11章 初恋の人 ②
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あの水道場でスポーツドリンクを投げ渡された出来事があってから。
私は自然と、クラスの中で青田の姿をずっと目で追うようになっていた。
彼は、いつだって私の想像の斜め上をいく人だった。
例えば、午後の退屈な数学の授業中。
一番後ろの席で気持ちよさそうに爆睡していた青田は、先生にチョークを投げられて激怒されたことがあった。
普通なら縮こまって謝るところだが、彼はスッと立ち上がると、悪びれる様子もなく堂々と言い放ったのだ。
「すんません! 俺、朝練から野球頑張りすぎて、限界突破して寝てました!」
あまりにも堂々としたその言い訳に、先生も呆れてため息をつき、クラス中がドッと笑いに包まれた。
決してふざけているわけではなく、本当に本気で野球に向き合っているからこそ言える言葉。そんな憎めないキャラクターが、彼にはあった。
秋の体育祭でも、彼は常に輪の中心にいた。
持ち前の明るさと声の大きさで、応援団長のようにクラスのみんなを引っ張っていく力強さ。
忘れられないのは、クラス対抗のリレーでの出来事だ。
運動が苦手な女の子がバトンパスで手間取り、大きく順位を落としてしまった。レース後、テントの裏で一部のクラスメイトが「あの子のせいで負けたじゃん」と陰でと文句を言っているのを見かけた。
すると、たまたま通りかかった青田が、ピタリと足を止めてクラスメイトたちを一瞥し、バッサリと言い捨てたのだ。
「はぁ? 一生懸命走って頑張ってるやつに、陰でコソコソ悪口言うのが一番ダサいぞ」
その裏表のない真っ直ぐな言葉に、文句を言っていた子たちは顔を赤くして散っていった。
正義感ぶるわけでもなく、ただ自分が思った『正しいこと』を迷わず口にできる強さ。その横顔を見て、私はますます彼から目が離せなくなってしまった。
たまに、グラウンドの隅からこっそりと野球部の練習を見に行ったこともある。
青田は、1年生でありながら、3年生の先輩を差し置いてレギュラーの座を勝ち取っていた。
ある日の練習後、レギュラーを奪われた先輩数人に呼び出され、嫌味を言われているのを目撃してしまった。
私はハラハラして木陰から見守っていたけれど、青田は全く怯むことなく、先輩の目を真っ直ぐに見返して告げた。
「俺の方が努力してるんで、試合に出るのは当然です。人につべこべ言う暇があるなら、自分がもっと努力した方がいいんじゃないスか?」
生意気だと言われればそれまでかもしれない。
でも、彼はそれだけ誰よりもがむしゃらに野球に立ち向かい、自分の流した汗と努力に絶対の自信を持っていた。
青田は、私にないものを全部持っていた。
自分への揺るぎない自信。ブレない芯。誰に対しても裏表のない性格。そして、周りを巻き込んで引っ張っていく圧倒的な行動力。
何度壁にぶつかっても、ひたすらめげずに立ち上がる泥臭い姿。
(……すごいな)
私は、そんな青田に強く憧れていた。
『完璧な幼馴染』であるキノの隣にいることに引け目を感じていた、目立たないモブキャラの私。そんな私にも、彼は他の子と全く同じように、分け隔てなく明るく接してくれた。
その太陽みたいな眩しさに触れるたび、私の胸の奥に芽生えた小さな憧れは、確かな『恋心』へと変わっていった。
高校の3年間。
私は彼に密かな恋心を抱き続け、泥だらけになって白球を追いかける彼を、ずっと陰ながら応援し続けた。
(いつか、あの眩しい彼のそばで……少しでも彼の力になれたらいいな)
そんな淡い夢を抱きながら。
彼の試合がある日はこっそりと球場へ足を運び、彼がヒットを打てば自分のことのように喜び、怪我をすれば神様に祈るように心配した。
けれど、臆病な私が、彼に自分の気持ちを伝えることなんてできるはずもなかった。
私の恋は、彼に気づかれることも、交わることもなく。
私と青田は、ただの『同級生』という関係のまま。
何一つ変わることのないまま、あっけなく高校3年間の終わりを迎えたのだった。
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高校を卒業してから、早いもので5年の月日が流れた秋のことだった。
