10章 呪縛 〜秀介目線〜
カタカタカタ……。
静まり返ったオフィスに、自分のタイピングの音だけが虚しく響く。
俺は作業していたノートPCを閉じ、デスクからゆっくりと立ち上がった。
今から、フリーアナウンサーである山田みよりの面会予約が入っている。
(テレビ出演の契約書類の確認、だったか……)
数日前、山田さんから事務所に連絡があり、「自分が不利になるような条件になっていないか、契約書を見てほしい」という依頼があった。フリーアナウンサーや芸能関係のクライアントなら、ごく普通にある仕事だ。
だが、問題は対応の方法だ。
このような定型の契約書確認なら、通常はリモートやメールで完結させることが多い。機密性が高い内容でもなかったため、俺は彼女に「メールで契約書を送るように」と伝えた。
しかし、彼女はあれこれと理由をつけ、どうしても直接の面会を希望してきたのだ。
この絶望的な繁忙期に、対面での細々とした対応などたまったものではない。
だが、相手は一応クライアントだ。無下に拒絶することもできない。
(だったら、一切の隙を与えず最速で対応するしかない)
俺はそう心に言い聞かせ、彼女を迎えにレセプションエリアへと向かった。
山田みよりが、ただの仕事の依頼でわざわざ足を運んでくるはずがない。
絶対に何か、裏に考えがあって来ているはずだ。
実は、俺は自分に向けられる感情には酷く鈍感で疎いのだが、彼女が俺に好意を持っていることだけは、昔から気づいていた。
初めて彼女の「本性」を見たのは、中学三年の春だったか。
用事があって最寄りの駅へ向かっていた時、たまたま前を歩く光と、見知らぬ華奢な女子生徒の後ろ姿を見かけた。
俺は何も考えずに「光」と声をかけた。
その時、光に「同じ塾の友達の山田さん」と軽く紹介されたのだ。
俺は急いでいたため、その場ですぐに別れた。
去り際、当時の俺は無意識に光に手を振り、光も笑顔で振り返してくれた。
幼馴染としては、ごく当たり前の日常の光景だ。
だが、俺はあの時、光の横に立っていた山田みよりの顔を一生忘れない。
彼女は、俺と手を振り合う光を横目で見つめながら、ひどく醜い、嫉妬心を剥き出しにした表情をしていたのだ。
その瞬間から、俺は山田みよりを警戒するようになった。
彼女はきっと俺に好意を持っていて、自分より俺に近い距離にいる光を激しく妬んでいる。もし俺が光を特別扱いすれば、彼女はその嫉妬の牙を、絶対に光へ向けるだろう。
だから俺は、高校の三年間、彼女に光への気持ちを悟られないよう、徹底的に「ただの幼馴染」を演じ切った。
結果として、他の女子から告白されることはあったが、彼女たちも、そして山田さんも、俺が光に特別な好意をもっていることには気づいていないはずだった。光自身も、標的にされることなく平穏な高校生活を送れていた。
今となっては、俺と光が二人揃って、山田さんの前に姿を現すような接点はないはずだ。
だが、この不自然な面会依頼に、俺は得体の知れない違和感を覚えていた。
レセプションエリアに繋がる重厚な扉のドアノブを握る。
「マタ来タノカ!? シュースケハ、アポ無イト会エナイッテ言ッタヨネ?!!」
扉の向こうから、サラの声が聞こえた。機嫌が悪い時の声だ。
あいつは嫌な相手に対しては露骨に態度に出る。山田さんが既に来ているのが分かった。
俺はゆっくりとドアノブを押し下げた。
「山田さん。お待ちしておりました」
ドアを開けると、サラが驚いたように振り返った。
「シュースケ!? ナンデ!?」
「あぁ、事前にアポイントが入っていたんだ。あと、社内ではちゃんと敬語を使えって何回言ったら分かるんだ」
「……チッ、大変申し訳ございませんでシタ」
相手が相手なだけに、サラは微塵も反省していないだろう。
俺はサラが不満げにオフィスへ戻っていくのを確認してから、山田みよりを依頼人用の応接室へと案内した。
「では、ご案内します」
「はーい♡ よろしくお願いしまぁす」
甲高い声。上目遣いで俺を見つめてくる瞳。
だが、その仮面の奥に潜む影を、俺は高校時代から嫌というほど知っている。
俺は一瞬で目を逸らし、完璧なビジネスライクに徹して彼女と対峙した。
応接室に着き、俺は依頼された契約書の確認を、一切の抜け目なく一瞬で終わらせた。
これ以上、彼女に時間をかけるのは危険だ。少しでも隙を見せれば、遠回しに光のことを探られる気がしたからだ。
「では、特に他にご対応事項がなければ、本日はこれで終了となります」
バインダーを閉じ、早々に面会終了を告げると、彼女は呆然とした顔をした。
絶対に、彼女の目的はこれだけじゃない。これ以上何かを確認しようとしている。
だから、俺は間髪入れずに席を立ち上がった。これ以上、この女と同じ空気を吸っていたくなかった。
「……特になければ、以上とさせていただきます」
俺が部屋を出ようとした、その時だった。
立ち上がった俺のスーツの袖を、彼女が強く握って引き留めた。
「ねぇ、秀介くん。……光と付き合ってるんでしょ?」
その言葉が、俺の背中に突き刺さった。
心臓が嫌な音を立てて跳ねる。
(やられた。単刀直入に聞いてくるとは……!)
