15章 重なる幸せ ③
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ピピピッ、ピピピッ……。
「うっ……」
無機質な目覚ましの音に、私は鉛のように重い体を動かし、スマホの画面をスワイプしてアラームを止めた。
ほんの二週間前までは、この後にLINEのトーク画面を開くのが、毎朝の一番の楽しみだった。キノからの『おはよう』という短いメッセージを見るだけで、一日中頑張れる気がしていた。
でも今の私は、新しい通知が何もない黒い画面を見つめた後、そのまま力なくロック画面に戻してベッドから起き上がるだけだ。
ゴールデンウィークの長期休みが明けて、五日が経った。
あの日、冷たい嘘をついて彼の手を振り払ってから……私はキノと、一切連絡をとっていない。
(あの、魔法のような日常は終わったんだ)
洗面台の鏡に映る、ひどく血色の悪い自分の顔をぼんやりと見つめながら、歯を磨く。
いや、違う。今まで通りの、モブキャラみたいな私の日常に戻っただけだ。
きっと、こんな風に胸が張り裂けそうに辛いのも最初のうちだけ。時間が経てば、諦めもついて解決してくれる……きっと。
頭ではそう言い聞かせているのに、私の胸はギュッと締め付けられるように痛んだ。
そして、いつもの時間に家を出て、静かな住宅街を抜け、最寄り駅へと向かって歩く。
その途中、駅の近くにある『自動販売機』がふと目に入った。
「あっ……」
この前までは通っても何とも思わなかったのに、その自販機を見た瞬間、鮮明な記憶がフラッシュバックして足がすくんだ。
あの日。私が落とした温かいココアの缶を、タクシーから降りてきたキノが拾ってくれた。
(あそこから……私の運命は、変わり始めたんだよね)
ずっと「ただの幼馴染」だったはずの彼との関係が動き出し、甘くて優しい時間に溺れていった。あわよくば、そのまま彼との幸せな未来が続くのだと、浮かれた勘違いをしてしまっていた。
でも。
私は立ちすくんだまま、ギュッと手を握りしめた。
脳裏に焼き付いているのは、あの週刊誌の記者さんが見せてきた、大物女優・南川優子さんとキノの親密そうな写真。
誰もが振り返るような美男美女で、本当にお似合いの二人だった。
それに比べて、私なんか……。
三十四歳にもなって、まだ派遣社員として働いていて。実家暮らしで、顔も冴えなくて、取り柄なんて一つもない。
大人になって、遥か遠い手の届かない世界に行ってしまった完璧なキノ。元々、私なんかと交わるはずのない人だったのだ。
それなのに、彼が優しくしてくれるからって、私が勝手に身の程知らずな夢を見ていただけ。
「……っ」
視界が歪む。
やばい。まだ出勤前なのに、涙が出てきた。
私は慌てて目元をゴシゴシと擦り、逃げるようにその自動販売機に背を向けて、会社に向かう満員電車に乗り込んだ。
***
相変わらず、朝から賑やかな空気に包まれたオフィス。
「……おはようございます」
私が力なく挨拶をしてデスクに座ると、隣の席の先輩が、ギョッとした顔でこちらを見た。
「おはよーっ。……って一途名さん、顔死にかけてるよ!?」
朝の涙を必死に我慢して出社した私の顔を見て、先輩は心底驚いた声を上げた。きっとメイクも酷いことになっているのだろう。
「あ……大丈夫ですっ、なんか、すみません」
「なんで謝るの!? ていうか一途名さん、GW明けてから本当に大丈夫? ご飯とか、ちゃんと食べてる?」
図星だった。実はあの日から、大好きだった食べることも最低限しか喉を通らなくなっていた。
「大丈夫です……先輩にもらったお菓子は、ちゃんと食べてますから」
「いやいや、お菓子だけじゃダメだから! とりあえず、今日一緒にランチ行こ? 話聞くからさ、ね?」
先輩は、私の顔を覗き込むようにして優しく言ってくれた。
