1章 再会 ②
青田からの連絡があってから、1週間が経っていた。
『わかった、19時に行くね』
そう返信を送ったきり、彼からのメッセージはパタリと途絶えたままだ。
揺れる帰りの電車の中、私はぼんやりと窓に映る自分の顔を見つめていた。
(また既読スルーか……)
青田は昔から、用事がある時しか連絡をしてこないタイプだった。わかってはいるけれど、ぽつんと既読だけがついたトーク画面を見ると、胸の奥が少しだけチクリと痛む。
「たまには、たわいもないLINEとかしたいな」
付き合っていた頃、思い切ってそうお願いしたことがあった。しかし、彼は露骨に面倒くさそうな顔をした。それ以来、私は自分の気持ちを抑え込むのが癖になっていた。
彼と過ごした5年間を振り返る。
最初は、彼を支えられていることが純粋に嬉しかった。でも、気づけば彼の顔色を窺い、自分の意見を飲み込み、ただ我慢してばかりの日々だったような気がする。
(私、あんな風に雑に扱われてたのに……なんでまた期待しちゃってるんだろう)
昔の記憶を辿れば辿るほど、鉛を飲み込んだように気分が深く沈んでいった。
都内から離れた郊外の最寄駅に着き、人混みに紛れて改札を抜ける。
11月の夜の冷たい空気に触れ、私は駅のすぐそばにある自動販売機へと足を引き寄せられていた。
冷えた指先でボタンを押し、温かいココアを買う。
コロン、と缶が落ちる音が響く。
気分が落ち込んだ時、決まってココアを飲むのは、昔からの私の習慣だった。
(なんで、ココアなんだっけ……)
自販機の取り出し口から缶を取り出しながら、その理由を思い出す。
あれは小学生の時。大切に飼っていたハムスターが死んでしまって、私はどうしようもない悲しみに暮れ、泣きはらしていた。
そんな時、無言で温かいココアを差し出してくれた男の子がいた。
当時、近隣に住んでいた幼馴染の『木下秀介』だった。
「キノ」と呼んでいた彼がくれたそのココアを一口飲んだ時、こわばっていた心が少しだけ、じんわりと解けていくのを感じたのだ。
(そういえば、キノ……元気にしてるかな)
アメリカへ渡ったきり、すっかり疎遠になってしまった彼の姿が、ふと脳裏をよぎる。
ココアの缶を手に取り、自販機の前から歩き出そうとした、その時だった。
「あっ……」
手がかじかんでいたせいか、指先から滑り落ちた缶が、カランカランと乾いた音を立ててアスファルトを転がっていく。
慌てて追いかけようとした視線の先で、ちょうど停車したタクシーのドアが開いた。
降りてきた男性が手にしていたキャリーケースの車輪に、転がっていったココアの缶がコツンと当たって止まる。
「あ、すみません……!」
私が駆け寄るより早く、その男性は身を屈めてココアの缶を拾い上げた。
自販機の淡い明かりに照らされたその人は、長身で、仕立ての良さそうなスーツを完璧に着こなしていた。
黒髪のセンターパートが、大人びた雰囲気を醸し出している。
そして何より、すれ違う女性が思わず振り返るほど、芸能人以上に整った顔立ちをしていた。
その男性は、手にしたココアの缶と私の顔を交互に見比べ、ハッとしたように目を見開いた。
そして、あの頃と変わらない、どこか優しげな声で私の名前を呼んだのだ。
「……光?」
19年ぶりの、その声。
転がったココア缶を拾ってくれた、近隣の幼馴染。
木下 秀介が、そこに立っていた。
「……キノ?!」
信じられない思いで、私は思わず彼の名前を叫んでいた。
目の前にいる彼は、私が記憶している「キノ」の面影を残しつつも、まるで別人のように洗練されていた。
元から端正な顔立ちをしていて、学生の頃は女子の憧れの的だった彼。
けれど、16年ぶりに再会した彼は、大人の余裕と色気を纏い、スーツを完璧に着こなしている。街ゆく女性が思わず二度見してしまうのも納得の、息を呑むような美しさだった。
「うん、久しぶり。元気にしてた?」
彼は、昔と変わらない優しげな声で微笑んだ。
「う、うん……! 元気だよ。でも、キノこそ……。高校卒業してすぐ、アメリカ行っちゃったから、どうしてるかなって思ってた。なんでここにいるの? 今もアメリカで弁護士やってるんじゃなかったの?」
