13章 仕組まれた罠 ①
東京の街にも、ようやく柔らかな春の空気が漂い始めた四月の上旬。
カタカタカタカタ……。
朝7時。
まだ他の誰も出社していない静まり返ったオフィスで、キーボードを叩く音だけが規則的に響き渡っている。
海外クライアントとのやり取りが多いため、早朝や深夜の対応は日常茶飯事だ。
未読メールの処理を終え、確認すべき契約書の束に目を落とした瞬間、俺は思わず小さくため息を漏らした。
(……いくらなんでも、多すぎるな)
休みなしのフルスロットで働き続けて一ヶ月が経つ。体力には自信がある方だが、流石に疲労の蓄積を誤魔化しきれなくなってきた。
支店長から俺に回される案件の量は、客観的に見ても異常だ。まあ、三十代半ばの中堅ともなれば、どこの業界でも使い倒されるのが常なのだろうが。
半分諦めの境地でコーヒーに手を伸ばしながら、俺はふと、デスクの傍らに置いていたスマホを手に取り、写真フォルダを開いた。
画面いっぱいに表示されたのは、先月行ったテーマパークでの写真。
ウサギの被り物を被った光と、サラが並んで写っているツーショットだ。
『シュースケ、ヒカリチャンの可愛い写真撮れたから特別にあげる! 感謝してよネ!』
サラからそんなメッセージと共に送られてきたこの画像を、俺は一秒も迷うことなく保存し、それ以来、一日に何度も見返している。
サラは、俺が光のことをどれほど特別に想っているか、アメリカにいた頃からずっと知っていた。
コロンビア大学のロースクール時代、俺が寝る間も惜しんで勉強していた部屋の机の隅には、いつも『光と俺が二人で写る、中学の入学式の写真』が飾られていた。サラはそれを見て、俺の19年に及ぶ長い片思いに気づいていたのだ。
あの過酷だったアメリカでの日々、俺はあの古い写真の光の笑顔に、何度も、何度も救われてきた。
そして今、俺のスマホには、新しく更新された光の笑顔がある。
春先のまだ冷たい風に少し頬を赤くして、本当に楽しそうに笑っている彼女の顔。
(……可愛いな)
画面越しにその顔を見つめていると、山積みの書類をすべて投げ捨てて、今すぐ彼女の職場に迎えに行きたいという衝動に駆られる。
他の誰にも触れさせたくない。俺の腕の中に閉じ込めて、ずっと甘やかしていたい。
だが、ここで理性を手放すわけにはいかない。
俺がこれほどまでに狂ったように仕事を片付けているのは、他でもない光のためなのだ。
この山積みの仕事も、あと1ヶ月から1ヶ月半もすれば完全に落ち着く目処が立つ。
光と次に会う約束をしている、4月の2週目。その時に、俺はずっと胸に秘めてきた想いを、彼女に伝えるつもりだ。
彼女と恋人同士になれたとして、仕事が激務だからといって放置して、寂しい思いなど絶対にさせたくない。俺が彼女に与えたいのは、不安や孤独ではなく、揺るぎない安心と幸せだけだ。
だからこそ、今のうちにすべての厄介な仕事を終わらせておく必要がある。
(光。あと少しだけだから……どうか、誰のものにもならないで待っていてくれ)
画面の中の彼女にそっと心の中で語りかけ、俺はスマホを裏返してデスクに置き、再び仕事に向き合った。
よし。ずっと想い続けてきた彼女のためなら、これくらいの激務、どうってことはない。
***
それからしばらくして、オフィスに革靴の足音が響いた。
パソコンから目線を上げると、ふくよかな体型の支店長が出社してくるところだった。ちなみに、あの山田みよりの案件を俺に押し付けてきたのも、この男だ。
「おはようございます」
俺が立ち上がってシンプルに挨拶をすると、支店長はおおらかに笑いながら近づいてきた。
「おはよう、木下くん。相変わらず、いつも朝早くからお疲れ様」
その笑顔を見た瞬間、俺の脳内で静かに警鐘が鳴った。
このいかにも人当たりが良さそうな作り笑いには、見覚えがある。嫌な予感しかしない。
「いえ」
俺はなるべく深入りしないよう、短く返事をした。
すると案の定、支店長は俺の肩をポンと叩き、さらに笑みを深めた。
「実はね、木下くんにどうしても頼みたい仕事があって。極めて機密性が高い案件だから、後で私の支店長室に来てくれないか?」
「……はい。わかりました」
ほら、そう言われると思った。
こういう、厄介でややこしい特命案件は、決まって俺に回される。
場合によっては、緻密に組み上げたスケジュールの再調整が必要になるかもしれない。
(光と会う時間だけは、何があっても絶対に死守するからな……)