俺の動揺を狙っているのか?
常に冷静沈着な弁護士としての仮面が、光のこととなるとどうしても剥がれ落ちそうになる。
俺はすぐに冷静を装い、ポーカーフェイスを作り、振り返って鋭く彼女を睨みつけた。
「……仕事の席で、プライベートなことを持ち出すのは不適切だということくらい、フリーアナウンサーの貴女ならご存知ですよね?」
俺は冷たい声で拒絶した。
俺の光への気持ちが特別であることを、絶対に悟られてはいけない。
だが、彼女は引き下がらない。
「じゃあ、付き合ってるってことなの? 幼馴染が感動の再会で、めでたしめでたし、みたいな?」
彼女の口から吐き出される、毒を含んだ言葉。
俺は気づいた。彼女はひどく焦っている。そして時折、抑えきれない苛立ちを見せている。
この女は、俺と光が「ただの幼馴染ではない」ことに気づいているのか?
だとしたら、どうやって?
光が話したのか? いや、あの優しい光が、過去の山田みよりの感情を知りながら、わざわざそんなことを言うはずがない。
じゃあ、この女は何を企んでいる?
俺は掴まれていた腕を容赦なく振り払い、彼女を冷たく見下ろした。
「……彼女とは、幼馴染のままだよ」
今はまだ、だ。だが、この執念深い女に、絶対に光を標的にさせるわけにはいかない。
光にこの女の牙が届かないようにしなければ。
俺は冷徹な視線を彼女に向け、応接室のドアノブに手を掛けた。
すると。
「待って!!」
バンッ!! と、彼女がテーブルを両手で強く叩く音が響いた。
「私、知ってるよ。秀介くんが光のこと、ずっと好きなの」
「…………っ」
ドアノブを握ろうとした俺の手が、空中でピタリと止まった。
頭の中が、真っ白になる。
(……なぜ、この女がそれを知っている?)
俺は高校卒業まで、完璧に「ただの幼馴染」として振る舞い続けてきたはずだ。
彼女に悟られないように。標的にされないように。
それなのに……なぜ、この女は知っているんだ?
背中が、かつてないほどの激しい動揺に粟立っていた。
もう、隠しきれていない。指先が微かに震える。
……やられた。
ただカマをかけられているだけかもしれないのに、俺は完全に反応してしまった。
「でもね。光はこう言ってたよ」
背後から、勝利を確信したような、残酷な声が続く。
「『完璧な幼馴染とは、絶対に釣り合わない』って」
「…………」
息が、止まった。
ドアノブに掛けた手が、目に見えて震えるのを止められなかった。
――釣り合わない。
それは、俺が最も恐れていた、光自身が抱える深い深い劣等感。
記憶がフラッシュバックする。
中学に入学した直後の帰り道。
俺と並んで歩いていた光が、ふと立ち止まり、悲しそうにうつむいて言ったのだ。
『今日、クラスの子に言われたんだ。私と……シュウくんが幼馴染なのおかしいって。全然、釣り合わないって……』
俺はそんなくだらない陰口、どうでもよかった。気にするなと、いつも通り笑い飛ばしたかった。
だが、その日からだ。彼女が学校で、俺と小学生の時にみたいに、親しく話すことを避けるようになったのは。
そして――物心ついた頃からずっと俺のことを親しげに『シュウくん』と呼んでいた彼女が、『キノ』と呼ぶようになったのも、あの時が境だった。
あの頃の俺は、まだ彼女への特別な感情に無自覚で、「お互い年頃だしな」と軽く考えていた。
だが、山田さんの言葉でハッキリと気づかされた。
再会してからの光が、時折見せる怯えたような不安な顔。
俺の無駄に高級なマンションに連れて行った時の、あの縮こまった背中。
あれはきっと、「自分が俺と釣り合わない」という呪縛に囚われているからだ。
そして、この女は、そこを正確に突き刺してきたのだ。
彼女の言葉は、嘘じゃない。光なら、絶対にそう言う。
俺がどんなに彼女を大切に想っていても。どんなに彼女を愛していても。
彼女自身が「俺とは釣り合わない」と心を閉ざしているなら。俺が身勝手にこの重い想いを伝えることは、彼女のその劣等感をさらに刺激し、彼女を苦しめ、追い詰めるだけだ。
俺は、反論する言葉を一つも紡ぐことができなかった。
愛するがゆえに、身動きが取れない。
振り返ることすらできず、俺はスッとドアノブを押し下げた。
「……では、失礼いたします」
一度も彼女と目を合わせることなく、俺は逃げるように応接室から出た。
パタン、と重たいドアが閉まる。
俺は真っ直ぐに自分のオフィスへと戻るため、廊下を足早に歩いた。
(……っ)
歯を食いしばる。
あの女の放った言葉が、じわじわと全身に回っていくのを感じる。
この繁忙期を乗り越えたら、やっと、19年分の思いを彼女に伝えられると覚悟を決めたばかりだったのに。
光を守りたかっただけなのに、俺の空回りが、一番最悪な形で彼女の弱点を暴かれてしまった。
光の心の奥底に深く根付いた「釣り合わない」という冷たい呪縛を前に、俺はどうやって彼女に手を差し伸べればいいというのだろう。
呼び方を変えられてしまったあの日から、俺たちは目に見えない壁に阻まれている。
自分の不甲斐なさに絶望しながら、俺の足元に、決して外れることのない、重く冷たい足枷が嵌められた瞬間だった。




