10章 嫉妬 ②
チンッ――。
都心にそびえ立つ超高層ビル。その高層階に、エレベーターが滑らかに到着を告げる無機質な音を響かせた。
私はゆっくりと、ハイヒールの音を響かせて一歩を踏み出した。
向かう先は、秀介くんが働く法律事務所。
そう、私の『最愛の人』――秀介くんに会うために。
エントランスを抜け、お客様用のレセプションエリアへと進むと、運悪くあの目障りな女が立っていた。
秀介くんの事務所で弁護士見習いとして働いているという、あの生意気な従姉妹のサラだ。
私の顔を見るなり、彼女はあからさまに不機嫌そうに顔を歪めた。
「また来たのカ!? シュースケは、アポ無ない会えないって言ったよネ?!!」
キャンキャンと吠えるような、品のない声。
(そういうと思ったわよ。バカね、私が同じ失敗を繰り返すわけないでしょ?)
私が鼻で笑い飛ばそうとした、その時だった。
ガチャ、とオフィスへと繋がる重厚な扉が開いた。
「山田さん。お待ちしておりました」
そこに現れたのは、相変わらず息を呑むほど完璧で、圧倒的な美しさを放つ秀介くんだった。
スーツに身を包み、私に向けられる視線はどこまでも『お客様対応』の冷たさを帯びている。それでも、どうしようもなく惹きつけられてしまう。
「シュースケ!? ナンデ!?」
サラが驚いて秀介くんに問いかける。
「あぁ、事前にアポイントが入っていたんだ。あと、社内ではちゃんと敬語を使えって何回言ったら分かるんだ」
「……チッ、大変申し訳ございませんでシタ」
窘められたサラは、反省の欠片も見せない適当な会釈をして、オフィスの方へと戻っていった。
私はその背中を横目で見送りながら、心の中で思い切り嘲笑した。
(この私が、どれだけ入念に『会う口実』を作ったと思ってるのよ)
とはいえ、秀介くんの鉄壁の対応も流石だった。
私の依頼に対して、『お時間も取らせませんので、お電話やメールでの対応も可能です』と、適当にあしらっている感を出さずに、なんとか対面を避けようとしていたのだから。
でも、そんなの私には通用しない。
「では、ご案内します」
秀介くんは、サラが去ったのを確認してから、私を依頼人用の応接室へと案内した。
「はーい♡ よろしくお願いしまぁす」
私は、テレビの画面越しに見せる以上の『思いっきり可愛い笑顔』を彼に向けた。
だが、裏腹に私の胸の奥では、どす黒い炎がメラメラと燃え盛っている。
(絶対に、貴方とあの冴えない女を引き裂く『何か』は残さないと)
通された応接室。彼は私を上座のソファに座らせると、彼は黒いバインダーを開きながら真正面に座った。
「……本日のご依頼は、テレビ番組の出演契約書の確認ですね」
「はぁい♡ 私に不利な条件になってないか、プロの秀介くんにしっかり確認して欲しくてぇ……」
私は少し身を乗り出し、甘ったるい声で上目遣いに彼を見つめた。
視線は合う。しかし、彼は一瞬で、何の感情も乗せないままスッと目を逸らした。
「契約書はご持参されていますか?」
「はぁい♡ お持ちしてます〜。情報漏洩防止のために、どうしても直接のお渡しにしたくて。ごめんなさぁい」
私はわざとらしく言い訳を添えて、持参した契約書を差し出した。
実際は、このレベルの契約確認なら、正直直接会ってやり取りする必要はない。
それでも、どうしても彼に直接会って、あの『テーマパークの写真』の真意を探りたかったのだ。
秀介くんは契約書を受け取ると、ペラペラと紙を捲り、信じられないほどの速さで目を通し始めた。
高校の時も思っていたけれど、この人の文章を読むスピードは異様に速い。そして、ただ速いだけではない。
「……概ね問題ありません。一点気になるとしたら、出演料の支払い条件についてですね」
「支払い?」
あんな一瞬で読んだのに、ちゃんとおかしいところを見抜くなんて。
「ええ。ここに『出演料は番組放送終了後、乙(先方)の定める時期に支払う』とあります」
秀介くんは、契約書の一文を長く美しい指で示した。
「それじゃダメなんですかぁ?」
「少し曖昧ですね。これでは先方の都合で、支払いがいつになるのか分かりませんから。なので、支払期限を具体的に入れてもらうよう修正を提案します。例えば、『収録日の翌月末まで』といった形です」
「なるほどぉ。そこまで細かく決めるものなんですね」
わかりやすく、的確なアドバイス。
そりゃ、仕事も出来るわけだ。本当に完璧...
「はい。後から認識の相違が出ないように、リスクは潰しておいたほうがいいでしょう」
「さすが秀介くん、頼りになりまぁす♡」
「いえ。では、こちらで修正案を作成して、先方に確認していただくよう手配します」
そう言うと、秀介くんはあっさりとバインダーを閉じてしまった。
「では、特に他にご対応事項がなければ、本日はこれで終了となります」
「えっ……」
私は、呆然と彼を見つめた。
無駄がなさすぎる。完璧で、隙がなくて、一瞬で用件が終わってしまった。
待って、これだけで終わったら、今日わざわざ足を運んだ意味がないじゃない!
(何か……何か彼を引き止める方法は……!)
