして、私の耳元で、甘く震える彼の声が、静かに、けれど確かな熱を帯びて響いた。
「……俺も。ずっと……ずっと、好きだった。……光だけを」
そのたった一言で。重みと愛が詰まったその声で。
「……うぅっ……ああぁっ……!」
私の中にあったすべての不安や恐怖が完全に溶け去り、せき止めていた涙が滝のように溢れ出した。
私はキノのスーツの背中を両手で強く握りしめ、子どものように声を上げて泣きじゃくった。
……こんなに、嬉しくて、世界中が光に包まれたみたいに幸せで泣いたのは……私の三十四年の人生で、今日が初めてだった。




