11章 初恋の人 ①
三月も、もう終わりに差し掛かろうとしていた。
仕事が終わり、夕食を済ませてお風呂に入ろうとしていた私は、リビングのダイニングテーブルに裏返して置いていたスマホを手に取り、表に向けた。
(……まだ、返事きてないなぁ)
朝、キノから『おはよう』とLINEが来ていて、私はすぐに『おはよう!仕事頑張ってね!』と返信していた。
しかし、20時を過ぎた今でも、彼からの返事はまだ来ていなかった。
初めてキノのタワーマンションに泊まった、あの朝。
別れ際、彼は私の拳を握りしめ、「これから2、3ヶ月、繁忙期に入ってなかなか時間を作るのが厳しくなる」と言っていた。
確かに、彼の毎日は本当に忙しそうだった。
おはようという連絡が早朝に来ることもあれば、仕事が終わったという連絡が日を跨いで深夜0時を回っていることも多い。
当然、あのお泊まりの日から、私は一度も彼と会えていなかった。
先日、サラさんとテーマパークへ遊びに行った時、彼女がこっそりと教えてくれたのだ。
「シュースケは、ウチの事務所でもトップクラスの期待の人材なんダヨ。だから、抱えてる案件の数も難易度も桁違いナンダー」と。
そりゃあ、忙しいに決まっている。私がここで寂しがって彼の邪魔をしてはいけない。ひたすら応援しなきゃと、心でグッと自分に言い聞かせる。
(でも……やっぱり会えないのは、ちょっと寂しいな)
ほんの少しだけ、心がキュッと締め付けられる。
しかし、そんな時にいつも思い出すのは、あの朝、彼が言ってくれた言葉だった。
『絶対、何としてでも時間作るように頑張るから』
私を引き留めて言ってくれたあの言葉には、真っ直ぐで嘘のない重みを感じた。決して、その場凌ぎの軽々しい言葉などではない。
現に、どんなに激務で疲れているはずの日でも、キノは必ず1日に1回以上はLINEを返してくれている。
それに、3〜5日に1回くらいのペースで、「声が聞きたくなったから」と短い電話をくれることもあるのだ。
その時の彼の声は、なぜか私を安心させるように、どこまでも甘くて優しい。
激務の中でも誠実に向き合い、私を大切にしてくれているのが痛いほど伝わってくるから、私も不安にならずに待っていられるのだ。
(……それに比べて、今まではどうだっただろう?)
ふと、過去の自分の恋愛を思い返そうとした、その時だった。
ソファでテレビを見ていたお父さんが、ピッとチャンネルを変えた。画面が切り替わり、私の目に飛び込んできた映像に、思わず動きが止まる。
『青田選手ーっ! 見事な勝ち越しのヒット!!! これで通算安打、見事1500本目です!』
画面の中には、歓声に包まれながら一塁ベース上で力強くガッツポーズをする、青田の姿が映っていた。
青田 啓司。
間違いなく、彼は私の『初恋の人』だった。
————————
あれは、高校1年生の時。入学してから2ヶ月くらい経った、GW明けの時期だったと思う。
放課後、私が所属している園芸部の活動に向かおうと、階段を降りていた時のことだ。
踊り場のところで、男子生徒が二人、コソコソと話している声が聞こえてきた。
見覚えがある。
同じクラスの、キノが仲良くしている男友達のグループにたまに混ざっている二人だ。
私はなぜか嫌な予感がして、咄嗟に壁の影に身を隠し、息を潜めた。
「なぁ、知ってた? 一途名さんって、木下くんの幼馴染なんだぜ」
「えっ、マジで? そうなの?」
(……私とキノのこと?)