(ああ、本当に先輩は優しいな……)
キノはいなくなってしまったけれど、私にはこうやって、ちゃんと私を見て、心配してくれる優しい人が周りにいるじゃないか。それだけでも、私の人生は十分に幸せなはずだ。
私は先輩の優しさに少しだけ心が温かくなり、無理に口角を上げて頷いた。
「……ありがとうございますっ」
「うんっ! じゃあ、午前中の仕事がんばろ!」
ニコッと笑う先輩に元気をもらい、私は気を取り直してPCに向かった。
――それからしばらくして。
時計の針が九時半を回った頃。
そろそろ郵便物のチェックに行こうと、私が席を立ちかけた、その時だった。
「ヒカリちゃーーーん!!! どこなノーーーーーー!!!」
静かなオフィスの廊下から、突然、外から私の名前を叫ぶ甲高い女の人の声が響き渡った。
「えっ……? この声……」
聞き覚えのある声に、私はビクッと肩を震わせた。
「え? ひかりちゃん? だれ……?」
「てか、すごい大声なんだけど……やばくない?」
どこにでもある中規模のメーカー企業。平穏な日々を過ごすフロアの社員たちは、突然のイレギュラーな事態にソワソワし始め、オフィスの外へ様子を見に出る人もいた。
「っ! もしかして……」
私はバッと立ち上がり、小走りでオフィスの外の廊下へと出た。
そして、目の前の光景に目を丸くした。
「ハァッ……ハァッ……!!」
そこには、両手にハイヒールを握りしめ、裸足のまま息を切らし、長い黒髪をボサボサに乱した、ものすごいオーラの美女が立っていた。
キノの従姉妹の、サラさんだ。
「ヒカリちゃん!!!!! イタ!!!!」
「サ、サラさん!?!?」
廊下に野次馬のように集まっていた社員たちの中に私を見つけると、サラさんは凄まじい勢いで人混みを押し退け、私の目の前まで駆け寄ってきた。
「ちょっ、邪魔! どいテ!」
周りからは「え、何あの美女!?」「ひかりちゃんって一途名さんのこと?」「一途名さんにこんな美人の知り合いいたんだ……」「日本語カタコト?外国の人?」と、驚きのざわめきが起きている。
私は、息を切らして今にも倒れそうなサラさんを、慌てて両腕で支えた。
「サラさん!? どうしたの!? そんな裸足で必死に……!」
私は今の状況が全く理解できず、パニックになって声を上げた。
「ハァ……ハァ……これ、みテ!!」
サラさんは、カバンに突っ込んでいたであろう、ぐちゃぐちゃに丸まった何かの原稿らしき紙を、私に向かって突き出した。
「えっ」
私が戸惑いながらその紙を広げようとすると、物珍しそうに周りの社員たちも覗き込もうと距離を詰めてきた。
すると、サラさんがバッと振り返り、鬼のような形相で叫んだ。
「ちょっ!! 外野は、見るナ!!!」
「ひっ!」
サラさんのものすごい迫力に圧倒され、私以外の社員たちはオロオロとしながら、オフィスの入り口付近までササッと後退していった。
私は周りの視線が遠のいたのを確認してから、震える手でその紙を広げた。
「……っ!!」
そこにあったのは、以前、記者の田辺さんに聞かされた『あの記事』の原稿だった。
見出しには『南川優子とエリート弁護士が結婚秒読みか』という文字。そして、南川さんがキノの腕を掴んでいる、あの決定的な隠し撮り写真が載っている。
「なんでっ……!? なんでこれを、サラさんが……!?」
私は訳がわからず、混乱した頭でサラさんに問いかけた。
「アーっ! 周りにいっぱい人がいるから詳しく言えないけど、今日の朝、うちの事務所にこの写真の女の人が直接乗り込んできたんだヨ!! それで、この記事は完全に『ガセ記事』だっテ!!!」
「…………えっ?」
サラさんが放った言葉に、私の頭は真っ白になった。
え……ガセ……記事……???
じゃあ、キノと南川さんが結婚するっていうのは……全部、嘘だったの……?
バッ!
