11章 初恋の人 ③
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青田はそれから、がむしゃらに2軍で野球に打ち込み続けた。
泥にまみれ、汗にまみれ、プロの世界の厚い壁に何度もぶつかりながらも、彼は決して諦めなかった。
25歳になる年のシーズンを迎えるまで、彼は寮と練習場をひたすら往復するだけの日々を送っていた。
私は仕事の休みが合うと、たまに2軍の球場へ試合を見に行ったり、練習が終わって寮へ帰る彼を待ち伏せして、手作りの差し入れを渡したりして彼を陰から支え続けた。
中でも、青田が一番気に入ってくれたのが、私が試行錯誤して作った『プロテイン入りのバナナパウンドケーキ』だった。
夕暮れ時、寮までの帰り道を二人で並んで歩いていた時のことだ。
私が渡したタッパーを開け、青田は大きな口を開けてパウンドケーキを頬張った。
「うおっ! すげーこれ、うめぇ!! お前、マジで天才だな!!」
目を輝かせて、本当に美味しそうに食べてくれる。
プロテイン特有のパサパサ感をなくすために、何度もレシピを改良した甲斐があった。「美味しい」と心から褒めてくれる彼のその言葉と無邪気な笑顔だけで、私はどんな疲れも吹き飛ぶくらい嬉しかった。
そんな地道な努力が、ようやく実を結ぶ日が来た。
25歳になる年の春。彼はまだレギュラーメンバーではなかったものの、ついに『1軍のベンチ入り(控え選手)』を勝ち取ったのだ。
「初めて1軍のベンチに入るから、絶対見に来てくれよな!」
彼から招待チケットをもらい、私は初めてプロ野球の1軍が試合をする大きなドーム球場へと足を運んだ。
すり鉢状に広がる、広大な観客席。まばゆいカクテル光線に照らされた美しい人工芝のグラウンド。
(青田は、ずっとここでの試合を夢見て頑張ってきたんだな……)
そう実感すると、試合が始まる前から胸がいっぱいになった。
3時間ほど続いた白熱した試合の中で、青田が出場したのは、ほんの一瞬だった。
終盤、ランナーが出た場面での『代走』。
結果的に後続のバッターが打ち取られてしまい、彼がホームベースを踏んで活躍するシーンは見られなかったけれど、背番号をつけて一軍のグラウンドを走る彼の姿は、私にとって誰よりも輝いて見えた。
試合が終わり、熱気に包まれた球場から出て、夜風に吹かれながら駅までトボトボと歩いていると、私のスマホが震えた。
画面を見ると、青田からの着信だった。
「もしもしっ」
「うーす! お疲れ! 今日はありがとな。一途名がスタンドにいるの、ちゃんと見えてたぜ!」
電話の向こうから、少し興奮冷めやらぬ様子の、青田の元気な声が聞こえた。
「えっ! 嘘、あんなに広いのに見えてたの?」
「おうっ! すぐ見つけた!」
あんなに観客がたくさんいたのに、私を見つけてくれたなんて。
少しだけ自惚れてしまいそうになって、私は照れくさく笑った。
「そっか……見つけてくれて、ありがとう」
「なぁ、また見に来てよ」
「えっ!」
真っ直ぐな言葉に、ドキリとする。
また、見に来てほしい?
「俺さ、一途名がスタンドにいると、なんかすげー頑張れるから」
ニカッと白い歯を見せて笑う、彼の明るい表情が電話越しに目に浮かぶようだった。
私がいると、頑張れる。
私の存在が、少しでも彼のためになっているんだ。そう思えたことが、ただひたすらに嬉しくて、涙が出そうになった。
「……うんっ!」
「じゃあ、これから毎回見にきてな!」
嬉しさに浸っていた私に、青田はさらに衝撃的な言葉を投げかけてきた。
「えっ!? 毎回!?!?」
「あ……いや、毎回は無理か。遠征で地方とかにも行くしな。俺、バカなこと言ったわ」
自分が勢いで言った言葉の非現実さに気づいたのか、青田は一人でボヤいて自己完結していた。
少しの間、電話越しに沈黙が流れる。
そして。青田は、まるで天気の話でもするかのように、なんでもないような声でサラッと言ってのけたのだ。
私が、ずっとずっと、一番欲しかった言葉を。
「じゃあさ。これからは、『彼女』ってことで俺のこと応援してよ」
少しだけ照れ隠しが混ざったような、けれど、いつもの自信に満ちた明るい声だった。
「……え??」
いきなりすぎる展開に、私は耳を疑った。
私が、青田の彼女?? あの眩しい彼の、特別な存在に?
「おい! 返事なしかよ!」
私が沈黙していると、青田がツッコミを入れるように焦った声を出した。
「い、いやいや! いきなりだったからびっくりしちゃって……! ほ、本当に私でいいの? 私が青田の彼女で……」
咄嗟に出たのは、やっぱり自分の卑屈で自信のない言葉だった。
そんな私を、彼は電話越しに笑って一蹴した。
「バーカ! お前は昔から、本当に自分に自信ねーよな! 俺が『彼女になれ』って言ってんだから、一途名がいいに決まってんだろ!」
呆れたように放たれたその言葉は、私の心の中にあった分厚い劣等感の壁を、いとも簡単に打ち砕いてくれた。
この人は、いつもこうやって私を真っ直ぐに引っ張り上げてくれる。
「……うんっ! ありがと……これから、よろしくね」
私は嬉しすぎて、ポロポロと涙をこぼしながら電話越しの青田に伝えた。
「おう!! よろしくな!」
青田の元気で力強い声が、耳の奥に心地よく響き渡った。
(初恋がまさか、本当に結ばれるなんて……)
夜の駅前。冷たい風も全く気にならないくらい、私の心は温かかった。
あの時の私は間違いなく、世界で一番幸せな女の子で、この幸福の絶頂が永遠に続くと信じて疑わなかった。
――しかし。
この『1軍』という華やかで残酷な世界が、彼の価値観を少しずつ歪めていくことを。
彼がレギュラーとして活躍し始め、本当のスター選手になっていくにつれて、私たちの関係が音を立てて崩れ去っていくことを。




