12章 失恋と疑い 〜青田目線〜
指定した駅前のロータリーに愛車を停め、俺はハンドルを軽く指で叩きながら外の景色に目を凝らしていた。
(本当に、来てくれるだろうか……)
ひどい捨て方をした。自分勝手な理由で、ボロボロになるまで傷つけた。
だから、もし断られても、すっぽかされても文句は言えないと思っていた。
だが、ロータリーの向こうから、スプリングコートをきたボブヘアの歩いてくる女。見覚えのあるシルエットを見つけた瞬間、俺の胸は大きく高鳴った。
一途名だ。
来てくれた。
俺は短く「プップッ」とクラクションを鳴らし、運転席の窓を開けて軽く手を挙げた。
「おっす! 乗って! ドライブしよう!」
わざと、昔と同じトーンで、強引に誘う。
相手の都合を考えない、いつもの俺のペース。不安や後悔を悟られないように、空元気を張り上げた。
一途名は少し驚いたような顔をしたが、やがて小さく「……うんっ」と頷き、小走りで助手席側に回ってドアを開け、車に乗り込んできた。
シートベルトを締めたのを確認し、俺はゆっくりと車を走らせた。
「とりあえず、海沿い走って、みなとみらいの方まで行くわ」
「うん」
車内には、静かな沈黙が流れた。
俺は前方の道路に視線を向けながらも、横目で助手席の一途名の様子を窺っていた。
……なんだろう。
昔のあいつなら、俺の顔色を窺ってオドオドしたり、無理に話題を作ろうと必死に喋りかけてきたりしていたはずだ。
だが、今隣に座る一途名は、不思議なほどに落ち着いていた。窓の外を流れる横浜のキラキラとしたオレンジ色の明かりを、静かに、まるで遠くの大切な何かを思い出すような優しい目で見つめている。
(……その目に映ってるのは、俺じゃないんだな)
直感的に、わかった。
頭に浮かんだのは、
俺の友人でもあって、光の幼馴染でもある秀介だ。
俺の球団の親会社で偶然再会した秀介。
一見、ただの幼馴染の現状を教えてくれただけだ。
でも、あの時、アイツから感じられた、俺に対して、牽制と光への強い愛情。
そして今、隣にいる一途名が纏う、何かに満たされたような穏やかな空気。
一途名の心は、もう完全に誰かに向いている。
それが、秀介だってことは、鈍感な俺にだって痛いほど伝わってきた。
(……それでも)
負け試合だとわかっていても、バットを振らずにベンチに下がるなんて、俺の性に合わない。
俺が犯した最悪な過ちを、ちゃんとあいつに謝りたい。そして、あわよくば、もう一度だけ振り向かせたい。
俺は、静かに窓の外を見つめている一途名の横顔に向かって、ポツリと沈黙を破った。
「なんか、いきなり呼び出してごめんな」
俺の言葉に、一途名はこちらを向き、あの頃とは違う、どこか凛とした声で答えた。
「ううん、全然大丈夫。今日は休みだったし」
「おう……そっか。良かった」
やがて車は、みなとみらいの海辺の公園の駐車場に到着した。
俺は車のギアをパーキングに入れ、エンジンを切る。静まり返った車内に、波の音だけが微かに聞こえてくる。
心臓が、試合の打席に向かう時以上にバクバクと暴れている。
確率はゼロに近いかもしれない。でも、このまま何もしないで後悔するくらいなら、砕け散ってでも思いをぶつける。
俺は大きく息を吸い込むと。
