14章 あなたの幸せのために ②
————————————
「お疲れ様ですー!」
「お先ですー」
終業の時間になり、オフィスはにわかに活気づいた。颯爽と帰路につく人、まだデスクに残って作業を続ける人、さまざまだ。
今日も特に残業になりそうな急ぎの仕事はなかったので、私もデスクから立ち上がり、そっとカバンに荷物をまとめた。
羽織っていたカーディガンのポケットからスマホを取り出し、歩きながらLINEのトーク画面を開く。
『四月〇日十九時〜 場所:東京都〇〇区〜
↑この日程と場所で予約取ったから、当日は迎えにいくね。この前は本当にごめんな。次は問題ないように予定調整してるから。楽しみにしてる』
お昼休みに届いていた、キノからのメッセージ。それをもう一度見返して、頬が自然と緩む。
リスケジュールになって、ようやく彼に会える日が、とうとう三日後に迫っていた。
(……うん、大丈夫)
過去のトラウマのせいで、少しだけ病んでネガティブになってしまっていたけれど。
やっぱり、キノはちゃんと丁寧だ。私が少しでも不安にならないように、お店の場所も時間もきっちりと送ってくれて、安心させてくれる。
私はスマホを両手でギュッと握りしめ、弾むような足取りでオフィスを出た。
(キノとのディナー、楽しみだなっ)
そんな風に少しるんるんとした気分で、ビルのエントランスの自動ドアを抜けようとした。
――その時だった。
「あの、一途名光さんですか?」
出口のすぐ脇の柱の陰から、不意に声をかけられた。
振り返ると、猫背気味で少しヨレたスーツを着た、パーマヘアの男性が立っていた。
「えっ……? そうですが……」
見ず知らずの男性からの突然の呼びかけに、私はビクッと肩をすくませて一歩後ろに下がった。
「あ、良かった。私、こういう者です」
男性は慣れた手つきで内ポケットから名刺入れを取り出し、スッと私の目の前に一枚の紙切れを差し出した。
「株式会社〇〇出版社、週刊〇〇編集部……記者、田辺……さん?」
受け取った名刺の文字を読み上げ、私は眉をひそめた。
なんで、私のところに週刊誌の記者さんが?
疑問符を浮かべた顔で田辺さんの顔を見上げると、彼は名刺ケースを胸ポケットにしまいながら、探るような目で私を見つめ返してきた。
「突然すみません。少しお伺いしたいことがありまして。今、お時間よろしいでしょうか?」
「……なんでしょうか?」
私は無意識にカバンを抱え込み、警戒心を露わにして聞き返した。
「……貴女の幼馴染である、〇〇法律事務所勤務の『木下秀介』さんについて、少しお話をお伺いしたくて」
「……えっ?」
記者の口から唐突に飛び出した『キノの名前』に、私の頭は一瞬で真っ白になった。
なんで、週刊誌の記者さんがキノのことを?
しかも、なんでわざわざ、幼馴染でしかない私のところに……?
