12章 さよなら、私の初恋 ①
ナイターの試合を終え、愛車のハンドルを握りながら、俺は世田谷のマンションへと向かっていた。
今日の試合、同点で迎えた終盤の打席。俺のバットから放たれた打球は、見事に左中間を破り、チームを勝利に導く決定打となった。
ヒーローインタビューを終え、シャワーを浴びて帰路につく俺の心臓は、試合中とは全く違う理由で、バクバクと早鐘を打っていた。
実を言うと、1週間前から俺は決めていたのだ。
『もし、自分の決定打で試合に勝つことができたら、一途名に連絡をしよう』と。
そう心に誓ったきっかけは、1週間前の夜にさかのぼる。
試合から帰宅し、喉の渇きを潤そうとキッチンへ向かい、冷蔵庫を開けようとした時のことだ。
ドアにマグネットで貼り付けていた一枚の古いメモ用紙が、ヒラリと足元に落ちた。
拾い上げて、そこに書かれている丸みを帯びた見覚えのある文字を見た瞬間、俺の心は鋭利な刃物でえぐられたように痛んだ。
「……一途名……」
それは、一途名が書いて残していった『プロテインバナナケーキ』の材料の分量と、作り方のメモだった。
よく見ると、メモの端には小さな字でこう書き添えられていた。
『青田の筋肉が、しっかりつきますよーに! 』
俺は、あいつが作ってくれるこのバナナケーキが大好きだった。
パサパサ感がなく、しっとりとしていて、ほのかに甘い。俺はただ「うめぇ」と単純に喜んで食べていただけだった。
だが、俺が一軍のレギュラーになり、あいつへの対応がひどく雑になった時期。俺はこのケーキが食べたいがためだけに、一方的にあいつを呼び出し、作らせるだけ作らせて、「じゃあ帰っていいよ」と冷たく追い返していた。
(あんなにぞんざいに扱っていた俺のために、あいつは毎回、こんな面倒なことをしてケーキを焼いてくれていたのか……?)
俺は、居ても立ってもいられなくなった。
気づけば、俺はそのメモを握りしめたまま財布を掴み、慌てて部屋を飛び出して深夜のスーパーへと走っていた。
メモに書いてある小麦粉、バナナ、卵、無塩バター……。目につくものを手当たり次第にカゴに放り込み、息を切らしてマンションのキッチンへと戻った。
「……やってやる」
俺はメモの通りに材料を並べ、見よう見まねでケーキ作りに挑んだ。
しかし、結果は惨憺たるものだった。
小麦粉をボウルに入れてスケールで量ろうとすれば、袋からドバッと粉がこぼれ落ちて、キッチンの宙に白い粉が盛大に舞い散る。
卵を割ろうとすれば、力加減がわからずにグシャッと潰してしまい、ボウルの中に細かい殻が大量に混入してしまう。
バターを常温に戻すという工程をすっ飛ばしたせいで、生地は完全に分離し、どれだけ泡立て器で混ぜても全くまとまらない。
悪戦苦闘の末、なんとかドロドロになった生地を型に流し込もうとするが、手が滑ってあちこちに生地をこぼしまくった。
「くそっ……! なんだこれ、オーブンはどうやって使うんだよ!」
普段は温めにしか使わない高機能なオーブンレンジの操作方法がわからず、俺は粉まみれの手でスマホを操作し、必死に取扱説明書を検索した。
なんとかメモに書いてある温度と時間にセットし、オーブンの中に型を放り込む。
そして、タイマーが鳴り、焼き上がったケーキを取り出した。
「……焦げてるじゃねーか」
表面は真っ黒に焦げ、真ん中はひび割れて見るも無惨な姿になっていた。
俺は素手でそのまま型を取り出そうとして、「アッチー!!」と叫び声を上げた。慌ててバスタオルを持ち出して型を包み込み、なんとかケーキを取り出す。
火傷しそうになった指を舐めながら、食べやすいサイズにザクザクと切り分け、まだ湯気の立つ黒焦げのケーキを口の中に放り込んだ。
「…………っ」
俺は、そのケーキを咀嚼しながら、自然と涙が溢れ出すのを止められなかった。
「ふっ……。全然、味が違う……」
モソモソとしていて、ただ甘ったるくて、ところどころ卵の殻がジャリッと鳴る。あいつが作ってくれていた、あのしっとりとした優しい味とは似ても似つかない、ただの失敗作。
ふと視線を上げ、俺はキッチンの惨状を見渡した。
飛び散った白い粉、こぼれた生地、ぐちゃぐちゃに散乱した卵の殻と洗い物の山。
「俺……なんで……。あいつに『ありがとう』の一言も、言えなかったんだろう……」
あいつは、不器用な俺には絶対にできないこの作業を、文句一つ言わずに毎回手際よくやってくれていたのだ。美味しいケーキを作り、そして、キッチンも来た時よりも綺麗に片付けて帰ってくれていた。
それなのに、俺はどうだ。
自分が1軍に定着して価値観が変わったからと、高校の同級生だった一途名との『日常』を勝手に見下し、あんなにもひどい扱いをした。
そして、フッと目の前に現れた、自分と同じ『華やかなステージ』にいると思っていた山田みよりに、コロッと心を奪われてしまった。
だが、みよはどうだった?
