14章 あなたの幸せのために ①
都内にある中規模のオフィスビルの一角。
私は、上司に頼まれた大量の会議資料が、大型プリンターから次々と吐き出されていくのをぼんやりと眺めていた。
「はぁ……」
無意識のうちに、小さいため息がこぼれる。
一週間前。私は、キノと仕事帰りに会う約束をしていた。
青田とのあの一件があって、初恋にきっちりと区切りをつけた後、電話で約束した日。
ずっと、ずっと楽しみにしながらその日を待っていたのだが――。
まさか、当日の朝になって。
キノから『急な仕事が入ったから、今日会うのが難しくなった』という、キャンセルのLINEが入っていたのだ。
仕事に行く直前、玄関で靴を履きながらそのメッセージを見た瞬間、私は雷に打たれたように呆然と立ち尽くした。
(キノと、今日会えない……)
その事実が重くのしかかり、急に視界が歪んで、少し息がしづらくなった。
でも、パニックになりそうな頭でそのメッセージの続きをよく読むと、とても丁寧な言葉選びで、彼がいかに申し訳なく思っているかが痛いほど伝わってきた。
それに、「代わりに四月の四週目には必ず空ける」と、リスケジュールの日程もきちんと提示されていたのだ。
その誠実な文章を見て、私はハッと我に返り、ふうっと息を整えた。
(大丈夫……。キノは、私を都合よく振り回すような人じゃない)
そんなこと、ずっと幼馴染やってきた私が、一番よく知っている。この文章を見れば、彼がどれだけ無理をして時間を作ろうとしてくれているかもわかるじゃないか。
私は胸に手を当てて高鳴る心臓を落ち着かせると、すぐに彼に返信を打った。
『大丈夫だよ! 急な仕事なら仕方ないよね! 頑張ってね! 四月の四週目、会えるの楽しみにしてるね』
変に重くならないように、スタンプも添えて。
余計な心配をして、これ以上ネガティブにならないように。私は無理やり頭を切り替え、足早に玄関を出て仕事に向かったのだった。
ザッ、ザッ、ザッ……。
(プリンターから紙が排出される、規則的な音)
あれから一週間。LINEのやり取りはちゃんと続いている。
相変わらずキノは仕事が忙しいから、一日に一、二回程度だけれど、おはようとおやすみの言葉は欠かさず交わしている。
私は、プリンターから出てきたばかりの、まだ温かい紙の束にそっと触れた。
その温もりに触れた瞬間、またしても胸の奥に何かがつかえるような、息苦しさを覚える。
(あれから、ずっとだ……)
(私、一体何をそんなに心配しているの?)
仕事ができて、色々な人から頼りにされている国際弁護士のキノなら、どうしても外せない急なトラブルが起きることだってあるはずだ。
しかも、彼はちゃんと、次に会う日を確定させてくれている。
でも。でも、でも。
もし、次も「ごめん、また仕事が入った」って会えなかったら?
そこから少しずつ連絡が減っていって。
そして、もう二度と会えなくなったら?
完全に、音信不通になってしまったら……?
(ダメ、そんなマイナス思考になっちゃダメ……!)
なんで? なんで私、こんなに彼を疑うようなことばかり考えちゃうの?
その答えは、自分でもわかっていた。
私の脳裏に、黒く塗りつぶされた過去の記憶がフラッシュバックする。
尽くしても尽くしても、青田に冷たい目で見下され、最後はあっさりと捨てられたこと。
青田を忘れようとして出会った、アプリの男たちのこと。「今日会おうね」と約束していたのに、直前になって「ごめん、無理になった」とドタキャンされ、そこからパタリと音信不通になったこと。
当時の彼氏の家で、手料理を作って帰りを待っていたら、「俺、そういう重いのいらないから。勝手にキッチン触らないで」と、冷酷な目で吐き捨てられたこと……。
(違う! キノは絶対に、あの人たちと一緒じゃない……!!!)
