9章 決意 〜秀介目線①〜
バチバチと車体を叩きつける激しい雨の音だけが、やけに大きく響いている。
(俺の家に、光が泊まる……?)
サラの強引すぎるアシストに、俺の頭の中も完全にパニック状態だった。
『仮の恋人』という名目があるとはいえ、俺にとっては19年間思い続けた、世界で一番大切な女性だ。そんな彼女が俺のプライベートな空間に足を踏み入れるなんて、必死に保ってきた理性の防波堤が今にも決壊してしまいそうだった。
だが、それ以上に隣に座る光から伝わってくる動揺は激しかった。
彼女の表情からは、戸惑いと、何かに対する強い警戒心が読み取れる。
過去にマッチングアプリでろくでもない男に騙されかけた経験がある彼女だ。付き合ってもいない男の家に上がり込むことに、強い抵抗があるのは当然だろう。
(無理に連れて行くわけにはいかない。でも、この大雨の中で返すわけにも……)
俺がどう言葉をかけるべきか迷っていると。
光がギュッと目を瞑り、何かを決心したように、車のドアノブに手を掛けたのだ。
(まさか……この大雨の中、駅に戻るつもりか!?)
思考よりも先に、体が動いていた。
バッ!
「……待って。どこ行くつもり?」
ドアを開けようとした彼女の腕を、俺の手がガシッと掴んでいた。
自分でも驚くほど低く、少し熱を帯びた声が出てしまった。逃さないように無意識に鋭くなってしまった視線で彼女を見つめると、光がビクッと肩を跳ねさせた。
「えっと……とりあえず、駅に戻って電車待ってみようかな、って……」
光は俺の勢いに動揺しながら、なんとか言葉を絞り出した。
駅に戻る? この土砂降りの中で、いつ動くかも分からない電車を待つというのか。いや、この様子だと最悪、野宿すら覚悟している顔だ。
そんなこと、俺が許すわけがない。
俺は彼女の強張った表情をじっと見つめ、眉間に小さく皺を寄せた。
強引に引き留めて彼女を怖がらせたくはない。だが、手放すことなんて絶対にできない。俺は沸き上がる焦燥感を押し殺すように少しだけ黙り込むと、一番恐れていることを、探るような声で問いかけた。
「……俺の家、来るの嫌?」
もしここで明確に拒絶されたら、立ち直れないかもしれない。そんな不安を抱えながら見つめていると、光は驚いたように目を丸くした。
「嫌じゃないっ!……でも……」
食い気味に即答してくれたことに、胸の奥がじんわりと熱くなる。
俺の家に行くのが嫌なわけじゃない。なら、どうして?
「……でも?」
俺は彼女の腕を掴んだまま、逃げ道を塞ぐようにじっと彼女の目を覗き込んだ。
至近距離で見つめ合う。
彼女の揺れる瞳の中に、何か言い淀んでいる感情があるのはわかる。人の気持ちの機微には人並み以上に敏感なはずなのに、こと光の感情となると、いつも俺の目は曇ってしまう。
彼女は何かを言いかけて、フッと飲み込んだ。
そして、自分自身に言い聞かせるように表情を引き締めると、小さく首を横に振った。
「……ううん、なんでもないっ! お言葉に甘えちゃっても、いいかな……?」
努めて明るい声で、彼女がそう言ってくれた瞬間。
「……よかった。じゃあ、行こうか」
俺の胸につっかえていた重たいものが、ふっと憑き物が落ちたように消え去った。安堵の表情が自然と顔に浮かぶ。
俺は掴んでいた彼女の腕から、ゆっくりと手を離した。
再びハンドルを握り直す。掌には、彼女の腕の感触と、微かな温もりがまだじんと残っていた。
激しい雨を切り裂くように、俺は車を発進させた。
隣に座る彼女に悟られないよう、俺は必死にポーカーフェイスを保っていたが、心臓はこれまでにないほど激しく、狂おしい音を立てて鳴り続けていた。
