11章 初恋の人 ④
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青田と付き合い始めた当初。
彼は1軍の控え選手としてシーズン中は地方への遠征も多く、以前のように頻繁に会うことはできなくなっていた。
けれど、時間が合う時は二人で河川敷の公園を散歩しながらキャッチボールをしたり。
私が球場へ応援に行った帰りは、球場の外でこっそり待ち合わせて一緒に駅まで帰ったり。
頻繁ではなかったけれど、恋人らしい穏やかな時間を、私たちは確かに共有していた。
あの時の私は、間違いなく世界で一番幸せだった。
――しかし。
その幸せは、彼が1軍に完全に定着し、レギュラーメンバーとして球団の『スター選手』へと駆け上がり始めた頃から、音を立てて崩れ始めた。
一番のきっかけは、彼が球団の寮を出て、世田谷区にある高級マンションを自分で借りて住み始めたことだった。
元々、用事がないと連絡をしてこないタイプだった彼から、完全に連絡が途絶えた。
私から勇気を出して電話をかけてみても、受話器の向こうの青田は、いつもどこか上の空だった。
「久しぶり! 今日テレビ見たよー! すごいね、ホームラン!」
「あーーー……おう。そうだな」
電話越しに聞こえる、面倒くさそうな声と、テレビかゲームの音。
(……どうしたんだろう)
1軍で活躍し始めたあたりから、明らかにおかしい。
私が大好きだった、あの裏表のない太陽のような笑顔も、真っ直ぐで力強い声も。最近の青田からは、全く感じられなくなっていた。
(やっぱり……地味でモブみたいな私じゃ、スターになった彼にはダメなのかな……)
私は、鳴らないスマホを握りしめたまま、常に不安と孤独に押しつぶされそうになりながら仕事に通う日々を送っていた。
そんなある日。
珍しく彼からLINEのメッセージが届いた。
『なあ、あのケーキ作ってほしい』
たったそれだけの、短文。
『会いたい』ではなく『ケーキが食べたい』という欲求だけのメッセージ。
それでも、私は何の迷いもなく「わかった。今から行くね」と返信し、スーパーで材料を買い込んで彼のマンションへと向かった。
少しでも彼に必要とされたかったからだ。
高級なマンションのエントランスに入り、インターフォンを押す。教えられた部屋番号を押し、オートロックが開いた。
エレベーターで上がり、玄関のドアを開けると、そこにはスウェット姿で気怠そうにしている青田がいた。
なんだか……私の知っている青田じゃない。
近寄りがたい、冷たい空気を纏っている。
「……お邪魔します」
「おう」
挨拶もそこそこに、私は彼に先導されるまま、少し散らかったリビングへと案内された。
彼は無言で、カウンターキッチンを顎でしゃくった。
「好きに使っていいから」
それだけ言うと、彼はソファにドサッと座り込み、テレビをつけながらスマホをいじり始めた。
「……うん。わかった」
私は買ってきたスーパーの袋からバナナやプロテインの粉を取り出し、黙々と彼の好きなケーキの準備を始めた。
その間も、青田からの会話は一切ない。部屋に響くのは、テレビのバラエティ番組の笑い声と、私がボウルをかき混ぜる音だけだった。
パウンドケーキの型をオーブンに入れ、タイマーをセットする。
「ちょっとお手洗い借りるね」と声をかけて、私は手を洗うために洗面所へと入った。
広い洗面台。
そこで手を洗おうとして、私はあるものに気がつき、ハッと息を呑んだ。
「これ……」
鏡の前の棚に置かれた、ピンク色の可愛らしいボトル。
そっと手を伸ばして匂いを嗅いでみると、いかにも女の子らしい、フローラル系の甘い香りがした。
絶対に、男性が使うような化粧水じゃない。ましてや、野球一筋で美意識なんて皆無だった青田が、こんなものを自分で買うはずがない。
もちろん、私のものでもない。
気分が悪くなり、視線を落とす。
すると、白い洗面ボウルの隅に、長い髪の毛が1本、へばりついているのが見えた。
私の髪は暗いブラウン色のボブだ。でも、そこに落ちていたのは、明るい色に染められた、長い長い髪の毛だった。
「…………っ」
頭の中が、真っ白になった。
見たくなかった現実。気づきたくなかった事実。
青田は、私じゃない誰かを、この家に入れている。
……浮気を、している。
足元が崩れ落ちていくような絶望感。顔から血の気がサーッと引いていくのがわかった。
胸の奥が冷たく締め付けられ、息をするのもしんどい。
私はフラフラとした足取りで、リビングへと戻った。
青田は、私が洗面所に行く前と全く同じ姿勢でソファに座り、テレビを見ていた。
戻ってきた私に視線を向けることすらない。まるで私が空気であるかのように。
(さっきの化粧水のこと、聞きたい……)
そう喉まで出かかったけれど、私は言葉を飲み込んだ。
もし、それを聞いて問い詰めてしまったら? きっと、青田との関係はここで終わってしまう。
あの時、私が落ち込んでいた時に引っ張り上げてくれて、「自信を持て」と言ってくれた、あの真っ直ぐな彼が……完全に私の中からいなくなってしまう。
それだけは、絶対に嫌だった。
チンッ。
静寂を破るように、オーブンのタイマーが鳴った。
私は呆然としたままキッチンへ戻り、焼き上がったケーキを取り出して、食べやすいようにカットして皿に盛り付けた。
「……できたよ」
鉛のように重い口を開いて、青田に声をかける。
「あー、サンキュー」
彼はテレビに視線を向けたまま、面倒くさそうにひらひらと手を振った。
「じゃあ、もう帰っていいよ」
「……えっ」
私は、その言葉に耳を疑った。失望で、目の前が真っ暗になる。
何これ……私、彼女だよね?