「立ち話もなんですから。とりあえず、近くの喫茶店に入りましょう」
田辺さんは私の動揺などお構いなしに、ビルの外にあるコーヒーショップの方へと顎でしゃくった。
***
会社近くの、少し薄暗い喫茶店。
記者の田辺さんに促されるまま席に座り、頭が混乱した状態で適当な飲み物を頼んだ。
やがて、テーブルに二人分のアイスコーヒーが置かれる。
「じゃあ、本題に行きましょうか」
田辺さんは一口も手をつけることなく、ビジネスバッグから黒い革の手帳を取り出した。
「……っ」
私は思わず、ゴクリと息を呑んだ。
なんだろう、この胸の奥がざわざわとする感覚。嫌な予感しかしない。
私は膝の上に置いた自分の両手を、ギュッと固く握りしめた。
「これを見てください」
田辺さんは手帳を開き、数枚のカラー写真をテーブルの上に並べた。
私はその写真に目を落とし――次の瞬間、心臓が大きく跳ね上がった。
「ここに写る男女二人。女性の方は、大女優の南川優子。そして、男性の方は……貴女の幼馴染の国際弁護士、木下秀介さんで、お間違いないでしょうか?」
「…………っ」
私は、声の出し方を忘れたように口をパクパクとさせた。
目の前に並べられた複数の写真。そこには、高級マンションのエントランスに、並んで入ろうとしている男女の姿が写っていた。
洗練された美しい黒髪の女性。テレビのスクリーンで何度も見たことがある、私なんかとは住む世界が違う、華やかな大女優の南川優子さん。
そして、その隣にいる長身の男性。見間違えるわけがない。私の大切な人……キノだ。
「そのご様子では、木下さんご本人で間違いないみたいですね」
私があまりの衝撃で言葉を失っているのを『肯定』と受け取ったのか、田辺さんは勝手に解釈して頷いた。
そして、手帳の隙間からスッと、もう一枚、ひときわ鮮明な写真を私の前に差し出した。
「うっ……!」
私はそれを見た瞬間、胃の奥から何かが込み上げてきそうになり、思わず両手で口元を覆った。
「この写真、南川優子の両親が住むマンションの前で撮られたものです。お二人……ずいぶんと親密な仲みたいですね」
頭を、鈍器で思い切り殴られたような衝撃だった。
その写真には、南川優子さんが、キノの腕を両手でしっかりと掴み、甘えるように、そして心配そうに彼を見つめ上げている姿が、残酷なくらい鮮明に写っていたのだ。
キノもそれを振り払うことなく、彼女の方へと体を傾けているように見える。
「…………っ」
私は、どうしたらいいかわからず、ただただ写真を見つめたまま凍りついた。
え、何、この写真。
どうして、南川優子さんがキノの腕をあんなに親しげに掴んでいるの?
なんで、その南川優子さんの『ご両親の家』に、二人が一緒に行っているの……?
「実は、南川優子は今年中には結婚したいという強い願望がありまして、極秘で結婚相手を探していたみたいなんです。そしてこの二人、ここ一ヶ月の間に、頻繁に南川優子の自宅に出入りしているのを目撃されています。すごいですね……南川優子も。こんな絵に描いたような外資系のエリート弁護士で、しかもこれだけ顔の良い男を、たった一ヶ月で射止めるなんて……」
田辺さんは、私の混乱する頭に、容赦なく情報を叩き込み続けた。
結婚? 一ヶ月前?
頻繁に、自宅に出入り……?
(そういえば……私、キノにもう二ヶ月近く会えていない)
(そして、一週間前の約束は、『急な仕事』を理由に当日の朝キャンセルされた……)
「はぁっ、はぁっ……」
過呼吸のように息が浅くなり、視界が涙で滲んできた。
全部の辻褄が、ピタリと合ってしまう。
(キノは……私じゃなくて。その、美しくて華やかな大女優の、南川優子さんを選んだってこと……?)
約束をキャンセルしたあの日も。彼は、彼女の元へ行っていたの?
「大丈夫ですか? ただの幼馴染の貴女が、なんでそんなにショックを受けているんでしょうね?」
記者の田辺さんは、私の顔色を窺いながら、まるで感情のない真顔で尋ねてきた。
「ひっ、はぁっ……」
私は必死に息を吸い込もうとしながら、今にも溢れ落ちそうな涙をこらえて田辺さんを見つめた。
「あれ? もしかして……木下さんと貴女、実はお付き合いされていたとかですか? それで、木下さんは貴女から南川優子に『乗り換えた』と?」
田辺さんが、面白そうなネタを見つけたと言わんばかりに、私をペン先で指しながら淡々と言った。
――その言葉が、私の心の中の何かを弾けさせた。
バンッ!!!