サラさんは勢いよく私の両腕を掴み、前のめりになって私の顔を覗き込んだ。
「それで! この記事の端っこにある『幼馴染Hさんのインタビュー』の内容を見て、私、いても立ってもいられなくテ……っ! 前にシュースケと仕事で車に乗った時に、ヒカリちゃんの会社がこの辺だって聞いてたから、必死で探して走ってきたノ!!」
そして、サラさんは私の腕をギュッと力強く握りしめ、悲痛な声で訴えかけた。
「ねぇ!! ヒカリちゃんは、このフェイクインタビューのせいで誤解しちゃっテ……シュースケのこと、突き放したんだよネ!?!?」
「……っ!」
その瞬間、私の脳裏にあの日の記憶がフラッシュバックした。
タクシーで迎えにきてくれたキノの手を振り払い、「私じゃキノを幸せにできない」と残酷な嘘をついて、泣きながら逃げ帰った日のこと。
必死に私を引き留めようとしていた、あんなに傷ついたキノの顔。
思い出すだけでも胸が張り裂けそうになり、視界が歪む。
「こんなデタラメに、騙されないデ!!!! シュースケはずっと昔から、ヒカリちゃん以外、誰も見てないかラ!!!」
「っ……!」
サラさんの力強く、真っ直ぐな言葉に、私は息を詰まらせた。
……キノはずっと昔から、私以外見てない??……
「シュースケは、アメリカにいる時もずっと、ヒカリちゃんしか見てなかったヨ!! シュースケのアメリカの部屋に、ヒカリちゃんとシュースケの二人の写真が大事に飾ってあったのを見てから、私ずっとそう思ってタ!」
サラさんは一度大きく深呼吸をして、さらに言葉を紡いだ。
「それで、日本に来てから、ヒカリちゃんを見つめるシュースケの顔を見て、もっとハッキリ分かったノ!! シュースケは、本当にヒカリちゃんのことだけを好きだっテ!!! ……そばにいた、家族だから分かるヨ!」
「っ!……キノ……っ」
サラさんの言葉が、干からびていた私の心に染み渡り、肩がガタガタと震え出した。
一気に視界が涙で歪み、立っているのもやっとの状態になる。
(私……なんて馬鹿なことをしちゃったの……)
本当は、わかっていたはずじゃないか。キノがどれだけ誠実に、私のことを一番に大切にしてくれていたか。
それなのに、私自身の「自信のなさ」と、完璧なキノと比べられる「恐怖」に負けて、勝手に被害妄想を膨らませて逃げ出しただけだ。
「彼の幸せのため」なんて、ただの言い訳だった。
「私……キノに……なんて酷いことを……っ。謝らなきゃ……今すぐ……」
自分の愚かさに気づき、絶望的な後悔の涙が溢れ出そうになった、その時だった。
「ヒカリちゃん!!! まだ間に合ウ!!!!」
「……えっ!?」
サラさんが力強い声で叫び、自分のスマホを取り出して私に見せた。
そこには、キノの仕事のスケジュール画面が映し出されていた。
「シュースケ、仕事で、これからニューヨークに行っちゃうんダ!! でも、十一時羽田発の搭乗だから、今から急いで行ったら、まだ間に合ウ!!!」
「えっ!?!? ニューヨーク!?!?」
いきなり知らされたキノのスケジュールに、私は心臓が止まるかと思った。
ニューヨークって……。キノ、またアメリカに帰っちゃうの!?
パニックで頭が真っ白になる。
どうしよう!!! もしこのままキノがアメリカに行ってしまったら、あんな最悪な別れ方をしたまま、もう二度と謝ることも、本当の気持ちを伝えることもできなくなっちゃう!!
すると。
ポンッ、と。
背後から、優しく肩を叩かれた。
「えっ……」
振り返ると、そこには、いつの間にか私の仕事用のカバンを持った先輩が、力強い笑顔で立っていた。
「一途名さん! 早く、空港行っておいで!! この後の仕事は、全部私がやっておくから!!」
「せっ、先輩……っ!」
私は涙ぐみながら、先輩からカバンを受け取った。
「絶対に……このまま後悔しちゃダメ!! あんたの全部の気持ち、ぶつけてきなさい!!!」
先輩は私に向かって親指を立て、とびきり強くて温かい言葉を放ってくれた。
(そうだ……!)
私はいつも、自分の気持ちに蓋をして、逃げて、後回しにしてきた。
傷つくのが怖くて、自分から幸せを手放してばかりだった。
でも、今度はっ!!!
自分から、キノを迎えに行くんだ……!!!
「はいっ!!! ありがとうございます!!!」
私は涙を拭い、力強く頷いた。
そして、サラさんと先輩に深く頭を下げると、会社のビルの廊下を猛スピードで駆け出した。
ビルの外へ飛び出し、大通りで必死に手を挙げてタクシーを捕まえる。
「羽田、羽田空港まで!!! とにかく急ぎでお願いします!!!」
後部座席に飛び乗ると同時に、運転手さんに叫んだ。
タクシーは急発進し、キノがいる羽田空港に向かって東京の街を走り出した。
(間に合って……! お願い!!!! お願いだから!!!)
私は、祈るように両手を強く組み合わせた。
もう、迷わない。もう、自分の心に嘘はつかない。
『私を幸せにできるのは、キノじゃない』なんて、最低な嘘をついた。
だけど、本当は違う。
(キノを幸せにできるのは……私しかいないんだから!!!!)
ずっと私だけを一途に思ってくれたキノに。
今度は私が、胸を張って自分の気持ちをを伝えるために――私は人生で初めて、自分の意志で、運命に向かって走り出していた。