そう心に誓いながら、俺は支店長室へと向かう彼の背中を横目で見送り、再びキーボードを叩き始めた。
***
他の所員たちが出社し始め、オフィスが活気づいてきた頃。
俺は支店長室に呼び出され、重厚な木製のドアをノックした。
「入ってくれ」
「失礼します」
ドアを開けると、支店長がすでに窓際に立ち、分厚いクリアファイルに入った書類を手に持っていた。
「これなんだが……」
彼はもったいぶるように、その書類を俺に差し出した。
「ありがとうございます」
俺は受け取り、素早く書類に目を通す。
「今回の依頼人は、あの大物女優の南川優子だ。彼女は実は、ある中堅企業の社長令嬢なんだが……その親の会社が、近く倒産することになってね。アメリカの企業とも取引があった関係で、うちに処理の依頼が来ている状況だ」
なるほど。依頼人の知名度はともかく、案件の内容自体は珍しいものではない。
クロスボーダーM&Aや企業再編、事業再生を専門とする俺に回ってくるのは、極めて妥当な判断だ。
「だが、少し厄介な要望があってね。女優としてのイメージダウンを恐れているのか真意は定かではないが、実家の倒産というスキャンダルをマスコミ、世間に嗅ぎつけられないよう、極秘裏に、かつなるべく早く事後処理を終わらせてほしいと言ってきているんだ」
支店長は、俺の目を真っ直ぐに見て言った。
「口が堅く、何よりスピーディーに確実な対応ができるのは、うちの事務所では君しかいないと思ってね。頼めるかな?」
「……ありがとうございます。今すぐ、対応いたします」
弁護士として、そこまで信頼して任せてもらえるのは光栄なことだ。
あとは、この圧倒的な繁忙期の中で、いかに効率よく案件を処理し、光とのデートの時間を確保するか。腕の鳴るパズルだ。
「よし、ひと頑張りするか」
支店長室を後にした俺の頭の中は、すでに南川優子の案件を最速で終わらせるためのシミュレーションで埋め尽くされていた。
――しかし。
この時、光との未来を確かなものにするために引き受けたこの極秘依頼が。
俺と光の関係を無惨に引き裂く凶器へと変貌することになるなど……。
この時の俺は、まだ知る由もなかったのだ
————————————
俺は支店長から依頼された、大物女優・南川優子の倒産処理案件に早速着手した。
まずは、直接本人に現状の確認と、今後の法的な方針を決定するための面会を行わなければならない。
しかし、先方に連絡を取ると「マスコミに嗅ぎつけられるリスクがあるため、法律事務所には行けない。直接、私のマンションに出向いてほしい」との要望があった。
彼女は個人事務所で活動しているため、顧問弁護士が直接自宅へ出向くこと自体は、この業界ではさして珍しい話ではない。
ただ……光のことを想うと、いくら仕事とはいえ、密室である女性の自宅へ出向くことには強い引け目を感じてしまう。
(光なら「お仕事なんだから気をつけてね」と笑って送り出してくれるだろうが、俺自身のケジメの問題だ)
俺はなるべく短時間で済ませるよう心に決め、他の仕事の段取りをある程度片付けると、オフィスを出てタクシーで彼女の住む代官山のマンションへと向かった。
指定されたマンションに着き、エントランスに近づく。
すると、入り口の柱の陰に、ヒールを履いて長い黒髪をなびかせ、大きなサングラスをかけた女性が立っていた。
俺が近づいていくと、その女性がスッと手を挙げて声をかけてきた。
「ごきげんよう。貴方が、〇〇法律事務所の木下先生ですか?」
落ち着いた、上品な発声。事前に写真で確認している通り、彼女が依頼人の南川優子だ。
「はい、そうです。南川優子さんですね。名刺を……」
俺がスーツの胸ポケットから名刺ケースを取り出そうとした、その時だった。
彼女が一歩距離を詰め、俺の胸元にスッと手を当てて動きを制止したのだ。
「ダメ、ここ外だから。誰に見られているかわからないわ。とりあえず、中に入りましょう」
彼女は周囲を警戒するように見回しながら、小声で囁いた。
「……はい」
(よっぽど、スキャンダルやマスコミを警戒しているのだろう)
俺は彼女の案内に従い、足早にマンションの中へと入った。
部屋に入ってからの面会は、極めてスムーズだった。
現状のヒアリング、膨大な資料の確認、そして今後の対応方針のすり合わせ。
社長令嬢で大物女優と聞いていたので、一癖ある人物かと思っていたが、実際は非常に常識的で、落ち着いた聡明な依頼人だった。
(……どこかの、フリーアナウンサーとは大違いだな)
密かに胸を撫で下ろしながら、初回の面会は無事に終了した。