私は咄嗟に、テーブルを両手で強く叩いて立ち上がった。
「違う!!キノがっ……そんな不誠実なこと、するわけないっ!!!」
「……ほう」
はぁはぁと息を荒げ、涙でぐしゃぐしゃになった顔で彼を睨みつける。
キノは、絶対に二股なんてかけるような人じゃない。私を騙して、裏で別の女の人と付き合うような、そんな酷い人じゃない。それだけは、絶対に違う。
「なるほど。でしたら、貴女たちは恋人関係とかではないのですね」
「っ……」
田辺さんは冷静に手帳にメモを取りながら、私の言葉の裏を突いた。
私はハッとして、ゆっくりと椅子に座り直した。
そうだ。キノと私は、恋人ではない。
『恋人のフリ』をしていただけで、世間から見れば、ただの幼馴染。
彼が誰と付き合おうと、誰と結婚しようと……私に口出しする権利なんて、最初から一ミリもないのだ。
「もう二人は見ての通り、両親への挨拶も済ませた結婚秒読み状態です。これを知れば、世間はこの美男美女のカップルに大いに納得するでしょう。南川優子にふさわしい、非の打ち所がない男性。そして、その男性の隣に立つ大女優。誰もが羨ましがり、そして心から祝福するはずです」
田辺さんの口から淡々と並べられるその言葉たちが、私の心を鋭い刃物のようにズタズタに抉っていった。
美男美女。
キノの隣にふさわしい女性。
世間も納得する、祝福される関係……。
(……キノの横に立つのは、女優の南川優子さん)
(その辺にいる冴えない派遣社員で、一般人で、特に可愛くもない……私なんかじゃ、絶対に釣り合わない)
そんなの……ずっと前から、知っていたじゃないか。
中学生の頃から。誰よりも眩しかったキノの隣を歩くたびに、私じゃないって、ずっと感じてきたじゃないか。
「ああ、それで。幼馴染である貴女にお聞きしたかったのは、学生時代の木下さんはどういう人だったのかというエピソードと……最後に、結婚するお二人へ向けた『祝福の言葉』をいただければと」
放心状態になっている私にお構いなしに、田辺さんは事務的に問いかけてくる。
「…………」
頭がぐらぐらする。何も考えられない。目の前が真っ暗で、世界が終わってしまったみたいだ。
「一途名さん?」
眉間にシワを寄せ、急かすように聞いてくる田辺さん。
私は、空っぽになった頭で、震える唇を無理やり動かした。
「キノは……学生時代から……すごく優しくて。よく、女の子に告白されていて……。でも、それを自分からひけらかすようなことは絶対に言わなくて……頭も良くて……みんなの、憧れの的でした……」
(私、なに言ってるんだろう。なんで、勝手に別れの言葉みたいに話しちゃってるんだろう)
心が引き裂かれそうなのに、口だけが勝手に動く。
「ふむふむ。素晴らしいお方ですね。では、最後に祝福の言葉を」
「…………キノには……幸せに、なって……ほしいです」
そう。
私はずっと、ずっと、キノの幸せだけを願っていた。
誰よりも優しくて、誰よりも傷ついてきたキノに、本当に本当に、幸せになってほしい。
『早く誰かと結婚して、子供作ってね……』
いつか聞いた、ミサおばさんの優しい声がフラッシュバックする。
そうだよ。キノには結婚して、最後まで味わえなかった幸せな家庭を築いてほしい。
そして……その隣に立つのは、コンプレックスだらけで彼に寄りかかることしかできない『私』であってはいけないんだ。
彼にはもう、誰もが納得する、美しくて華やかな女性が隣にいるのだから。
「うっ……ひっ……」
とうとう我慢できず、ボロボロと大粒の涙が溢れ出した。
「わかりました。じゃあ、これで取材は以上となります。ここのドリンク代は私が払っておきますので、あとはごゆっくり。では」
田辺さんは目的を果たしたとばかりに、テーブルの写真を素早く回収して手帳に挟み込み、立ち上がった。
そして、涙を流す私に一瞥もくれることなく、足早に喫茶店を出て行った。
私は、ただ一人取り残された席で、前を向いたまま固まっていた。
目の前にある、氷が溶けて水滴のついたグラスが、ひどく冷たく歪んで見える。
(キノの、幸せのために……)
(私はもう……彼の横にいては、いけないんだ……)
私の一生に一度の、魔法のような時間は、こうしてあっけなく終わりを告げたのだ。