彼女は一途名のように、俺のために何かを与えてくれることは一度もなかった。彼女は常に、俺から高級なブランド品や華やかな料理、旅行を求めるばかりだったじゃないか。
俺は、最低なクズ野郎だ。
一途名はいつも、俺のためにできることを必死に探して、不器用ながらに全力で尽くしてくれていたのに。俺はあいつに、何一つ返してやることができなかった。
恋愛で一番大事なのは、ステータスや『自分に見合う存在かどうか』なんかじゃない。
『どれだけ相手を思いやれるか』だ。
俺は、その当たり前すぎる事実にようやく気づき、かさ後悔と懺悔の思いを噛み締めるように、自分で作ったまずいプロテインバナナケーキを涙と一緒に飲み込んだ。
(……とはいえ)
秀介と偶然、会社で会った時のことを思い出す。
彼からほのかに感じられた、一途名とのあの親密な空気。言葉の端々に滲む、彼女を守ろうとする圧倒的な意志。
正直言って、俺が秀介に敵うわけがない。
いくら俺がプロ野球で活躍してスター選手になろうが、稼いでいようが、そんなものは彼には全く通用しない。顔の造形だって天地の差だ。
だが、一番の敗因はそこじゃない。
秀介には、俺が決定的に持っていないものがある。
深い優しさ、思いやり、そして『相手の気持ちを察する能力』だ。
俺はそういうのがめっぽう欠け落ちていて、自分の感情だけで突っ走って、結果的に一途名をボロボロに傷つけてしまった。
だから、あの人一倍優しくて、相手の痛みに敏感な一途名は……絶対に、秀介と一緒にいた方が幸せになれるに決まっている。
頭では、痛いほど理解している。
(でも……俺にも、もう一回だけチャンスが欲しい)
俺は、諦めの悪い人間だ。
勝ち目がないからといって、何もせずに引き下がるなんて絶対にできない。
まずは、あいつに真っ直ぐに向き合って、俺が犯した最低な過ちを、ちゃんと謝りたい。
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そして今日。
『決定打を打てたら連絡する』という自分勝手な願掛けを見事にクリアし、俺はマンションの部屋のドアを開けた。
リビングに入り、テーブルに車のキーを放り投げる。
深呼吸をして、ポケットからスマホを取り出し、震える指で画面を開いた。
数時間前に勇気を振り絞って送った『電話してもいい?』というメッセージ。
それに対する、光からの返信が届いていた。
『うん、明日休みだからいつでも電話いいよ』
画面に表示されたその短い文字を見た瞬間、俺はギュッと拳を握りしめた。
「よし……っ!」
絶対に、もう二度とあいつを傷つけない。
これは、最低だった俺が、本気で変わるための第一歩だ。
俺は、明日の電話で何をどう伝えるべきか、頭をフル回転させながら、静かな部屋の中で小さくガッツポーズをした。