バッ、と。助手席に向けて身を乗り出し、自分の膝の上で組まれていた一途名の両手を、強く握りしめた。
「えっ……?」
俺が突然手を握ったことで、一途名はビクッと体を強張らせた。
そうだよな。俺はずっと、あいつのことを都合よく呼び出し、雑に扱い続けてきた最低な男だ。触れられることに警戒心を抱くのは当然だ。
それでも、俺は今、この手を離すわけにはいかない。
「一途名……ごめんな。俺、ずっと間違えてた」
言葉にした瞬間、情けなくも視界が滲んだ。
街灯の光を反射して、一途名が驚いたように目を丸くしているのがわかる。
「俺、ずっと自分のことしか考えてなくて。一途名の気持ちとか、お前がどれだけ俺のために無理してくれてたかとか……全然、考えられてなかった」
声が震える。カッコつけようにも、もうそんな余裕はどこにもなかった。
俺は握っていた一途名の小さな手を一度離し、震える手でパーカーのポケットを探った。そして、あの日、冷蔵庫から落ちてきた折りたたまれた小さな紙切れを取り出し、あいつの前にそっと差し出した。
「これ……」
一途名は、その紙切れに書かれた自分の丸い字を見て、息を呑んだ。
お前が、俺のために一生懸命考えて書いてくれた『プロテインバナナケーキ』の分量と作り方のメモ。
「この前、冷蔵庫開けた時にこれがポロッと落ちてきたんだ。それで、俺……無性にどうしようもなくなって、必死にこのメモ通りにケーキ作ってみたんだけど……全然上手くできなくてさ。焦げるし、味も全然違うし、キッチンは粉だらけでめちゃくちゃになって……」
思い出すだけで、自分の無力さと愚かさが胸を締め付ける。
俺は、一途名が当たり前のように俺に与えてくれていた優しさに、あぐらをかいていただけだったのだ。
俺は再び、一途名の膝の上に置かれた手を、今度はすがるように力強くギュッと握りしめた。
「それで、あの時……なんで俺、一途名に『ありがとう』の一言も言えなかったんだろうって。お前が当たり前みたいにやってくれてたことが、どれだけ大変だったか。本当に、酷いよな、俺……」
こらえきれず、大粒の涙がポロポロと頬を伝ってこぼれ落ちた。
自分の非を認めることなんて大嫌いだった俺が、みっともなく泣いて謝っている。一途名は、そんな俺を見て呆然としていた。
一途名には、決して消えない深い傷を負わせた。
俺がプロ野球の1軍という華やかな世界に溺れ、一途名を見下し、都合よく扱った。そして、俺は冷酷に切り捨てたのだ。
でも、失ってからようやく気づいた。
俺にとって本当に必要だったのは、華やかな見栄でもステータスでもなく、この不器用で真っ直ぐな、一途名の無償の優しさ、思いやりだったんだと。
俺はグッと強い力で腕を引き、一途名の体を自分の方へ引き寄せ、腕の中に強く抱きしめた。
一途名の体が、俺の腕の中にすっぽりと収まる。
「もう、遅いかもしれないけど……」
「……」
自分自身の心音激しくなるのが分かる。
「やっぱり、俺には一途名しかいない。やり直してくれ……っ」
俺は、一途名が必ず頷いてくれると信じていた。
ずっと俺のことを好きでいてくれたあいつなら、俺が本気で謝れば、また許して、受け入れてくれるはずだと。
しかし。
バッ!!
