9章 決意〜秀介目線②〜
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俺はリビングのダイニングテーブルに座り、ブルーライトカット用の眼鏡をかけ、気を紛らわせるようにノートパソコンを開いていた。
かすかに聞こえてくる、浴室からのシャワーの音。
同じ空間に彼女がいる。
その事実だけで理性が吹き飛びそうになるのを必死に抑え込み、モニターの文字を目で追っていると、手元のスマホが短く震え、メッセージの通知音が静かな部屋に響いた。
画面に目を落とすと、母からのメッセージだった。
『今日は楽しかったです。ありがとう。あと、自分の気持ちには素直になってね』
その一文を見た瞬間、俺は思わず目を見開き、やがて何かを噛み締めるようにスッと目を細めた。
(……母さんには、全部お見通しだったってことか)
「自分の気持ち」――それは間違いなく、俺の光に対する気持ちのことだろう。
きっと、母はずっと前から俺の思いに気づいていたのだ。
俺が中学生の時、母が倒れて絶望していた俺を、光が照らして救ってくれたあの時からずっと、俺が彼女だけを想い続けてきたことを。
そしておそらく……光の幸せを願うあまり、俺が自ら身を引き母と一緒にアメリカへ渡ったことも。
俺は、キーボードの上を走らせていた手を止めた。
本来なら、もう二度と交わるはずじゃなかった二人だ。
お互いに30代半ば。それぞれ別の相手と家庭を持っていても、何らおかしくない年齢になっている。
それが、たまたま彼女が恋愛でどん底に突き落とされていたタイミングで再会し、俺がこの手を差し伸べることができた。
(……これはきっと、単なる偶然じゃない)
19年越しの、奇跡のような必然。
この必然をモノにしないで、何のために俺はここにいるんだ?
このままズルズルと、いつ終わるかもわからない『仮の恋人』という建前だけの関係を続けていたら。
その間に、もしも彼女の魅力に気づいた他の男が現れて、彼女を奪っていってしまったら……?
想像しただけで、腹の底から焦燥感と独占欲が湧き上がってくる。
俺は、パソコンの横に置いていた右手を、爪が手のひらに食い込むほど強く、強く握りしめた。
(光との『仮』の関係は、もう終わらせよう)
建前なんていらない。
正式に俺の気持ちを伝えて、彼女を俺のものにする。
あの日、絶望の淵にいた俺を救ってくれた彼女を、今度は俺が一生かけて守り抜く。
19年間、どうしても踏み出すことができなかった一歩。
その重たい扉を開ける決意が、俺の中でついに極まった。
胸の奥で熱い気持ちを感じながら、俺は再びパソコンのモニターへと目線を戻した。
決意を固めた今、すぐにでも彼女が浴室から出てきた瞬間に抱きしめて、すべてを打ち明けたい。
だが――。
たまたま画面に開いたままになっていた、俺のスケジューラー。
そこを埋め尽くす文字を見て、俺はハッと我に返った。
ここからの2、3ヶ月間は、弁護士業界にとって一年で最大の繁忙期にあたる。
特に、大型の企業案件やクロスボーダー案件を多数抱えている俺は、この時期、集中的に仕事が立て込む。クライアントとの昼夜を問わない折衝に加え、おそらくニューヨークのカンファレンスにも飛ばなければならない時期が確実に来る。
(……ダメだ)
もし、このタイミングで俺が思いを伝えて、運良く彼女と正式に付き合えたとしても。
物理的に、彼女と会う時間が全く作れなくなる。
過去の恋愛で酷い裏切りに遭い、トラウマを抱えている彼女だ。
付き合ってすぐに放置するような真似をすれば、ただでさえ引け目を感じやすい彼女に、どれほどの不安と孤独を与えてしまうか。
そんな思いは、絶対にさせたくない。
彼女にはもう二度と、悲しい涙なんて流してほしくないのだ。
「……っ」
今すぐこの愛おしい思いをぶつけたいという衝動が、喉の奥まで込み上げてくる。
だが、タイミングは『今』じゃない。
彼女を本当に大切に思うからこそ。
俺は燃え上がりそうになる気持ちをギリギリのところで理性の檻に閉じ込め、グッと奥歯を噛み締めて堪えた。
その時だった。
ガチャ。
「お、お風呂お借りしました……!」
控えめな声と共にリビングのドアが開き、俺は振り返った。
「あっ!」
俺の顔を見た瞬間、光が驚いたように変な声を上げて立ち止まる。
彼女の視線は、俺の顔に乗っている黒縁メガネに釘付けになっていた。
「……どうしたの?」
「いや……キノがメガネかけてるの、初めて見たから」
彼女は頬を赤らめながら言った。
無理もない。俺がこのメガネをかけるのは家にいる寝る前の時間だけだ。
「ああ……寝る前だから、ブルーライトカットのメガネしてるんだ」
俺はメガネのブリッジにスッと指を添え、これ以上彼女を見るのを避けるようにパソコンをパタンと閉じた。
というのも、俺の理性がすでに危険信号を出していたからだ。
俺の紺色のパジャマを着た光。手足の裾が余っていて、俺との体格差がこれでもかと強調されている。しかも、すっぴんを隠したいのか、俺のバスタオルをすっぽりと頭に被っているその姿は、庇護欲を激しく刺激するほど可愛かった。
19年間想い続けた大好きな女が、自分の服を着て、自分の部屋にいる。その破壊力は凄まじい。
「じゃあ、俺もシャワー行ってくるね」
「あっ、うん」
俺は立ち上がり、彼女の横を通り過ぎようとした。
だが、入り口にちょこんと立つ彼女を見下ろした瞬間、どうしても触れたいという衝動を抑えきれなくなった。
(少しだけなら……)
俺は彼女の目の前で足を止め、ふっと微笑むと、タオルを被った彼女の頭をポンッと軽く叩いた。
「何、そのタオル被ってるの。……まあいいや、行ってくるね」
本当は抱きしめたい、気持ちを伝えたい衝動を、その軽いスキンシップだけでなんとか誤魔化し、俺は逃げるように脱衣所へと向かった。
***
冷めのシャワーを浴びて、必死に頭を冷やした。
風呂上がり、ラフなパジャマを着たままリビングのドアを開ける。
「…………っ」
ソファの端に座っていた光が、俺の姿を見て口をあんぐりと開けて固まった。
「……何? 何かついてる?」
俺が尋ねても、光は呆然としたまま動かない。
「さっきから、ずっと見てるから」
「い、いや……なんか、いつもと違うなって思って……」
光はしどろもどろに答える。
いつもと違う? 俺は少し濡れたままの自分の髪に手をやった。
「前髪のこと?」
「うんっ……」
光がコクコクと縦に頭を揺らす。彼女から伝わってくる動揺と、早鐘を打つような心臓の音が、やけにリアルに感じられた。
すると、光がふと視線を彷徨わせ、ポロリとこぼすように言ったのだ。
「……結構、そっちも好きかも……?」
言った直後、自分でその意味に気づいた光が、猛烈な勢いで顔を赤くして視線を逸らし、頭のタオルを深く引き下げた。
ドクンッ!!!