短大を卒業した私は、都内の企業で派遣の事務員として平穏な日々を送っていた。
そんなある日、実家に高校の同窓会のお知らせが届いた。
みよちゃんは、「仕事が忙しいから」と早々に不参加を決めていた。彼女は念願のアナウンサーになり、テレビで朝のニュース番組に出演したりしているからきっと忙しいんだろう。
キノはもちろん、アメリカにいる。
弁護士になるために、今は向こうの『ロースクール』というところで毎日寝る間も惜しんで猛勉強しているらしい。
そのことは、お母さんとキノのお母さんが今でも定期的に文通をしていて、教えてもらったのだ。
二人が来ないとなれば、私も行くのはやめようかと思っていた。
けれど、園芸部で仲の良かった友達から「一緒に行こうよ!」と強く誘われ、私は数年ぶりに高校の同級生たちが集まる会場へ足を運ぶことになった。
同窓会当日。
会場の貸し切りレストランには、懐かしい顔ぶれがいっぱい揃っていた。
みんなどこか大人っぽく、綺麗になっていたり、スーツを自然に着こなしていたりして、5年という月日の流れを感じさせる。
私は、園芸部だった女の子たちと一つのテーブルに座りながら、無意識のうちに『ある顔』をずっと探していた。
(青田……来てるのかな)
噂で聞いたところによると、彼は高校卒業後、野球推薦で大学に進学し、その後、東京のプロ球団にドラフト5位くらいで入団したらしい。
やっぱり、プロ野球選手になったらこんな同窓会に来る暇なんてないほど忙しいのだろうか。
諦めかけて、友達との会話に意識を戻そうとした、その時だった。
「ごめん、遅れたー!」
会場の入り口が開き、ラフなパーカーを着た男の人が入ってきた。
「あっ……」
一目でわかった。青田だ。
高校生の時よりも肩幅が広くなり、ガッチリとした筋肉質な体格になっている。ずっと外で野球をしていた頃よりは、少しだけ肌が白くなっている気がした。
「おおっ! 青田じゃん!」
「プロ野球選手のお出ましだー!」
青田はあっという間に、当時のクラスメイトの男子たちに囲まれた。
彼は高校時代と変わらない明るい笑顔で、「やめろよー!」と笑い声を上げている。
けれど、遠くからその横顔を見つめていた私には……彼がどこか、無理をして笑っているように見えた。
(……青田、大丈夫かな?)
ただ、彼の笑顔の奥にある『陰り』のようなものが気になって、私は出された料理を口に運びながらも、ずっと青田の方を横目で見つめ続けていた。
***
結局、青田とは一言も話すタイミングがないまま、同窓会はお開きの時間を迎えた。
ゾロゾロとみんなが会場を後にしていく。
(青田と、話せなかったな……)
なんだかずっと無理をしているように見えたから、少し心配だった。
私は園芸部のみんなと一緒に会場の外へ出ようとした、その時。ハッと気がついた。
「あっ! ハンカチ、テーブルに置き忘れちゃった!」
そのハンカチは、就職祝いでお母さんにプレゼントしてもらった、ちょっといいブランドのものだった。絶対に失くすわけにはいかない。
私は「先に行ってて!」とみんなを見送り、一人で足早に会場へと引き返した。
幸い、私たちが座っていたテーブルの上にハンカチはポツンと残されていて、無事に回収することができた。
「よかったぁ……」とホッと胸を撫で下ろし、一人で会場の出口に向かおうとした時。
トイレに続く廊下の方から、見覚えのあるパーカー姿の男性が一人で歩いてくるのが見えた。
「……青田っ?」
思わず、口から名前がこぼれ出てしまった。
すると、彼も私の声に気づいたようで、軽く手を挙げた。
「ようっ、一途名。久しぶりだな」
高校の時と全く変わらない、気さくで堂々とした言い方。
「青田も、久しぶり……!」
久々に青田と言葉を交わせたことが嬉しくて、私は少しだけ照れくさく笑った。
「お前、全然変わってないな」
「そっちこそ。青田は今、プロ野球選手なんでしょ? 昔からの夢叶えて、本当にすごいね!」
私は、心からの尊敬と純粋な称賛を込めて彼に言った。
あの時、必死に泥だらけになって白球を追いかけていた彼が、本当に夢を叶えたことがただただ嬉しかったのだ。
しかし。
私のその言葉を聞いた瞬間、青田の顔からスッと笑顔が消えた。
「……まあ……一応な」
「一応??」
私は不思議に思って小首を傾げた。一応ってなんだろう?