その後、俺はこの案件を最速で終わらせるため、自分の睡眠時間を削って他の案件も並行して片付けながら、彼女のマンションに2、3回ほど通い詰めた。
もちろん、そこにあるのは純粋な仕事のやり取りだけで、それ以外の感情など一ミリも介在していない。
そうして多忙を極める日々を乗り越え、ようやく……光と約束した日の『前日』を迎えた。
明日は、ずっと楽しみにしていた光とのディナーだ。
夜景を見るのが好きな彼女のために、都内で一番夜景が綺麗に見えるレストランの特等席を予約してある。
久しぶりに会う彼女は、どんな顔をして笑ってくれるだろうか。あの美しい夜景を見たら、どんなふうに目を輝かせて喜んでくれるだろうか。
そして……最後に俺の気持ちを伝えた時、彼女はどんな答えを返してくれるだろう。
俺は出社する前、玄関先で光にLINEを送った。
『明日、光が会社終わる頃に迎えに行くね』
よし。あと、本当にもう少しだ。
俺は気合を入れ直し、タクシーを捕まえてオフィスへと向かった。
(そういえば、今日は午後から南川優子の両親の家に出向いて、直接面会をしなければならないんだったな)
頭の中で今日のスケジュールを組み立てていた、その時だった。
タクシーがオフィスの前に停まり、車内から降りようとした瞬間。
視界が、ぐらりと歪んだ。
「……っ」
同時に、頭の奥を鈍器で殴られたような激しい痛みが走る。
(この違和感…こんな時に……)
「お客さん、大丈夫ですか?」
俺が動きを止めたことに気づき、年配のタクシー運転手がバックミラー越しに心配そうに声をかけてきた。
「……ありがとうございます。大丈夫です」
俺は必死に体勢を立て直し、気丈に振る舞った。
「お客さん、いつも朝早くから乗ってくれて、夜遅くまで仕事してるみたいだから……疲れが溜まってるんだよ。たまには、ゆっくり休んでね」
きっと、この運転手のタクシーに何度も乗っているうちに、俺の異常な働き方を察して心配してくれているのだろう。
「ご心配ありがとうございます。……支払い、いつものカードで」
俺はズキズキと痛む頭を指で押さえながら、オフィスが入る高層ビルへと足を踏み入れた。
(これは、やばい……)
何年ぶりの感覚だろうか。関節の節々が痛み始めている。これは間違いなく、熱が出る前兆だ。
(明日、光と会うのに……最悪だ。絶対に、気合いで治さないと)
***
俺は出社するなり強い解熱鎮痛剤を飲み、気力だけでいつも通りに仕事をこなし、南川優子の両親の家へ向かう準備をした。
昼過ぎ、オフィスを出ようとしたところで、すれ違ったサラが目を丸くして声を上げてきた。
「ゲッ! シュースケ、あんた顔色めちゃくちゃ悪いじゃん!! 熱あるんじゃないノ!? 大丈夫!?」
さすがいとこだ。仕事柄、徹底したポーカーフェイスを身につけている俺の異変にも、瞬時に気がつく。
「大丈夫。薬を飲んだから。……ありがとう」
俺はそれだけ言い残し、彼女の横を通り過ぎた。
「あんま無理すんなヨー! 若くないんだから、後々響くヨ!」
後ろから聞こえるサラの声。
確かに、俺ももう三十代半ばだ。体力だけでどうにかなった二十代の頃と比べれば、無理がきかなくなっているのは自覚している。だからこそ、働く上で体力は資本だと考え、毎日のランニングやトレーニングは欠かさず続けてきたじゃないか。
(大丈夫だ。俺は絶対に倒れない)
そう自分に言い聞かせるように、俺はエレベーターに乗り込んだ。
***
南川優子の両親が住むという都内のマンションに到着すると、エントランスには、めずらしくサングラスをかけてない南川優子が立っていた。
「ごきげんよう、木下先生。今日もお忙しい中、ありがとうございます」
「いえ、大丈夫です」
「では、ご案内しますね」
彼女の指示に従い、エントランスの自動ドアを抜けようとした、その時だった。
ぐらっ。
再び、視界が大きく揺れた。今度は足元から力が抜け、膝がカクンと折れそうになる。
「……っ!」
「あっ! 危ない!」
体勢を崩しかけた俺の腕を、南川優子が咄嗟に両手で掴み、支えてくれた。
「……っ、申し訳ありません」
俺はハッとして意識を総動員させ、姿勢を真っ直ぐに立て直すと、失礼にならないように彼女の手から自分の腕を離した。
「ありがとうございます。……少し、風邪気味のようで」
「あら……。無理しないでくださいね?」
彼女は本当に心配そうに、俺の顔を覗き込んできた。
(依頼人に心配をかけるなんて、俺の弁護士としてのポリシーに反する……!)
