14章 あなたの幸せのために ③
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四月下旬。
東京の街はゴールデンウィークの連休を目前に控え、どこか浮き足立ったような活気に溢れていた。
俺はクライアント企業に出向き、数ヶ月がかりだった大型案件の最終打ち合わせを終えたところだった。
「ありがとうございました。今後ともよろしくお願いいたします」
担当者と硬い握手を交わし、オフィスビルを出る。そして足早にタクシーを拾うと、直帰で……俺が19年間ずっと片思いをしている、光の会社へと向かわせた。
二週間前。
俺は自分の自己管理の甘さから高熱を出し、光との約束を当日の朝にドタキャンするという最悪の失態を犯した。
なるべく彼女に心配をかけまいと「急な仕事が入った」と嘘をついて対応したが、過去の恋愛で心に傷を負っている彼女のことだ。頭では理解していても、心の中ではひどく不安にさせてしまったに違いない。
だからこそ、今日のリスケした約束だけは、何があっても絶対に守ると心に誓っていた。
この日の時間を完璧に確保するために、体調管理を徹底し、すべての業務スケジュールを前倒しで調整して、ようやく今日という日を迎えたのだ。
タクシーの窓から流れる東京の景色を眺めていると、スーツの胸ポケットに入れていたプライベート用のスマートフォンが振動した。
画面に表示された番号を見て、すぐに電話に出る。
「もしもし」
『お世話になっております。〇〇(レストラン名)の田中と申します。木下様でお間違い無いでしょうか?』
「はい」
『ご依頼いただいておりました花束の件、ご用意が完了しております。本日、お食事が終わられてお帰りの際に、タイミングを見てお渡しいたしますね』
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
『いえ。では、本日お二人のお越しを心よりお待ち申し上げております』
通話を終え、スマホを握りしめる。
そう、今日。
光に会って、以前行けなかったレストランで食事を楽しんで。そして、最後に俺の、この19年分の気持ちをすべて伝えるつもりだ。
その時に渡すために、光の優しく柔らかい雰囲気に一番よく似合う、薄ピンクのダリアやバラを束ねた花束を事前にお店に頼んでおいたのだ。
『日本で花束のサプライズなんて、やり過ぎだろうか』と少し迷ったが、園芸部にいた光なら喜んでくれるだろう。
そして……
(もし……彼女が俺の気持ちに応えてくれて、二人の先の未来があるとしたら)
絶対に……光のことを俺が幸せにする。
これからは、彼女の笑顔を、何があっても俺が守り抜く。絶対に。
静かに、けれど強く心に決心をしているうちに、タクシーは光の会社のオフィスビル前に到着した。
「お客さん、着きましたよ」
「ありがとうございます。先ほどお伝えした通り、ここで働いている人を乗せてから目的地へ向かいますので、少しだけこのままメーターを回してお待ちいただけますか?」
「はい、もちろんです。ゆっくりで大丈夫ですよ」
年配の運転手は、人の良さそうな笑顔で応じてくれた。
俺はタクシーから降り、ビルのエントランス付近に立って、光に電話をかけた。
『……もしもし』
数回のコールの後、光が出た。
ずっと、聞きたかった声だ。
「あっ、光。ビルの前までちょうど迎えにきたよ。今、どこにいる?」
『……あ、うん。すぐ行くね……』
「え? うん……」
プツン、と。
電話は一方的に切られてしまった。
俺は、耳から離したスマホの画面を、眉間を寄せて見つめた。
(なんだ……?)
一瞬でわかった。光の声のトーンが、異常なほど低く、元気がなかったのだ。
電話越しでもわかるほどの、重苦しい響き。
嫌な予感が背筋を這い上がり、俺は顔を上げてビルの入り口へと鋭い視線を向けた。
しばらくすると、自動ドアが開き、スプリングコートを羽織った光が歩いてきた。
「光……!」
俺は安堵して駆け寄ろうとしたが――その足は、タクシーの前に縫い付けられたようにピタリと止まってしまった。
こちらに向かってくる彼女の顔が、ひどく青ざめていたのだ。
いつも俺を見る時にキラキラと輝くあの大きな瞳の光は完全に失われ、まるで絶望の淵を歩いているような、虚ろな目をしている。
(何があったんだ……!?)
尋常ではない彼女の様子に、額を嫌な汗が伝い落ちるのを感じた。
やがて、光は俺の目の前までゆっくりと歩いてきて、立ち止まった。
ガチャッ。
運転手が彼女が来たのを確認し、気遣って後部座席の自動ドアを開けてくれた。
しかし、光はタクシーに乗ろうとはせず、足元に視線を落としたまま、その場から一歩も動こうとしない。
「キノ……」
消え入りそうな、掠れた小さな声。
俺の知っている、明るい無邪気な光じゃない。まるで、世界の終わりを宣告しにきたような、ひどく重くて冷たい空気を纏っている。
胸の奥で、警鐘がガンガンと鳴り響いた。
「光……? 顔色がすごく悪いけど、大丈夫? 何かあった?」
「…………」
光は黙ったままだ。
ただ、力なく俯いている。
(どうしたんだ……。なんで、そんな暗い顔をしているんだ)
「……何があったの? 話、ちゃんと聞くから……とりあえず、車に乗ろう?」
俺は、今にも幻のように消えてしまいそうな彼女をこの場に繋ぎ止めたくて、そっと手を伸ばし、彼女の肩を抱いてタクシーの中へエスコートしようとした。
――しかし。
バッ、と。
彼女は、俺の伸ばした手をはっきりと避けるように、怯えたように一歩後ろへ下がったのだ。
「……っ」
俺は、空を切った自分の手を見つめ、大切な人に明らかな『拒絶』を示されたショックで全身が固まった。
光は、着ているコートの裾を両手でギュッと強く握りしめると、俯いたまま、小刻みに震える唇を開いた。
「キノ……私たち……もう、ただの幼馴染に……戻ろう……?」
「…………は?」
光の口から紡がれたその言葉に、俺の頭は完全に真っ白になった。
幼馴染に戻る?