一途名は両手で俺の胸板を強く押し、俺の腕の中から力強く身を剥がした。
「一途名!?」
突然の拒絶。俺は驚いて目を見開いた。
一途名は、目にいっぱいの涙を溜めながら、真っ直ぐに俺を見つめ返した。かつての、俺の顔色を窺っていたような弱々しい一途名は、そこにはもうなかった。
「ごめん……青田。私、大切な人がいるの」
その言葉に、俺は息を呑んだ。
大切な人。
…………秀介の姿が、嫌でも脳裏に浮かぶ。
「……そうか。付き合ってるのか?」
俺は、空を切った自分の手をギュッと固く握りしめた。
「っ! 付き合ってるとかは、ないけど……!」
「じゃあ! 俺にもまだチャンスはあるんじゃないのか!?」
パシッ、と俺は一途名の手首を掴んだ。
まだ付き合っていないなら、あの秀介でも、まだ俺にも入り込む隙があるはずだ。
俺は諦めの悪い男だ。絶対に、手放したくない。真っ赤に充血した目で、必死に一途名を射抜く。
でも。
一途名は、俺に掴まれた手首にそっと自分の反対の手を添え、ゆっくりと、けれど確かな意思を持ってその拘束を解いた。
「……前はね、私が青田のことを大好きだったから。どれだけ雑に扱われても、大切にされなくても、我慢できたの……」
抑えきれなくなったのか、一途名の頬を涙が伝ってポロポロとこぼれ落ちる。
「……」
俺は、決意に満ちたその目を見て、ハッとして押し黙るしかなかった。
「でも、その人は、本当に私のことを大切にしてくれて……いつも、不安にならないように優しい言葉をかけて、私を安心させてくれるの。私が青田に傷つけられて一人で泣いてた時も、一番に駆けつけてくれた。……だから……今度は私が、その人を大切にしたいし、幸せにしたいの」
真っ直ぐに俺を見つめ、心を込めて訴えかける一途名。
その声には、一切の迷いがなかった。
(ああ……完全に、俺の負けだ)
俺は、一途名の心を粉々に砕いた。
そして、あの秀介が、俺が砕いた一途名の心を拾い集め、温め、こんなにも強くて綺麗な女性に変えてしまったのだ。俺が入る隙なんて、もう一ミリも残されていなかった。
もう、これで俺の初恋は、本当に終わりだ。
一途名は、俺を置いて、あいつを一番大切にしてくれる男との未来へ進んでいく。
一途名が、車のドアノブに手をかけた。
「でも……ありがとう、青田。貴方との恋愛があったからこそ、私、初めてわかったの」
ドアを開ける前に、一途名は振り返った。
涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、これ以上ないほどの最高の笑顔を作って、あいつは言った。
「私だって……ちゃんと、誰かに大切にされていい人間なんだって」
それは、俺が今まで見た中で一番綺麗で、そして、俺の心臓を最も深く抉る、残酷な笑顔だった。
(……一途名、こんな風に笑えるようになったんだな)
俺の愚かな振る舞いが、結果的に彼女に「本当の愛」の価値を気づかせてしまったのだ。
ガチャリとドアが開き、春の夜風が車内に吹き込む。
一途名は外へと降り立ち、バタンとドアを閉めた。
俺は、遠ざかっていく彼女の背中を、ただ呆然と見送ることしかできなかった。
俺の手のひらからこぼれ落ちたものは、二度と戻ってこない。
その後悔を一生背負って生きていくのだと、冷たい春風が俺に突きつけていた。
俺はエンジンをかけ、アクセルを踏み込む。車がゆっくりと前進し、あいつの背中がルームミラーの中でどんどん小さくなっていく。
でも……このまま、黙って背中を見送るだけでいいのか?
俺のせいでボロボロになったのに、最後に「ありがとう」なんて最高の笑顔を向けてくれたあいつに、俺はまだ何も返せていないじゃないか。
(……いや、違う。このままじゃ、俺らしくねぇ!)
俺は、強くアクセルを踏み込んだ足を離し、思い切りブレーキを踏んだ。
キキッ!