その言葉を聞いて、ふと中学生の時の苦い記憶がフラッシュバックした。
中学生になったばかりの頃、小学生の時と同じように無邪気にキノと仲良くしていた私。
その時、クラスの女子たちに陰で言われたのだ。『なんであんな地味な子が? 全然釣り合ってないよね』と。
それがショックで、それ以来、私はキノに迷惑をかけないように、みんなの目がある学校の中では、彼とあまり親しく話さないように避けていたはずなのに。
「そうだよ! たまに一途名さんが木下くんのこと『キノ』って呼んでるところ聞くし、木下くんも『光』って下の名前で呼んでるじゃん」
「あー、確かに! そう言われてみたら、幼馴染っぽい距離感かも!」
一人の男子が、コクコクと納得したように首を動かしている。
「それでさ、俺、見ちゃって!」
「え? 何を?」
(何を……?)
私も心臓をドキリとさせながら耳をすませた。
「この前、木下くんが一途名さんがプランター運んでるのを手伝っててさ!」
それは、この前の園芸部の活動日だ。花を育てるためのプランターが必要で、みんなが来る前に少しでも準備をしておこうと私が一人で運んでいた時。たまたま通りかかったキノが、それを見て無言で手伝ってくれたのだ。
「なんか、二人ともすげー楽しそうにしてたんだよなー」
「……それがどうしたんだよ?」
「いやいや、どう考えても二人、全然釣り合ってないでしょ!」
男子生徒の声が、少しだけ大きくなった。
「木下くんは学校一のイケメンで、成績も学年トップ! おまけに女子にもモテモテ! そんな完璧な彼に、あんな目立たない、いかにも『モブキャラ』みたいな地味な女と一緒にいて欲しくないわけ!」
その言葉を聞いて、私はその場に足が縫い付けられたように固まった。
私みたいな、モブキャラの女と……一緒にいてほしくない。
「ヒャハハ、お前ひどっ!」
「だってさぁ、あんな地味な子と仲良くしてたら、俺らの株も下がるじゃん! 俺ら、木下くん、そして一途名さんって並び、なんか違うだろ!」
「まあ、確かに(笑)」
「だったらさ、木下くんも、一途名さんの友達の山田さんと仲良くしてくれたらいいのにって思うわけ! まあ、山田さんみたいな超絶美女が、一途名さんみたいなモブ女と友達やってるのも、正直意味わかんないけどな!」
(みよちゃんと……?)
私は、みよちゃんと友達でいることすら、許されないの?
これ以上、彼らの酷い言葉を聞いていたくなかった。
私は足音を殺してその場を立ち去り、遠回りになるルートから、逃げるように校舎の外へと飛び出した。
人気のない、グラウンドの隅にある水道場。
私はそこに辿り着くと、膝から崩れ落ちるようにしゃがみ込んだ。
なんだか、胸の奥がひどく気持ち悪い。
キノはあんなにいつも優しくて、私が困っていたらすぐに気づいて手を差し伸べてくれる。私はただ、キノのお母さんの病気のこともあるから、彼がそばにいてあげたいだけなのに……。
彼に迷惑をかけないように、学校では距離を置いているのに。
そして、みよちゃん。
あんなに可愛い子が、いつも引っ込み思案な私の横にいてくれて、明るく引っ張ってくれているのに。
その二人のそばに、私はいたらダメなの?
私は、キノの幼馴染を辞めないといけないの?
みよちゃんの友達を、辞めないといけないの?
私が地味で、モブキャラみたいで……二人に『釣り合わない』から?