やっと、やっとここまでたどり着いたのに。あと少しで、俺の19年間の想いが届きかけて、新しい関係に進めるはずだったのに。
この関係を、すべて無かったことにして終わらせるという意味か?
俺は思考が停止しそうになるのを必死に堪え、なんとか彼女を引き留めようと、思い当たる節を必死に口にした。
「どういうことだよ……。俺が仕事ばっかりで、光に寂しい思いをさせたから?」
光は下を向き、力なく首を横に振る。
「じゃあ……いきなり約束をキャンセルしたこと? 前みたいに約束を破るようなことは、もう絶対にしない。本当にごめん。……これからは、絶対に寂しい思いなんてさせないから……!」
そう、俺は誓ったはずだ。
彼女のトラウマを刺激するようなことは二度としないと。光を、絶対に一人で泣かせたりしないと。
すると。
「違うの!! キノは悪くない!!!」
光が突然、悲鳴のような大きな声を上げ、バッと顔を上げて俺を見た。
その顔は真っ赤に染まり、大きく見開かれた目には、溢れんばかりの涙が溜まっていた。
「じゃあ、なんでっ?!」
俺がたまらず問いかけると。
彼女は、ボロボロと大粒の涙をこぼしながら、絞り出すように言った。
「私、気づいたの……。キノを幸せにできるのは……私じゃないって……」
「…………ッ!!」
その言葉を聞いた瞬間、俺は大きく目を見開いた。
俺を幸せにできるのは、光じゃない?
どうして、そんな結論になる。
俺の記憶の底から、過去の映像がフラッシュバックする。
中学時代、震えた声で俺に言ってきた光の言葉。
『……クラスの子に言われたんだ。私とシュウくん、幼馴染なの全然釣り合ってないって……』
その後、光は学校では俺と距離を取るようになった。
そして、最近再会してからも、時折彼女が見せていた、不安げで卑屈な表情。
(なんで……なんで昔からそうやって、自分に自信がないんだ。なんで、勝手に引け目を感じて、俺の前からいなくなろうとするんだ!)
「何言ってるんだ!! 俺は……俺は、ずっと昔から……っ!」
こんなに必死になって、声を荒げて感情を露わにするのは、人生で初めてだった。
俺は彼女を引き留めたい一心で、震える彼女の腕をガシッと強く掴んだ。
このまま、19年間ずっと心に閉じ込めてきた『光じゃなきゃダメなんだ』というすべてを、今ここで彼女にぶつけようとした。
――その時だった。
「やめてっ!!」
光は、俺に掴まれた腕を、全身の力を振り絞るようにして勢いよく振り払ったのだ。
「……っ」
パシッという乾いた音が響き、俺は完全に絶望し、息を止めたまま固まった。
光は、涙でぐしゃぐしゃになった顔を歪め、赤く腫れた目で俺を真っ直ぐに見つめ返した。
そして、彼女は決定的な、一番残酷な言葉を俺に突きつけた。
「……ごめんね。……私を幸せにできるのは、きっと……キノじゃダメなの……」
「…………!!」
その言葉は、見えない鋭利な刃となって、俺の心臓を痛烈に、そして深く貫いた。
……光を幸せにできるのは、俺じゃない
それは、俺の存在そのものを、彼女の人生から完全に拒絶する宣告だった。
その瞬間、俺の脳裏に、山田みよりが事務所で最後に言い放った呪いのような言葉が蘇った。
『光言ってたよ、、完璧な幼馴染とは、絶対に釣り合わないって』
あんな女の言葉、完全に信じたわけじゃなかった。
だが、今ならわかる。
俺がどれだけ必死に彼女を繋ぎ止めようとしても。
19年間、彼女のことだけを想い続けても。
俺が「光のことを幸せにしたい」と心から願い続けても。
俺の存在自体が、コンプレックスを抱える彼女にとって『重荷』であり、彼女を苦しめているのだとしたら……?
俺の手から、完全に力が抜け落ちた。
もう、彼女を引き留める理由も、資格も、俺には残されていなかった。
すると、光は涙でいっぱいの目を細め、無理やり作ったような、ひどく歪で悲しい笑顔を俺に向けた。
「……じゃあね、キノ……。元気でね……」
消えそうな声を振り絞り、彼女は俺に背を向けた。
そして、そのまま走り出し、すっかり日が暮れてネオンが灯り始めた東京の街の、足早に行き交う人混みの中へと消えていった。
「…………光」
本当は、今すぐでも追いかけて、抱きしめて引き止めたい、、
でも、この完全に気力を失った、体が追いつかない。
俺は、遠ざかっていく彼女の背中を追いかけることもできず、ただ、ただ、その場に立ち尽くすしかなかった。




