12章 さよなら、私の初恋 ③
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春の肌寒い夜風の中、一台の車がヘッドライトで私の横を照らし、通り過ぎていった。
私はスプリングコートの襟を少し合わせながら、自分の家の最寄り駅に向かって歩いていた。
今朝、青田と交わした約束のためだ。
(言いたいことって、なんなんだろう……)
でも、不思議と恐怖心はなかった。電話口から聞こえたあの声のトーンは、私が都合よく扱われて、怯えるように顔色を窺っていた頃の青田のものとは違ったから。
あの頃の、私が大好きだった無邪気で真っ直ぐな青田よりも、どこか優しさと後悔が滲んでいるような、そんな響きだった。
色々なことを考えているうちに、駅前のロータリーに着いてしまった。
青田はどこだろうと辺りを見回していると。
プップッ。
短いクラクションの音が鳴り、振り返ると、ロータリーの端に一台の白いSUVが停まっていた。
運転席の窓が開き、そこから4年ぶりに見る青田が、軽く手を挙げていた。
(青田……まさか、こうやってまた会える日が来るなんて)
そして、あんなに自己中心的に私を振り回していた彼が、わざわざ私の地元の駅まで迎えに来てくれるなんて。
私が小走りで車に駆け寄ると、助手席側の窓がウィーンと下がった。
「おっす! 乗って! ドライブしよう!」
有無を言わさない、相変わらずの強引さ。
相手の回答を聞かずに、自分のペースでぐいぐいと引っ張っていく。そう、私は昔、彼のそういう強引で真っ直ぐなところが好きだったのだ。
「……うんっ」
私は小さく頷き、助手席のドアを開けて、青田の車に乗り込んだ。
私がシートベルトを締めたのを確認すると、青田はゆっくりと車を走らせた。
「とりあえず、海沿い走って、みなとみらいの方まで行くわ」
「うん」
車内には、静かな沈黙が流れた。
でも、不思議なほどに、この時の私はひどく冷静だった。
窓の外を流れる、横浜の街のキラキラとしたオレンジ色の明かり。
その光景を見て、ふと思い出す。そういえば、再会したばかりのキノが初めて車を運転して送ってくれた時も、東京の夜景がこんな風にキラキラと輝いていたっけ。
ふと、窓に向けていた視線を横にずらす。
そこには、私の初恋の人であり、私をこっぴどく振って、ずっとずっと未練を引きずっていた人――青田の横顔があった。
「なんか、いきなり呼び出してごめんな」
私の視線に気づいたのか、青田がポツリと沈黙を破った。
「ううん、全然大丈夫。今日は休みだったし」
「おう……そっか。良かった」
やがて車は、みなとみらいの海辺の公園の駐車場に停まった。
青田は車のギアをパーキングに入れ、エンジンを切った。静まり返った車内に、波の音だけが微かに聞こえてくる。
すると。
バッ、と。青田が突然、自分の膝の上で組んでいた私の両手を、マメで硬い手で包み込むように握ってきた。
「えっ……?」
予想外の行動に、私はビクッと固まった。
「一途名……ごめんな。俺、ずっと間違えてた」
驚いて青田の顔を見ると、街灯に照らされた彼の丸い目が、うっすらと潤んでいるのが見えた。
「俺、ずっと自分のことしか考えてなくて。一途名の気持ちとか、お前がどれだけ俺のために無理してくれてたかとか……全然、考えられてなかった」
彼の声は、微かに震えていた。
そして、彼は握っていた私の手を一度離すと、パーカーのポケットに手を入れ、折りたたまれた小さな紙切れを取り出した。
それを、そっと私に差し出す。
「これ……」
見覚えのある丸い字。それは、私が昔、この人のために一生懸命考えて書いた『プロテインバナナケーキ』の分量と作り方をメモした紙だった。
いつでも作れるようにと、青田の家の冷蔵庫に貼っておいたものだ。別れてからもう何年も経つし、てっきり捨てられているものだとばかり思っていた。
なんで、これを……?