驚きのあまり、私は矢継ぎ早に質問してしまう。
高校卒業後、彼がアメリカの大学に進学することは決まっていたけれど、まさかこんな所で再会するなんて思いもしなかった。
「そうだったんだけどね。実は、転勤で都内のオフィスで働くことになったんだ。会社の近くのマンションに住む予定なんだけど、まだ手配が間に合ってなくて……。とりあえず、こっちの家から一旦は通おうと思って」
「そうだったんだ……! びっくりした!キノと、こんな風にまた会えるなんて思ってなかったから……」
ドクン、ドクンと心臓が少し早く打ち始めているのがわかる。
幼馴染とはいえ、あまりにも洗練された大人の男性に変貌を遂げた彼を前にして、私は少しだけ緊張してしまっていた。
私たちは、自然な流れで駅からの帰路を並んで歩き始めた。
彼の歩幅は大きく、私に合わせて少しゆっくり歩いてくれているのがわかる。
「そういえば、ミサおばさん……お母さんの病気は良くなったの?」
歩きながら、私はずっと気になっていたことを尋ねた。
中学3年の時、シングルマザーだったミサおばさんが倒れた。キノのお父さんは小学4年の時に亡くなっていたから、彼はたった一人で、「お母さんもいなくなってしまうかもしれない」という絶望と戦っていた。
あの頃、私と、ミサおばさんと仲の良かった母たち家族で、必死に彼を支えようと付き添った記憶が蘇る。彼が高校卒業後にアメリカへ行ったのも、最新医療を受けられる環境でお母さんの病気を完治させるためだった。
「うん、おかげさまで。病気はすっかり完治して、向こうで元気にやってるよ」
「良かったー! うちのお母さんも、ずっと心配してたんだから」
安堵の溜息を漏らすと、キノは少しだけ足を止め、夜の街灯に照らされた真剣な眼差しで私を見た。
「ありがと。あの時は本当に……光と光の家族がいてくれて、助かったよ。あの時のことは、今でも感謝してる」
「いえいえ! そんな、お互い様だよ。ご近所さんだったんだから」
照れ隠しに笑って手を振ると、彼もまた、ふっと柔らかな笑みを浮かべた。
なんだか、昔に戻ったみたいだ。
「そういえば、光は最近どう?」
「最近? うーん、私は普通だよ。都内で派遣の事務員として働いてる。都内に住むお金なんてないから、ずっと実家に頼りっぱなしだけどね」
自嘲気味に笑いながらそう答えると、キノは少しだけ困ったような、気遣うような顔をした。
「そっか……何か辛いことでもあったんじゃないかって思って」
彼の言葉に、私はドキリとした。
(なんで……わかるの?)
昔から、キノは私の些細な感情の変化に敏感だった。
青田からの既読スルーに落ち込んでいた心を見透かされたようで、私は言葉を詰まらせた。
自嘲気味に笑いながらそう答えると、キノは少しだけ困ったような、気遣うような顔をした。
冬の冷たい空気に、私たちの間に静かな沈黙が降りた。
その沈黙を破ったのは、キノの穏やかな声だった。
「そのココア、光、昔から何かあったら飲んでたよね?」
「えっ?」
自分の手元にある、まだ温かいココアの缶を見て、私はハッとした。
(なんで……そんなことまで)
小学生の頃の、ほんの些細な出来事だ。
ハムスターが死んで泣いていた私に、彼が差し出してくれたのが始まりだったけれど、それを彼自身が今でも覚えているなんて思わなかった。
青田からの連絡で落ち込んでいることを悟られたくなくて、私は慌てて言い訳をした。
「し、仕事でちょっと、ミスしただけだから!」
「そっか、大丈夫?」
「うん!大丈夫!気にしてない!てか、そんな昔のこと、よく覚えてたね!」
図星を突かれたことと、彼が私の小さな習慣を記憶してくれていたことへの驚きで、私は誤魔化すように少し声を上ずらせてしまった。
そんな私を見て、キノは夜の街灯の下でふっと優しく微笑んだ。
「覚えてるよ。ひ……」
キノの言葉が、そこでふっと途切れた。
何かを言い淀んだような、奥歯に物が挟まったような一瞬の間。
彼の綺麗な黒い瞳が、わずかに揺れたように見えた。