私は頭をフル回転させた。だが、こういう契約関係のめんどくさいことは、いつも都合のいい人たちに任せてきたせいで、気の利いた口実が全く思い浮かばない。
私は、グッと秀介くんの目を見た。
このまま大人しく帰したら、私がいない少しの間に、秀介くんとあの地味で目障りなクソ女との関係が、決定的に進んでしまうかもしれない。
それだけは、なんとしても阻止しなければ……!
「……特になければ、以上とさせていただきます」
彼が、冷徹に席を立ち上がろうとする。
私は反射的に手を伸ばし、彼のスーツの袖を強く掴んでいた。
この人に遠回しな駆け引きをしても、きっと理論武装でうまく躱されてしまう。高校生の時から、それだけは分かっている。
だからもう、単刀直入に切り込むしかない。
「ねぇ、秀介くん。……光と付き合ってるんでしょ?」
私の言葉が落ちた瞬間。
秀介くんの切れ長の瞳の奥に、明らかな『動揺』が走った。
(……やっぱり!)
私はその僅かな隙を絶対に見逃さなかった。
常に冷静沈着な完璧な彼を揺さぶれる唯一の弱点。それは絶対に、『光』だ。
だが、彼はすぐに冷たいポーカーフェイスの仮面を被り直した。
「……仕事の席で、プライベートなことを持ち出すのは不適切だということくらい、フリーアナウンサーの貴女ならご存知ですよね?」
ド正論。けれど、それはまるで「その領域には触れるな」と威嚇しているような、ひどく冷たい拒絶の声だった。
「じゃあ、付き合ってるってことなの? 幼馴染が感動の再会で、めでたしめでたし、みたいな?」
私の口から、抑えきれない嫉妬と憎悪の棘がこぼれ落ちる。
あのテーマパークの幸せそうな写真。あんなに蕩けるような顔をして。ねえ、付き合ってるの? もしそうなら……絶対にぶち壊してやる。
秀介くんは、掴まれていた私の手を無言で振り払い、ゆっくりと立ち上がった。
「……彼女とは、幼馴染のままだよ」
この解答だけでは、2人の関係がどこまで進んでいるかが読み取れない。
でも、大切な大切な何かを、私から守ろうとしてるようにも見える。
だって、見下ろしてくる彼の眼差しは、私を敵に見るような、氷のように鋭く恐ろしいものだった。
「っ……!」
「では、仕事について何もなければ、これで失礼します」
秀介くんは背を向け、応接室のドアノブに手を掛けた。
逃がさない。このまま終わらせるもんか!
バンッ!!
「待って!!」
私は、両手で思い切りテーブルを叩いた。
もう、彼に『ヤバい女』だと思われても構わない。
私は『あの卒業式の前日』から、ずっと分かっている。
そして、あの女のsnsに映ってた幸せそうな顔をしてた秀介くんをみて確信はした。
秀介くんは絶対に私のことを好きにならないし、きっと光以外の誰を好きにならないことも。
だから。
彼が絶対に手に入らないのなら、せめて、あの女から彼を引き剥がしてしまえばいい。
「私、知ってるよ。秀介くんが光のこと、ずっと好きなの」
「…………っ」
ドアノブを握ろうとした秀介くんの手が、空中でピタリと止まった。
やっぱり。その後ろ姿からは、今まで見たこともないような激しい動揺が手に取るように伝わってきた。
誰の目から見ても明らかなほど、彼は動揺している。
(秀介くん……。あなたが誰にもなびかないなら、光の方からあなたを拒絶するように仕向ければいいだけよ)
私は、立ち止まった彼の背中を見つめながら、とびきり甘くて、残酷な毒を吐き出した。
「でもね。光はこう言ってたよ」
私は一つ息を吸い、あの日、光が口にした『紛れもない本音』を、ゆっくりと、正確に伝えた。
「『完璧な幼馴染とは、絶対に釣り合わない』って」
――私は何も嘘は言っていない。
光が自分で抱え込んでいる、卑屈で惨めな劣等感。私はそれを、ただそっと、彼に教えてあげただけだ。
「…………」
ドアノブに掛けられた彼の手が、微かに、けれど確かに震えているのが見えた。
しかし、彼は振り返ることなく、スッとドアノブを押し下げた。
「……では、失礼いたします」
彼は一度も私と目を合わせることなく、静かに部屋から出て行った。
パタン、と重たいドアが閉まる。
誰もいなくなった応接室で、私は一人、ゆっくりと口角を吊り上げた。
「ふふっ……あはははっ!」
静まり返った部屋に、私の歓喜に満ちた笑い声だけが心地よく響き渡る。
秀介くんは聡明だからこそ、私が今落とした言葉の持つ『毒』の回りの早さを、誰よりも残酷に理解したはずだ。
光が心の奥底に抱えている、惨めで根深い劣等感。そして、優しい優しい秀介くんは、彼女を傷つけたくないと絶対思う。
その二つの弱点を縛り付けるには、あのたった一言だけで十分すぎるほどだった。
いい気味。
いくらお互いに惹かれ合っていようと、あの女自身が「釣り合わない」と心を閉ざしている事実を知ってしまった以上、秀介くんはもう、今までのように簡単には彼女に踏み込めなくなる。
私は、綺麗に整えられたネイルを見つめながら、これから訪れる最高の悲劇に思いを馳せた。
私の放ったあの言葉は、これから起きるアクシデントを乗り越えようとする二人の足に深く食い込み、決して外れることのない、最も重く冷たい『足枷』になるのだから――。