「この前、冷蔵庫開けた時にこれがポロッと落ちてきたんだ。それで、俺……無性にどうしようもなくなって、必死にこのメモ通りにケーキ作ってみたんだけど……全然上手くできなくてさ。焦げるし、味も全然違うし、キッチンは粉だらけでめちゃくちゃになって……」
早口でまくしたてる青田の声は、ひどく震えていた。
彼は、私の膝の上の手を、今度はすがるように、力強くギュッと握りしめた。
「それで、あの時……なんで俺、一途名に『ありがとう』の一言も言えなかったんだろうって。お前が当たり前みたいにやってくれてたことが、どれだけ大変だったか。本当に、酷いよな、俺……」
薄暗い車内でもはっきりとわかった。
青田の大きな目から、大粒の涙がポロポロと溢れ落ちていた。
私はそれを見て、呆然とした。
私の知っている青田じゃない。あんなにプライドが高くて、自分の非を認めることなんて絶対に不器用だった彼が、泣いて謝っている。
「青田……」
確かに、青田には決して消えない深い傷を負わされた。
尽くしても尽くしても見下され、私が苦しむだけの日々。もう修復不可能な関係を、手を血だらけにしながら必死に繋ぎ止めようとしていた惨めな自分。思い出すだけで、今でも涙が出そうになる。
でも……青田は、私が流してきたその血と涙の痛みに、やっと気づいてくれたんだ。
グッ、と強い力で腕を引かれた。
青田が、私の体を自分の方へ引き寄せ、腕の中に強く抱きしめた。
「もう、遅いかもしれないけど……」
「……」
密着した胸から、青田の激しい心音がドクン、ドクンと伝わってくる。
「やっぱり、俺には一途名しかいない。やり直してくれ……っ」
彼が、ギュッと私をさらに強く抱きしめる。
「…………」
私の頭は、一瞬真っ白になった。
ずっと、ずっと欲しかった言葉。待ち望んでいた展開。
でも。
その時、私の頭の中に、ふわりと温かい声が響いた。
『光、大丈夫。俺がいるから』
――暗闇の中で私を救い出してくれた、キノの、あの底抜けに優しくて甘い声。
バッ!!
私は両手で青田の胸板を強く押し、彼の腕の中から身を剥がした。
「一途名!?」
突然拒絶されたことに驚き、青田が目を見開く。
私は、目にいっぱいの涙を溜めながら、真っ直ぐに彼を見つめ返した。
「ごめん……青田。私、大切な人がいるの」
そう、キノのことだ。
「……そうか。付き合ってるのか?」
青田は、空を切った自分の手をギュッと固く握りしめた。
「っ! 付き合ってるとかは、ないけど……!」
「じゃあ! 俺にもまだチャンスはあるんじゃないのか!?」
パシッ、と青田が私の手首を掴んだ。
真っ赤に充血した、必死な目が私を射抜く。
でも……ごめんね、青田。もう、遅いんだよ。
私は、強く握られた手首にそっと自分の反対の手を添え、ゆっくりと、けれど確かな意思を持ってその拘束を解いた。
「……前はね、私が青田のことを大好きだったから。どれだけ雑に扱われても、大切にされなくても、我慢できたの……」
抑えきれなくなった涙が、頬を伝ってポロポロとこぼれ落ちる。
「……」
青田は、決意に満ちた私の目を見て、ハッとしたように押し黙った。
私は震える声を振り絞り、続けた。
「でも、その人は、本当に私のことを大切にしてくれて……いつも、不安にならないように優しい言葉をかけて、私を安心させてくれるの。私が青田に傷つけられて一人で泣いてた時も、一番に駆けつけてくれた。……だから……今度は私が、その人を大切にしたいし、幸せにしたいの」
真っ直ぐに青田を見つめ、心を込めて訴えかける。
もう、これで貴方との初恋は、本当に終わり。
私は、ただ私を大切にしてくるキノとの未来に、自分の足で進みたい。
私は、車のドアノブに手をかけた。
「でも……ありがとう、青田。貴方との恋愛があったからこそ、私、初めてわかったの」
ドアを開ける前に、私は振り返って、涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、最高の笑顔を作って言った。
「私だって……ちゃんと、誰かに大切にされていい人間なんだって」
青田、本当にありがとう。
これは紛れもない本音だった。貴方との苦しい過去があったからこそ、私は今の自分になれた。今の温かい愛に気づくことができたのだから。
私はガチャリとドアを開け、春の夜風が吹く外へと降り立った。
(……私、ちゃんと言えた)
(ありがとう。私にこの勇気と自信をくれたのは、間違いなく、キノだ……)
バタン、とドアを閉め、私は振り返ることなく歩き出した。
やがて、背後でエンジン音が響き、青田の車が遠ざかっていく気配がした。
――すると。
キキッ! とタイヤが擦れる音がして、不意に後ろから大きな声が聞こえた。
驚いて振り返ると、少し離れたところで車を停め、外に飛び出してきた青田が、こちらに向かって思い切り叫んでいた。
「一途名ァーーーっ!!! こちらこそ、ありがとうっ!!!」
夜の公園に、彼のバカみたいに大きな声が響き渡る。
「その大切な人って、秀介だろーーー!!!」
「えっ……!?」
「アイツなら、絶対にお前のこと幸せにしてくれるから!! 絶対に、幸せにしてやれよな!!!」
青田の大声に、私は目を丸くした。
キノのこと、知ってたの……?