「っ……」
視界が歪み、ポロポロと涙がこぼれそうになる。
私が唇を噛み締め、膝の上でギュッと両手を握りしめた、その時だった。
「何、しけたツラしてんだよっ」
パッ。
不意に上から降ってきた声に、私は弾かれたように顔を上げた。
そこには、野球部の大きなエナメルバッグを肩に担いだ、一人の男子生徒が立っていた。
青田 啓司くん。
キノと仲良くしている、同じクラスの明るくていつも笑っている野球部の男の子。詳しくは知らないけれど、小さい頃から野球をやっていて、地元ではかなり有名な選手らしい。
「えっ……し、しけてないっ」
私は泣いていることを悟られないように、咄嗟に嘘をついて顔を背けた。
「はぁ? 半泣きのくせに、しけてないわけないだろ」
青田は『何言ってんだこいつ』という顔をして、私を覗き込んできた。
「しけてないもん!」
私はムキになって立ち上がり、彼に反抗した。
「なんだ、元気あるじゃん!」
私が立ち上がると、彼はニカッと、ひまわりのような持ち前の明るい笑顔を見せた。
なんだろう。その裏表のないカラッとした笑顔を見た瞬間、不思議と心が少しだけ軽くなるのを感じた。
「お前、一途名だろ?」
青田はそう言うと、私の横の水道場の蛇口を捻り、5リットルくらい入りそうな巨大な水筒にジャージャーと水を入れ始めた。
「……そうです。一応、クラスメイトです」
そういえば、青田とまともに話すのはこれが初めてかもしれない。
「なんで敬語なんだよ。クラスメイトなのはちゃんと知ってるわ! 秀介の幼馴染だもんな!」
この人は、何も知らないくせに。私が今、一番落ち込んでいた原因の言葉を、あっけらかんとした笑顔で言ってみせた。
その言葉を聞いて、一度は引っ込んだはずの涙が、再びうっと込み上げてきそうになる。
「はぁ?! なんでまた泣きそうになってんだよ!?」
青田はギョッとしたように、単刀直入に聞いてきた。
こんなに相手の事情を気にせず、ズバズバと踏み込んでくる人、初めてだ。
でも……だったら、私も本音を言ってもいいのかな。
「だって……私、キノの幼馴染なの、良くないのかなって……」
私はギュッと拳を握りしめ、ぽつりと言った。
すると彼は、色黒の肌に白い白目を際立たせて、大きく目を見開いた。
「はぁ?! なんで、幼馴染が良くないんだよ!? 意味わかんねぇ!」
「だって……キノと私、全然釣り合ってないって言われたから。キノはカッコよくて、勉強もできて、みんなの憧れで。一方で、私はただの目立たない『モブ女』だし……一緒にいたら、キノの迷惑になるから……」
全部、話してしまった。
勢いもあったかもしれないけれど、この人にはなぜか、変に気を使うことなく素直に本音を言えてしまう気がしたのだ。
すると。
バシャッ!!
「冷たっ!」
顔に突然冷たい水がかかり、私は咄嗟に閉じていた目を開けた。
どうやら青田が、蛇口の水を少し手にすくって、私の顔にピチャッと掛けたらしい。
「バーカ! 何、しょうもないことでウジウジ悩んでんだ!」
青田は、怒ったような、でもどこか呆れたような顔で私を真っ直ぐに指差した。
「お前が勝手に自分のことどう思おうが、周りのやつらがどう陰口叩こうが! お前と秀介が『幼馴染』なのは、一生変わんねー事実だろ!!」
「……っ!」
「大体、お前は自分に自信がなさすぎなんだよ! あの秀介が『幼馴染』だって言ってくれてんだから、もっと胸張って自信持てよ!」
真っ直ぐに、豪速球で投げ込まれるような言葉。
言い方自体は少し乱暴でキツかったけれど。彼のその言葉を聞いた瞬間、心に重くのしかかっていた分厚い雲が、スッと晴れていくのを感じた。
「……ありがとう」
私は泣きそうだった顔を両手でゴシゴシと拭い、少しだけ笑って言った。
すると彼は、「おう!」と満足げに笑い、パッ、と自分の持っていた未開封のペットボトルを、私の腕の中へ見事なコントロールで投げ渡してきた。
「えっ?」
受け取ったペットボトルを見ると、それはスポーツドリンクだった。
「ほら! それ飲んで元気出せ!」
満面の、太陽みたいな笑顔。
これが、私と青田との初めてのやり取りだった。
そしてきっと、私が『青田 啓司』という真っ直ぐな少年に、明確な恋心を抱き始めた瞬間だったのかもしれない。