俺は心の中で「体調不良なんかに絶対に負けるな」と自分自身を激しく叱咤し、南川優子に改めてお礼を言うと、気力だけで両親との面会を終え、その後の仕事もすべて抜かりなくこなして帰宅した。
すべては、明日、大切な光と会うために。
――しかし。
****
非情にも日は変わり、翌朝を迎えた。
目が覚めた瞬間に全身を襲った、高熱の感覚。
ガラスの破片を飲み込んだように痛む喉。割れるように痛む頭。そして、胸の奥から込み上げる止まらない咳。
俺はベッドから這い出し、リビングに行き、恐る恐る体温計を脇に挟んで自分の体温を確かめた。
ピピピッ、と鳴った電子音に目を落とす。
「38.4度……。最悪だ……」
体温計をテーブルに放り投げ、俺はそのままソファに深く沈み込んだ。
完全な発熱。
これだけ咳が出ているということは、何らかのウイルスを持っている可能性が高い。光に、うつしてしまうリスクがある。
仕事の方は、今日は休みを取りつつ、緊急の案件だけ自宅からリモートで対応すればなんとか回る。
だが……ずっと、ずっと待ち望んでいた、光との約束は。
(……この状態で、彼女に会うわけにはいかない)
俺は朦朧とする意識の中、震える手でスマホを操作し、光のLINE画面を開いた。
『うん! 明日楽しみにしてるね! お仕事がんばってね!』
昨日、彼女から送られてきた可愛らしいメッセージ。
それを見つめていると、胸が張り裂けそうになった。
(ごめん……光。せっかく楽しみに待ってくれていたのに……俺から、ドタキャンをする形になってしまうなんて)
とてつもない罪悪感が、高熱の体以上に俺を苦しめる。
こんなことをしてしまっては、かつて彼女を都合よく呼び出しては振り回していた啓司と同じじゃないか。
彼女に二度とあんな惨めな思いはさせないと誓ったのに、俺自身が彼女を落胆させてしまうなんて。
俺は、熱で働かない頭を必死にフル回転させた。
もしここで『体調不良で熱が出た』と本当のことを言えば、あの優しすぎる光のことだ、絶対にひどく心配するだろう。最悪の場合、看病に来ようとするかもしれない。
この程度の熱なら、病院の薬を飲んで2、3日も無理しない程度にリモート対応をしてたら治る。
だからここは、彼女に余計な心配をかけないために、あえて『急に仕事が入った』という嘘をついて断りを入れよう。
そして、光が「やっぱり自分は後回しにされたんだ」と不安にならないよう、あらかじめ次のリスケの日程を確実に用意しておく。
俺はパソコンのスケジューラーを開き、かすむ目で今後の予定を確認した。
……ここだ。なんとか徹夜で仕事を詰め込めば、4月の第4週目には、平日の夜、光の仕事終わりにはどこか予定を空けれそうだ。
俺はスマホを握り直し、光が不安にならないように、そして心配をかけないように、慎重に言葉を選んでメッセージを打ち込んだ。
『ごめん、光。
当日に本当に申し訳ない。今日、どうしても外せない急な仕事が入ってしまって、会うのが難しくなった。
代わりに、4月の4週目には、必ず光の仕事終わりどこか空けられるように調整している。
楽しみにさせておいて、本当にごめんね』
指先が震えるのを抑えながら、俺は送信ボタンを押した。
そして、寝室に戻り、画面に『既読』がつく前に、スマホを裏返してベッドの上に倒れ込む。
(光……本当に、ごめん)
楽しみにしていた彼女の笑顔を、俺自身の弱さで奪ってしまった。
(とにかく……一刻も早く、この体調不良を治さないと)
俺は、意識が熱の波に飲み込まれそうになる中、ただひたすらに、大切な光に向けて心の中で謝り続けていた。