タイヤが擦れる鋭い音が夜の公園に響き、車が急停止する。
俺はシートベルトを乱暴に外し、ドアを蹴り開けるようにして外へと飛び出した。
そして、遠ざかっていく一途名の小さな背中めがけて、腹の底からありったけの声を張り上げた。
「一途名ァーーーっ!!! こちらこそ、ありがとうっ!!!」
夜の静かな公園に、俺のバカみたいにデカい声が響き渡る。
驚いた一途名が、ビクッと肩を揺らしてこちらを振り返るのが見えた。
「その大切な人って、秀介だろーーー!!!」
遠く離れていても、あいつが目を丸くして驚いているのがわかった。
秀介が一途名のことになると昔から態度に出やすいことは、高校3年間友達をやっていた俺は知っていた。
だから、あの時の秀介を見れば、この鈍感な俺でも気付く。
「アイツなら、絶対にお前のこと幸せにしてくれるから!! 絶対に、幸せにしてやれよな!!!」
俺がどんなに足掻いても敵わなかった、圧倒的な優しさと思いやりを持った男。
秀介なら、絶対に一途名を泣かせたりしない。だから、俺はもう迷わない。潔く身を引き、あいつの幸せを心から祝福する。
「俺、応援してるからなーーー!!! じゃあなーー!!!」
俺はちぎれるほど大きく手を振り、踵を返して再び車に乗り込んだ。
ドアを閉め、今度こそ真っ直ぐに前を向いてアクセルを踏み込む。
遠ざかる公園の景色を横目に、不思議と俺の心の中は晴れやかだった。
悔しさや未練がないと言えば嘘になる。でも、それ以上に、一途名の強くて綺麗な笑顔を見られたことが、どうしようもなく嬉しかった。
『私だって……ちゃんと、誰かに大切にされていい人間なんだって』
あいつの残した言葉が、胸の奥で温かく響く。
一途名は、秀介と出会ってそのことに気づけた。そして俺も、一途名を失って初めて気づくことができた。
恋愛で本当に大切なのは、相手のステータスや見栄なんかじゃない。自分がどれだけ相手を思いやり、大切にできるかだということ。
(次は、俺も……)
いつになるかはわからない。でも、もし次に誰かを好きになる時が来たら。
その時は、一途名が俺にそうしてくれたように、見返りなんて求めず、相手を心から思いやれる恋愛をしよう。
自分のプライドを守るためじゃなく、相手を笑顔にするために必死になれる、そんなカッコいい男になってやる。
俺は、フロントガラスの向こうに広がる夜の街の光を見つめながら、固く決意した。
少しだけ成長できた気がするこの不格好な初恋を、俺は一生忘れない。
……しかし。
帰り道、一人になった車内でハンドルを握りながら、俺はふと、ある「違和感」に気がついた。
(……一途名が青田に傷つけられて、一人で泣いてた時……?)
さっき、一途名が言っていた言葉が、頭の中でリフレインする。
(俺が一途名を傷つけたのは事実だけど……『一人で泣いてた時』って、いつのことだ?)
俺は30歳の時に、一方的にあいつを振った。
でも、その時は秀介はまだアメリカにいたはずだ。一途名が一人で泣いていたところに、秀介が駆けつけるなんてことは不可能なはずだ。
じゃあ、帰国した秀介が、一途名のところに一番に駆けつけた『出来事』ってなんだ?
最近の話だとしたら、明らかにおかしい。
俺はあいつと別れてから、昨日の今日まで一度も連絡を取っていない。
……いや、待てよ。
先日、ふと一途名に連絡しようとした時、なぜか俺のLINEのアカウントで一途名が『ブロック』されていたんだ。
自分でブロックした記憶なんて全くないのに。
『私が青田に傷つけられて……』
俺は何もしていない。身に覚えがない。
でも、あの一途名が、そんな嘘や勘違いをするはずがない。だとしたら……誰かが俺の知らないところで、俺のスマホを勝手に使って一途名に連絡し、ひどく傷つけるようなことをしたんじゃないのか?
(……俺のスマホのロックを解除して、勝手に操作できた人間なんて……)
俺の脳裏に、去年のクリスマスイブ前後の出来事がフラッシュバックした。
あの頃、俺はみよりと一緒にいた。
誰かが、俺のスマホを触れるとしたら二人きりになれた付き合ってた時だ。
それに、思い返してみれば、みよは一途名の話題になると、時折ひどく冷たくて暗い目をしていた気がする。
証拠は何もない。
俺のスマホのLINE履歴には、一途名とのやり取りなんて一切残っていなかった。メッセージを送った痕跡も、呼び出した形跡も、完璧に隠蔽されている。だから、本当にみよがやったのかどうか、確証はない。
でも……。
(なんか怪しいな……)
冷たい汗が、背中を伝う。
疑念に駆られながら、俺は助手席に置いていたスマホを横目で睨みつけた。
俺は、一途名に何が起きたのか、そして証拠はないが、みよのことを、確かめなければならない。
俺たちの歪んだ関係は、まだ完全に終わってなどいなかったのだ。