ただケーキを作るためだけに呼び出されて、出来上がったら用済みだから帰れって……そんなの、あんまりじゃないか。
「……うん。わかった」
私は、何も反論できなかった。
浮気を問い詰める勇気もない。雑に扱われていることに怒る気力もない。
ただ、あの真っ直ぐだった青田がこんな風に変わってしまったことが悲しくて、苦しくて。この痛くて息苦しい空間から早く逃げ出したくて、私は持ってきた荷物を急いで片付けた。
逃げるように玄関の方へ向かい、リビングの重い扉のドアノブに手をかける。
私は最後に一度だけ振り返り、ソファから一歩も動かずにテレビを見続けている青田の背中を見つめた。
(ねぇ、青田……。あの時の、太陽みたいな笑顔は? あの時の、無邪気で真っ直ぐだった青田は……どこに行っちゃったの?)
声にならない叫びを飲み込み、私はすがるような思いで、そっと口にした。
「……また、会える?」
少しでも、彼を引き留めたくて。
すると彼は、私の方を振り返ることもなく、冷たく言い放った。
「……また、こっちから連絡するから」
もう二度と連絡なんて来ない気がする、ひどくそっけない言葉だった。
私は逃げるように、青田のマンションの重い玄関ドアを閉めた。
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それからだった。
青田と完全に別れることになる、30歳の年まで。
私は『都合のいい女』として、青田が「来てほしい」と言った時にだけ呼び出され、プロテインバナナケーキを作ったり、部屋の掃除をしたり、買い物を頼まれたりするだけの存在に成り下がった。
自分でも、痛いほどわかっていた。
こんなの、ただ都合よく使われているだけだって。この惨めな関係を、自分から終わらせなくちゃいけないって。
でも、やっぱり……高校の時からずっと憧れて、大好きだった青田のことを思い出すと、自分から彼の手を離すことなんてできなかったのだ。
そして、彼と会うたびに、私の中の『自己肯定感』は音を立てて削られていった。
彼の部屋に行くたびに増えていく、女の人の影。
私が絶対に買わないような派手な色のリップ。ソファの隙間に落ちていた、大ぶりなイヤリング。
(きっと、1軍になって華やかな世界にたどり着いた青田には……私みたいな、冴えないモブ女はもう必要ないんだ……)
ずっと、ずっと苦しかった。
心の中では、毎日血の涙を流して泣いていた。
私はただ、一番近くで青田のそばにいて、彼を支えたかっただけなのに。
そして、私のこの惨めでボロボロな初恋は、ついに終わりを迎えた。
30歳になったある日。
彼は、あっさりと一方的に私を振ったのだ。
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――はっ!
バチャッ!
「……っ、危ない危ない……」
私は大きく息を吸い込み、パチリと目を覚ました。
湯船の温度で、危うくお風呂の中で寝落ちしてしまうところだった。
過去の惨めな記憶を思い出しすぎて、すっかりのぼせてしまったらしい。
私は湯船から上がり、パジャマに着替えて髪をドライヤーで乾かした。
そして、リビングのテーブルに置きっぱなしにしていたスマホを手に取ろうとした、その瞬間だった。
ピロン!
画面が光り、LINEの通知音が鳴った。
(あっ! キノかもしれない……!)
私は期待に胸を膨らませ、咄嗟にスマホを手に取って通知のポップアップを確認した。
しかし。
画面に表示されていたのは、キノの名前ではなかった。
そこには、私の目を疑うような、絶対にあり得ない名前が表記されていた。
『久しぶり。また、会いたいんだけど、電話してもいい?』
——それは。
あのクリスマスの日に、私を呼び出しておいて無惨にドタキャンし、私を絶望のどん底に突き落とした元カレ、青田啓司からのメッセージだった。




