2章 本音と建前 ②
父が亡くなってからしばらくして、母は俺たち3人で住んでいた都内の高級マンションを売り払った。
そして、父が投資用として購入していた、都心から少し離れた神奈川県郊外にある一戸建てに引っ越すことを決めた。
都会の空気より、少しでも緑がある場所の方が、俺の成長には良いだろうという母の考えからだった。
慣れない土地への引っ越しで、心にぽっかりと穴が空いたような日々。
だが、そんな俺に、かけがえのない出会いが訪れることになる。
引っ越しの挨拶回りで、近所の家を何軒か回っていた時のことだ。
ある家のチャイムを鳴らすと、扉の向こうから、うちの母と同じ歳くらいのお母さんが出てきた。
互いに同年代の女性ということで話が弾んだのか、母はすぐに打ち解け、とても嬉しそうにしていた。、
「そういえば、うちにも秀介くんと同じ歳の娘がいるのよ! ひかりー! お客様だからご挨拶してー!」
「えーー……お客さん??」
パタパタという足音と共に、リビングに繋がる扉の奥から出てきた女の子。
それが、光だった。
光は俺と母の顔を見ると、恥ずかしそうに頬を赤らめ、自分のお母さんの背中に隠れるようにして、そっと顔だけを出した。
「もう! 恥ずかしがらないで! ほら、自己紹介!」
お母さんに背中を押され、彼女はモジモジしながら小さな声で言った。
「……いちずな、、ひかり、、です……」
俺はこの瞬間の彼女を永遠に記憶した。
少し困ったように揺れる、くりっとした大きな瞳が、たまらなく印象的だったのを今でも覚えている。
「こんにちは〜! ひかりちゃん! 最近ご近所に引っ越してきた木下です! うちの息子と仲良くしてくれると嬉しいな〜」
母がそう言って、俺の背中をポンと叩いた。
俺は一歩前へ出ると、父に教わった通り、できるだけ馴染みやすい自然な笑顔を作った。
「初めまして、木下秀介です。よろしくお願いします」
すると、光のお母さんがパァッと顔を輝かせた。
「あらー! イケメンくんねー! 同じ小学校になるんだし、仲良くしてあげてね! ね! ひかり!」
「……よろしくね……」
光はまだ少し恥ずかしそうに、でもしっかりと俺の目を見て、小さく頷いた。
それが、俺と光の、関係の始まりだった。
引っ越しや転校といったバタバタした日々が、少し落ち着き始めた頃。
環境が変わっても、俺の頭の中からあの日の光景が消えることはなかった。
学校に行って、家に帰るだけの日々。
夜中になると、病院の一室で静かに息を引き取った父の姿と、泣き崩れる母の姿が鮮明に蘇り、息苦しさで眠れない夜が続いていた。
そんなある日。
どうしても眠れずに夜通し読んでいたこと本を、登校中の信号待ちでも読もうと手に持って歩いていた時のことだ。
「おはよー! しゅうくん!」
後ろから、明るい声が降ってきた。
振り向くと、そこには光の姿があった。
この頃には俺の母と光のお母さんがかなり仲良くなっていて、顔を合わせる機会も増えていたため、彼女はもう初対面の時のように恥ずかしがってはいない。
「……おはよう」
眠れなかったせいで、俺の声は少し掠れて、だるそうに響いた。
「なんか最近眠たそうだねー、大丈夫?」
光が心配そうに俺の顔を覗き込んでくる。
その真っ直ぐな視線が少し眩しくて、俺は目を逸らした。
「……大丈夫」
「そっか……。あれ? もしかして、こんな分厚い本読んでるの?!」
俺が持っていた本を指差して、光が目を丸くする。
「あ、うん」
「見せてみせてー! げっ! しかも全部英語だし!」
俺は、家にいる時は母の母国語である英語で話すことが多いので、英語のペーパーバックを読むのにも苦労はしなかった。
「あー……母さんが英語話せるから……」
「えーー! すごい!! これなんて書いてあるの??」
光が本の表紙を指差して、興奮したように聞いてくる。
「……『はてしない物語』」
「すごいすごい! 私のお父さんも、お母さんも、みんな分からないよ! もっと教えて!」
光は目を輝かせながら、強引に本を覗き込み、次から次へとページを開いては質問をしてきた。
その無邪気な声に引き寄せられたのか、周りを歩いていた同級生たちも「なんだなんだ」と集まってきた。
「えー! 秀介くん、英語分かるんだ! すごいね! 僕にも教えて!」
「えーずるい! 私も!」
「俺も教えてー!」
光だけじゃない。他の同級生たちまでもが、目を輝かせて俺を囲み、次々に質問を投げかけてくる。
俺の『人とは違う部分』を、奇異の目で見るのではなく、ただ純粋な好奇心と羨望の眼差しで受け入れてくれた光。
そして、その輪を広げてくれた同級生たち。
いつの間にか、俺は彼らの質問に答えながら、自然と笑顔になっていた。
父の言葉を思い出す。
『辛い記憶も、楽しい記憶がたくさんあれば、いつかそれが上書きして、かき消してくれる』
あの日以来、光のあの眩しい笑顔と、純粋に俺を慕ってくれる声が、俺の記憶の本棚に新しく記録されていった。
まだこの時は、彼女への特別な感情には気付いていなかったけれど。
光のその無邪気な優しさに救われた俺は、その日を境に、少しずつ夜眠れるようになっていった。