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俺の運転する車は、都内の一等地にそびえ立つタワーマンションの地下駐車場へと静かに滑り込んだ。
助手席で、光が小さく息を呑むのがわかった。
彼女は車の中から見えないてっぺんを探すように上を見上げ、完全に呆然としている。
会社の総務がNYの家賃基準に合わせて勝手に手配したこの無駄に豪華なマンションを、俺は今日初めて少しだけ恨めしく思った。
彼女から伝わってくるのは、明らかな萎縮と、俺に対する圧倒的な「引け目」だったからだ。
(……俺と光の間に、こんな物理的な壁なんていらないのに)
俺は心の中でもどかしく思いながら、あえていつも通りの落ち着いた声で声をかけた。
「……光っ! ついたよ」
「あ……っ!」
ハッと我に返った光は、慌てて取り繕うように頷いた。
「あ、ごめん。ありがとう」
「じゃあ、行こうか」
エンジンを止め、車を降りて地下駐車場を並んで歩く。
***
そして、俺は緊張を隠しきれない彼女を家に招き入れた。
「とりあえず、そこのソファで座って休んでて」
「あ、はい……」
光はかしこまり、リビングの真ん中にある大きなソファにちょこんと浅く座った。その姿が、まるで借りてきた猫のようで庇護欲をそそる。
俺はアイランドキッチンに向かい、冷蔵庫からペットボトルのミネラルウォーターを取り出して、彼女の手元にそっと置いた。
「……飲んでいいよ」
「ありがと……」
彼女が水を受け取ったのを確認し、俺は「ちょっと待ってて」と言い残して、足早に寝室へと向かった。
彼女には俺のベッドを使ってもらうつもりだから、シーツを新しいものに取り急ぎ変える。
そして、寝室のクローゼットを開け、自分が使っている紺色のパジャマと、清潔なバスタオルを取り出す。
(俺の服を、光が着る……)
その事実を脳内で反芻しただけで、全身の血が沸騰しそうになる。ダメだ、冷静になれ。ただでさえ彼女は緊張しているんだ。俺が余裕をなくしてどうする。
深呼吸を一つしてリビングに戻ると、光は落ち着かない様子でキョロキョロと部屋を見渡していた。
俺は彼女の隣のソファの空いたスペースに、パジャマとバスタオルをポフッと置いた。
「あ、わざわざ、ごめん……!」
光は申し訳なさそうに身を縮こまらせて、無意識に俺に謝ってきた。ただそこにいてくれるだけで十分なのに、彼女は自分の存在に引け目を感じてしまうらしい。
「謝る必要ないよ。俺のやつだから大きいかもしれないけど、寝る時、着ていいから」
俺は彼女を安心させようとしたが、自分の声がいつもより早口で、酷く淡々としていることに気がついた。
意識すればするほど、彼女との距離感がおかしくなる。
「……ありがと」
光がそっと両手でパジャマを持ち上げる。
彼女の手が俺の服に触れた瞬間、胸の奥が激しく軋んだ。
これ以上、彼女の近くに立っていたら、理性のストッパーが外れてしまいそうだ。
俺は強引に思考を切り替え、ダイニングテーブルのノートパソコンの前に座った。
「俺、少し明日の仕事の準備あるから。先にシャワー行ってきていいよ」
あえて距離を取り、パソコンの画面に視線を向ける。
「う、うん。わかった」
光はパジャマとバスタオルを抱きしめるようにして持ち、浴室へと向かっていった。
バタン、と脱衣所のドアが閉まる音が響く。
「……はぁ」
俺は深く、重たい息を吐き出した。
同じ空間に、彼女がいる。水音が聞こえてくるかもしれないこの密室で、どこまでこの理性を保てるのか。
お互いに触れ合いそうで触れ合わない、一線を越えないギリギリの距離感が、俺の頭をますます狂わせそうだった。