青田が口をつぐみ、気まずそうに視線を泳がせる。その暗く沈んだ空気を変えたくて、私は慌てて話題を探した。
「で、でも、テレビで見たことあるよ!」
「……え? 」
「入団会見?ってやつ! 今年の冬に、新しく入る選手が監督を囲んでやってた会見で、青田のことも見たよ!」
私がそう言うと、青田は少しホッとしたような、でもどこか情けなさを隠すような、悲しそうな顔をした。
「あ……それね」
やっぱり、おかしい。青田がなんだか、すごくしんどそうだ。
高校の時のような、あの太陽みたいな無邪気な元気がない。
私は、昔彼が私にしてくれたように、勇気を振り絞って真っ直ぐに踏み込んでみることにした。
「……青田。なんかあった? ちょっと、無理してない?」
私が下から覗き込むようにして問いかけると、青田はハッとしたように目を見開いた。
彼は視線をあちこちに彷徨わせた。言いたくないプライドと、誰かにこの不安を吐き出したい弱音とが、彼の顔の中でせめぎ合っているのがわかった。
やがて、彼は小さく息を吐き出し、ポツリと口を開いた。
「……実は俺、プロの世界には行けたけど。まだずっと2軍で……1軍の試合には、一回も立ててないんだ」
あんなに自信に満ち溢れていた青田から、こんなに弱々しく、自信のなさそうな声を聞いたのは初めてだった。
「……そうなんだ」
高校や大学でどれだけチヤホヤされても、プロの世界は次元が違うのだろう。才能と努力を兼ね備えた選ばれし者たちしか生き残れない、厳しい世界。
青田は今、人生で初めての『挫折』の壁にぶつかっているんだ。
「まあ、地道に頑張るしかないけどな……」
青田は無理やり口角を上げ、ヘラッと笑ってみせた。
その空っぽの作り笑いを見た瞬間、私の胸の奥がギュッと苦しくなった。悲しくて、放っておけなくて、どうしてもこの人を支えてあげたいと強く思った。
気がつけば、私の口は自然と動いていた。
「だっ、大丈夫だよ!! 青田なら絶対、1軍になれるから!」
私は両手でギュッと拳を握りしめ、彼の目を真っ直ぐに見つめて必死に言った。
いきなり大声を出した私を見て、青田はビクッと肩を震わせて驚いた。
「えっ!? なんだよ、いきなり。びっくりするわ」
「だって、だって! あんなにずっと、誰よりも必死に頑張ってきてたじゃん! だから、絶対に諦めない青田なら、絶対1軍に上がれるよ!」
私の脳裏には、過去の彼の姿が鮮明に浮かんでいた。
みんなが絶対取れないと諦めるような打球を、歯を食いしばって泥だらけになりながらボールを取りに行く姿。どんなに点差が開いていても、決して手を抜くことなく、最後まで全力でバットを振り抜く姿。
私は、彼の誰よりもひたむきな努力を知っている。
だからこそ、私は本気で彼を信じているし、そのことを今の彼にどうしても伝えたかった。
私の必死な形相を呆然と見つめていた青田は、やがて何かを心に秘めるように、キュッと口元を引き締めた。
「……ふっ。そうだな! 俺なら、絶対いけるよな!」
彼に、あの時の『太陽のような笑顔』が戻った。
無理をしていた顔から、憑き物が落ちたようなスッキリとした青田の笑顔を見られて、私は胸の奥がじわぁっと温かくなるのを感じた。
「う、うん! ずっと応援してる!」
「おう! ありがとな!」
よかった。青田が少し元気になってくれたみたいで。
それに、なんだか高校時代よりも、彼とほんの少しだけ距離が縮まった気がして、ひどく嬉しかった。
そのまま一緒に会場を後にして、私たちは別々の帰路に就くため、駅の前で立ち止まった。
これでサヨナラをしてしまったら、また元の関係に戻ってしまう。
私はどうしても彼のことを近くで応援し続けたくて、早鐘を打つ心臓を抑えながら、思い切って声をかけた。
「ねぇ、青田。また、その……」
いざとなると、恥ずかしくて言葉が詰まってしまう。
「ん? なに?」
「えっと、その……また、2軍の試合とか、練習の時に……私が差し入れとか持っていっても、迷惑じゃないかな……?」
プロ野球選手になった彼に、いきなり素人の私が会いに行ったら困るだろうか。そう思って恐る恐る上目遣いで聞いてみる。
すると、青田はポンッ、と大きな手で私の肩を軽く叩き、呆れたように笑って言った。
「ばーか。そんなの、迷惑なわけないだろっ!」
街灯に照らされた彼の笑顔は、やっぱり、私にとって世界で一番眩しいものだった。
この夜の出来事がきっかけで。
止まっていた私の初恋の時間が、再び音を立てて動き出し、私と青田の距離は少しずつ、けれど確実に縮まっていくのだった。