俺の心臓が、肋骨を突き破りそうなほど激しく跳ねた。
——そっちも、好きかも。
いつもキッチリしている俺じゃなくて、この無防備な俺を、好きだと。
「……それ、嬉しいかも」
俺の口からは、抑えきれない喜びが声になって漏れ出ていた。
これ以上立っていたら、足が崩れ落ちそうと思った俺は、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して一口飲み、なんとか動揺を隠して彼女のすぐ隣に腰を下ろした。
フワッ……。
隣に座った瞬間、光から俺と同じシャンプーの匂いが漂ってくる。
ダメだ。甘すぎる。この空間は、今の俺には刺激が強すぎる。
俺は必死に呼吸を整え、話題を変えるために母のメッセージを思い出し口を開いた。
「今日は、ありがとう。うちの家族と1日付き合ってくれて。母さんもすごく喜んでた」
「ううん、私もすごく楽しかったから全然大丈夫! むしろ、お邪魔しちゃってごめんなさい」
お邪魔な訳がない。
「大丈夫に決まってるよ。俺も久々の一日休みだったけど、すごくリフレッシュできた」
「うん、良かった……。私こそ、泊めてもらったりして、本当にありがとう」
光が膝の上で、ギュッと自分の手を握りしめる。
何かはわからないがきっと、俺のことで葛藤を抱いているのが伝わってきた。
(そんな顔、しないでくれ……俺はただ、ずっとずっと...)
気がつけば、俺の手は勝手に動いていた。
スッ……。
俺は彼女の頬に、そっと自分の手を添えていた。
「っ!」
ビクッとして顔を上げた光と、視線が絡み合う。
見つめ合う瞳。静まり返った部屋。
(ずっと...光、君だけが...)
先ほどまでの「繁忙期が終わるまでは待つ」という決意が、音を立てて崩れ去っていくのを感じた。
今すぐ、この唇を奪って、俺のものにしてしまいたい。
俺の顔が、ゆっくりと彼女に近づいていく。
光も、逃げることなく、少しだけ目を伏せるようにして俺を受け入れようとしていた。
あと数センチ。
唇が触れ合う直前——。
脳裏に、先ほど確認した絶望的なスケジュールの残像がフラッシュバックした。
ダメだ。今、この一線を越えて彼女を抱きしめてしまったら。俺の欲を満たすためだけに彼女を繋ぎ止めて、明日から彼女を放置することになってしまう。
そんな無責任なこと、絶対にできない。
俺は、ギリギリのところで理性を総動員し、彼女の頬に当てていた手の指先にキュッと力を入れた。
ぷにっ。
「イタッ!」
不意に頬をつねられ、光が思わず声を上げた。
「……ごめん。つねってほしそうな顔してたから」
俺は必死に息の根を止め、平静を装って悪戯っぽく笑ってみせた。
「えっ!? 私、そんな顔してたの!? ていうか、ちょっと痛かったし!」
光が慌ててぷうっと頬を膨らませて怒る。
俺は立ち上がり、彼女が頭に被っていたタオルをバサッと彼女の顔面に向きを変えて被せ直した。俺の、この限界ギリギリの切羽詰まった顔を、彼女に見られないように。
「さあ、夜遅いから寝よう。俺はこっちのソファで寝るから、光は奥のベッドで寝ていいよ。とりあえず、自分用の毛布取ってくる」
俺はそう言い捨てると、逃げるように足早に寝室へと向かった。
「…………っ」
寝室のドアを閉めた瞬間、俺は壁に背中を預け、大きく、大きく息を吐き出した。
(はぁ……あぶなかった)
もし、あと一瞬でも理性のブレーキが遅れていたら。
俺は確実に一線を越え、自分の欲望のままに彼女を押し倒してしまっていただろう。
荒くなった呼吸を整えながら、俺は壁越しにいる愛しい人への思いを必死に胸の奥に封じ込めていた。