(……今、なんて言おうとしたんだろう)
しかし、彼はすぐにいつもの落ち着いた表情に戻り、照れ隠しのように目を細めた。
「——ほら、俺、記憶力昔からいいの知ってるだろ?」
「あ、そうだね!昔から頭良かったもんね!じゃないと、弁護士なんてなれないし!!」
ちょっとドキッとしたが、昔、キノが『一度見たものを写真のように記憶してしまう』という特殊能力を私だけに秘密を教えてくれたことを思い出し、妙に納得してしまった。
そして、二人の間に再び少しの沈黙が続く中、私の家の前に到着した。
「誰かと話してたら、家つくのあっという間だった!良ければ、お母さんとかも会いたがると思うし、また話そ!」
「そうだね、今日は夜遅いし、また改めておばさんにも挨拶したいな……」
「うん!お母さんも喜ぶと思う!だったら、また日程合わせたいし、LINE交換しよ!てか、アメリカではLINEは主流じゃなかったっけ?」
「そうだね、でも事前に調べて、今さっきアプリインストールしたよ」
キノはスマートフォンの画面を私に見せた。
「良かった!じゃあ、LINE交換しよー!」
私は咄嗟に自分のスマホの画面を開き、彼に向けた。
しかし、その画面に表示されていたのは——ちょうど、既読スルーされている青田とのトーク画面だった。
(しまった……!)
私が落ち込んでいる原因が青田とのことだとバレてしまう。
それに、このまま青田の話になれば、私は堪えきれずに泣いてしまって、再会したばかりの秀介を困らせてしまうに違いない。
「あっ、」
私は慌てて、スマホを胸に引き寄せ、トーク画面を隠した。
「あ、ごめん……見るつもりはなかったんだけど」
キノは、画面を見てしまったらしく、何か言いたげな顔をした。
私はこの気まずい空気をなんとか誤魔化そうと、必死にQRコードの画面に切り替え、再度スマホを彼に突き出した。
「全然大丈夫!QRで簡単に友達登録出来るから!」
気まずい空気が流れる中、私たちは無言で友達登録を済ませた。
「よし!これで完了!じゃあ、今日夜遅いし、また連絡するね!」
この居心地の悪い空気を早く終わらせたい一心で、私は玄関前の柵の持ち手に手を掛け、家の敷地に入ろうとした。
その瞬間。
キノの大きな手が、柵の持ち手を握る私の手に重なった。
「えっ……」
驚いて振り返ると、彼と至近距離で目が合った。
街灯に照らされた彼の瞳は、先ほどまでの穏やかさとは違う、真剣な光を帯びていた。
「……光、啓司と付き合ってるの?」
キノの言葉に、私の思考が完全に固まった。
——そうか。あのトーク画面だけ見たら、今でも彼と付き合っていると思われても仕方ない。
実際は、4年前にこっぴどく振られ、都合よく扱われた挙句、今になって突然クリスマスに呼び出されて心を乱されているだけだ。
けれど、アメリカから帰国して仕事もバタバタしているキノに、私のこんな惨めな状況を話して迷惑をかけたくない。それに……もしかしたら、これほど洗練された彼には、もう素敵な恋人がいるかもしれない。
(心配かけたくない……)
私は、咄嗟に嘘をついてしまった。
「……うん。実は、青田がプロ野球選手になったあたりから付き合ってて」
その言葉を聞いた瞬間、キノの表情が微かに揺らいだように見えた。
けれど、彼はすぐにゆっくりと私から手を離し、顔を上げて、いつも通りの優しい笑みを浮かべた。
「そっか……良かった。ずっと好きだったもんな、啓司のこと」
「うん……」
咄嗟についた嘘への罪悪感が、胸をチクチクと刺す。
「……応援してるよ、二人のこと」
秀介は静かにそう言って、穏やかな表情を崩さなかった。
(良かった、迷惑かけずに済んだ)と私は安堵した。
「……ありがとう」
「うん。また、その話も聞かせて。じゃあ、今日は遅いしまた連絡するね」
キノは片手を軽く上げ、私に柔らかな笑顔を向ける。そして、キャリーケースを引いて自宅の方角へと歩き出した。
私は玄関に入る前、もう一度だけ彼の姿を見ようと振り返った。
街灯の下を遠ざかっていくその背中は——なぜか、少しだけ寂しそうに見えた。




