2章 本音と建前 ①
俺の『シャッターアイ』という能力——
一度見たものを写真のように記憶してしまう力は、父親譲りのものだった。
34年前、俺は弁護士をしている父と、ニューヨークから大学留学で来日し、そのまま日本で就職した日系アメリカ人の母との間に生まれた。
普通、人は3歳くらいまでの記憶は大人になると忘れてしまうものだ。
しかし、俺の頭の中には、ベビーベッドで寝ている俺を覗き込んで微笑む若き日の両親の顔や、温かい母の腕の中に抱かれている記憶が、色褪せない映像としてほのかに残っている。
自分の記憶力が「普通じゃない」ことに気づいたのは、小学1年の時だった。
国語の時間。当時クラスで流行っていた本の内容について、感想を言い合う授業でのことだ。
俺は特に深い考えもなく、その本の内容を一字一句、ページ数から挿絵の位置まで完璧にコピーして、スラスラと暗唱してしまった。
最初は静まり返っていた教室が、次第にざわめきに変わった。
先生の驚愕に満ちた目。同級生たちの奇異なものを見るような視線。
そして、その中の一人が、小さな声でこう言った。
「……怖い」
その言葉と同時に、俺のもう一つの能力——人の感情を読み取る力が、周囲の空気をありありと伝えてきた。
『人間じゃないみたい』『気味が悪い』
彼らの心の声が、冷たい針のように俺に突き刺さった気がした。
その日を境に、授業でのあの場面が、1週間経っても、1ヶ月経っても、俺の脳内で寸分違わずリピート再生され続けた。
あの時の彼らの冷たい視線と、怯えたような心の声。それが何度もフラッシュバックし、妙に気持ち悪くて、息苦しさを感じていたのを覚えている。
朝、ランドセルを背負いながらも気分の悪さを隠しきれず、学校に行きたがらない俺の異変に、母はすぐに気づいた。
心配した母は、その夜、仕事から帰ってきた父に俺の様子を話したようだった。
ある休日。
いつも仕事で忙しくしている父が、珍しくリビングのソファでくつろいでいた。
その隣で静かに本を読んでいた俺に、父がふと声をかけてきた。
「秀介も、今読んでる本の内容、全部覚えてたりするのか?」
突然の問いかけに、俺はビクッと肩を揺らした。
(そうだ、と言ったらいけない気がする……)
また『怖い』と気味悪がられるのが怖くて、俺は本から目を伏せ、黙り込んだ。
すると父は、少し照れくさそうに笑いながら、こう言ったのだ。
「……実は、父さんもなんだ」
その言葉に、俺は驚いて父の顔を見上げた。驚きが半分、そして、深い安堵が半分。
父は、自分も小さい頃から見たもの全てを記憶してしまう能力があること、そして、そのせいで周りから気味悪がられ、俺と同じように悩んだ時期があったことを話してくれた。
「でもな、秀介。今はこの能力のおかげで弁護士になれて、多くの人の役に立てている。この力に感謝してるんだ」
父の大きな手が、俺の頭をポンと優しく撫でた。
「それに、お前がやけに人の気持ちを察するのが上手いのは、母さんに似たんだな。でも……母さんは人の気持ちには敏感なのに、俺の気持ちには全然気づいてくれなくて、若い頃は苦労したんだぞ」
父が冗談めかして笑うと、張り詰めていた俺の心が、少しだけふっと軽くなった。
「いいか、秀介。辛い記憶も、楽しい記憶がたくさんあれば、いつかそれが上書きして、かき消してくれる」
父は俺の目を見て、真剣なトーンで続けた。
「それに、この能力は、周りにバレないように上手く使えば、世間はただの『賢い人』としか思わない。そして何より、この力は、多くの人を救うものになるかもしれないんだ。だから、何も悩む必要はない。自信を持って、楽しい、幸せな記憶をどんどん増やしていきなさい」
父の言葉は、呪縛のようだった俺の能力を、前へ進むための特別な力へと変えてくれた。
「ちなみに……」
俺は、少しだけ好奇心に駆られて尋ねた。
「父さんの、一番幸せな記憶って何?」
父は少しも迷わずに、太陽みたいに笑って答えた。
「そんなの、大好きな母さんと結婚して、母さん似で俺に似て賢い息子がいる……今が一番幸せに決まってるだろ!」
あの時の父の笑顔と、誇らしげな言葉。
それは、俺の『シャッターアイ』が記録した中で、最も美しく、最も幸せな記憶として、今でも心の一番深い場所で輝き続けている。
そんな多忙な父ではあったが、両親と過ごした日々は、今思い出しても幸せなものだった。
しかし、その幸せは一瞬で崩れ去ることになる。
小学四年の時だった。
自分で車を運転し、クライアントの元へ向かっていた父が、不慮の交通事故に遭い、帰らぬ人となったのだ。
今でも、記憶にその光景を鮮明に焼き付けている。
病院の一室。ベッドに仰向けに寝かされ、あらゆる医療機器を体につけられたまま、静かに息を引き取った父の姿。
それにすがりつき、泣き崩れる母。
俺はただ母の手を強く握りしめ、どうしたらいいのか分からず、立ち尽くすことしかできなかった。