必死に心の中で、自分自身に訴えかける。
頭ではわかっているのだ。キノがどれだけ私を大切にしてくれているか。
でも、私の体と心に刻み込まれた『恐怖』が、勝手に警報を鳴らして、息の仕方を忘れさせてしまう。
ピピピッ!!!
「ハッ!」
鋭い電子音に、私は弾かれたように我に返った。
見ると、コピー機のトレイの紙が切れたことを知らせるエラーランプが点滅していた。
私は小さく息を吐き出し、切れた紙のサイズを確認して、慌てて新しいコピー用紙の補充を行った。
(よかった……やることがあって。ぼーっとしてたら、過去の嫌なことばかり引っ張り出してきちゃう)
気を取り直してコピーを再開し、ようやく全ての書類の印刷を終えた。
自分のデスクに戻り、部数ごとに分けてホッチキスで留める作業を始める。
すると、隣の席の先輩が、パソコンから顔を上げて、心配そうにこちらを覗き込んできた。
「一途名さん、大丈夫? なんか、顔色悪いよ?」
「えっ」
そんなに顔に出ていただろうか。
私は戸惑いながらも、慌てて口角を上げ、無理やり笑顔を作った。
「だ、大丈夫です! ちょっと偏頭痛がするだけで! 薬飲んだらすぐに治りますから!」
そして、自分を奮い立たせるように、先輩に向かって小さく両手でガッツポーズをして見せた。
「……そう? だったらいいんだけど」
先輩は少し訝しげな顔をしたが、やがて優しく微笑んでくれた。
「あんまり、なんでも一人で思い詰めないようにした方がいいよー。」
そう言って、先輩はまた自分のパソコン画面へと戻っていった。
(思い詰めないように……)
先輩のその何気ない一言で、私の胸の内で渦巻いていた暗い不安が、少しだけスッと軽くなった気がした。
そうだ。私は昔から、なんでも一人で考えすぎて、勝手にネガティブな方向へ落ち込んでしまう悪い癖がある。
特に、自分が「好き」になった人に関しては、嫌われたくないという思いが強すぎて、ほんの少し、なにかが狂っただけで無性に心配になってしまうのだ。
キノがどれだけ誠実な人かなんて、私が一番よく知っているはずじゃないか。
今、私が勝手に抱いているこの不安は、キノのせいなんかじゃない。全部、私自身の『過去の恋愛のトラウマ』が引き起こしているだけの、ただの幻だ。
一ヶ月半ほど会えていない、キノの顔を思い浮かべる。
あの、切れ長の美しい目を細めて、私を包み込むように優しく笑う彼。
あんな風に私のことを見てくれる男性は、これまでの私の人生に誰一人としていなかった。
私は、ふぅーっと長く息を吐き出し、胸に溜まっていた不安の残骸を外へと追い出した。
(そうだ。キノは、今までの男の人たちとは違う)
(それに、私だってもう三十四歳なんだし……こんな、二十代前半の恋愛に依存する女の子みたいな心配ばっかりしてちゃダメだ。もっと、ドシッと構えた大人の女にならないと!)
よしっ。
私は気合を入れると、隣のデスクの先輩に向かって、勢いよく振り返った。
「先輩! ありがとうございます! 私、頑張ります!」
「えっ!? なに、なになに!?」
私が唐突に宣言して再びガッツポーズを決めたので、先輩はビクッと肩を揺らして素っ頓狂な声を上げた。
私は、その先輩の反応に思わずふふっと笑ってしまった。
この時の私は、過去のトラウマという黒い波からなんとか自力で這い上がり、再び前を向いて頑張れると、本気で信じ切っていたのだ。
――しかし。
私が必死に立て直したそのささやかな前向きな心は。
リスケしてようやくキノと会えるはずだった約束の、その『三日前』に……修復不可能なレベルで、残酷に打ち壊されることになるのだった。