「俺、応援してるからなーーー!!! じゃあなーー!!!」
青田はちぎれるほど大きく手を振ると、再び車に乗り込み、今度こそ真っ直ぐに車を走らせて見えなくなっていった。
「青田……」
あんなに必死に大声を出して。
なんだか、高校時代の、あの裏表がなくて仲間思いだった青田を少しだけ思い出した。
でも、片思いしていた時の青田とも、付き合っていた時の青田とも、変わってしまって私を傷つけた青田とも……これでもう、本当におしまいだ。
ちょっぴりだけ寂しいような気もしたけれど、それ以上に、心の中は嘘のようにスッキリと澄み切っていた。
頬を撫でる春の涼しい夜風が、私の背中を優しく押してくれているような気がする。
私は、これまでにないほど軽い足取りで、公園の最寄り駅へと向かって歩き出した。
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みなとみらいの冷たい海風を背に受けて、青田と別れた後。
私は電車を乗り継ぎ、実家のある最寄り駅まで帰ってきた。
改札を抜け、夜の空気を胸いっぱいに吸い込むと、自然とほっと安堵の息が漏れる。
長い間背負っていた重たい荷物をようやく下ろせたような、清々しい帰り道だった。
その時だ。コートのポケットに入れていたスマホが、ブブッと短く震えた。
画面を取り出して確認すると、そこには私が待ち望んでた名前が表示されていた。
キノだ!
「……っ!」
久々の電話だ!
私は嬉しさのあまり、慌ててスマホを操作しようとして手を滑らせ、危うく地面に落としそうになりながらも、なんとか通話ボタンを押した。
「も、もしもしっ!」
『光? ……久しぶり』
耳元に響く、低くて落ち着いた声。
ほんの少し掠れたその声を聞いただけで、さっきまでの緊張が嘘のように解け、心の奥底からじんわりと安心感が広がっていく。
『ずっと、まともに連絡できなくてごめんね』
「ううん、全然大丈夫だよ。実はサラさんからこっそり聞いてて……すごく重要な仕事をたくさん任されてて、大変なんだよね?」
『あいつ、余計なことを……。まあ、大したほどじゃないんだけど。でも、やっと少しだけ時間を作れそうな目処が立ちそうだから、連絡したんだ』
少し疲れ気味の声。激務で寝る間も惜しんでいるはずなのに、その声のトーンからは、私を気遣うような温かい温度がひしひしと伝わってくる。
(こんなに疲れているのに……忙しい合間を縫って、私のために時間を作ろうとしてくれてるんだ)
その事実が、たまらなく嬉しかった。
「うん……」
『4月の2週目あたりで、どこか時間取れそうなんだけど……光は、都合が悪い日とかあるかな?』
「俺についてこい」と有無を言わさない強引な誰かさんとは違う。まずは私の都合を最優先にして、優しく選択肢を与えてくれるスマートな聞き方。
そんな彼の大人の余裕と細やかな気遣いに、胸の奥がキュンと鳴る。
「ううん、その週は仕事以外は何も予定ないよ!」
『そっか、良かった。……じゃあ、詳しいことはまた連絡するね』
「うん、待ってる。じゃあね……」
私が少し名残惜しく思いながら電話を切ろうとした、その瞬間だった。
『あ、待って』
「えっ?」
『なんか……今日、いいことあった?』
突然の質問に、私はビクッと肩を揺らした。
ついさっき、長く引きずっていた初恋を清算して、しっかり前を向いて歩き出そうと決意したばかりだ。それに加えて、ずっと声が聞きたかったキノから電話がかかってきて、飛び上がるほど嬉しいのが……声だけで丸わかりだったのだろうか。
「な、なんで……?」
『だって、すごく声が嬉しそうだったから』
電話越しに、彼がふっと柔らかく微笑んだ気配がした。
『光のその声聞いたら……残りの仕事も、すごく頑張れそうだよ』
「っ……!」
甘く、優しく掠れたキノの言葉に、私の頬は一瞬でカッと熱を持った。
そんな、心臓が跳ね上がるような嬉しいこと、サラッと言わないでほしい。
私は嬉しさと恥ずかしさのあまり、気の利いた言葉が何も出てこなかった。
『じゃあ、また連絡するね。夜はまだ冷えるから、体調には気をつけて。おやすみ』
「う、うん……っ。キノも、おやすみなさい」
通話が切れ、画面が暗くなっても、私はしばらくスマホを両手で握りしめたまま立ち尽くしていた。
ほんの数分の、短い電話。
それだけでも、胸がいっぱいになるくらい嬉しい。でも、一番嬉しいのは……もう少ししたら、やっとキノに会えるということだ。
(あと少し……私も頑張ろう)
見上げた夜空には、満天の星がキラキラと瞬いていた。
私は、スキップでもしてしまいそうなほど軽い足取りで、家への帰路についた。




