番外編 王子様と魔法使い
ここは東京都内、外資系企業がひしめき合う超高層ビル群の一角。
私は、その中でも一際敷居が高く、「選ばれたエリートしか入れない」と噂されるニューヨークに本社を置く大手外資系法律事務所で、通訳兼事務員として働いている32歳の日本人女性だ。
たまたま帰国子女で英語ができたから採用されたものの、通訳や事務員の採用ハードルは、この会社の中ではまだ低い方だ。
問題は、弁護士の先生方である。
ここで働いている弁護士は、各国の有名大学を卒業しているのが当たり前。その上、法科大学院を卒業して博士号を取り、司法試験をパスしてきた正真正銘のバケモノ……いや、天才たちばかりなのだ。
「うんうん。私には一生縁のない世界だわ」
彼らが飛び交わす専門用語だらけの英語を聞き流しながら、私はいつもそう思っていた。
そんなエリートしかいないこの東京支社に、この冬、NY本社からウワサの『ホンモノ』のやり手弁護士がやってくるらしい。
なんでも、彼は全世界にある支社の中でも有名な逸材だそうだ。超難関と言われるコロンビア大学を首席で卒業し、同ロースクールで博士号を取得。日米両方の弁護士資格を持ち、数々の大型M&Aやクロスボーダー案件を完璧にこなし、あの日本人の大スターメジャーリーガーの専属担当まで務めていたという。
そんなレジェンド級の有名人が、なんと私と二つしか年齢の変わらない、34歳の日本人男性だというのだ。
34歳でその経歴って、人生三周くらいしてないと無理じゃない!?
さーて、そのウワサの有名人が今日、この東京支社に初出勤してくる。どんなお堅い人なんだろうと、私は少しだけワクワクしていた。
朝のミーティング。マネージングパートナー(支店長)のおじさんが彼を前に呼び出した瞬間。
オフィス内に、かすかな、しかし確かな「黄色い悲鳴」が咲き誇った。
「……えっ」
私の口からも、間抜けな声が漏れた。
そこに立っていたのは、黒髪を綺麗なセンターパートに分けた、まるで少女漫画から飛び出してきたようなとんでもないイケメンだったのだ。
長いまつ毛に縁取られた、切れ長の涼しげな二重の瞳。スッと通った高い鼻筋に、形の良い唇。私より二つ年上だというのに、毛穴一つ見当たらないほど肌が綺麗だ。
おまけに身長は178センチほどありそうで、オーダーメイドスーツを完璧に着こなしている。私調べの目測では、体重は70キロ弱。細すぎず、ほどよく鍛え上げられた無駄のないスタイル。
(こんな人、現実世界に存在するんかーい!!)
私は心の中で激しいツッコミを入れていた。
「初めまして、NY本社から来た木下秀介です。まだこちらの環境に慣れないことも多く、皆さんに教えていただくことが多いと思いますが、どうぞよろしくお願いいたします」
挨拶の声まで、耳に心地よい完璧な低音ボイス!
ていうか、トップ・オブ・エリートのくせにめちゃくちゃ謙虚!
やばい、この人、本当に完璧だ……。
私はただただ口を開け、呆然と彼を見つめることしかできなかった。
かくして、キング・オブ・イケメンエリート弁護士の木下先生は、たちまち東京支社中の女性社員たちの話題の中心となった。
――しかし。彼が働き始めてしばらく経ち、彼との甘いオフィスラブストーリー♡ なんてものを妄想していた私がバカだったと気づくことになる。
だって、木下先生は……生粋の、超絶仕事人間だったからだ!
仕事が異常に早いうえに、頼まれたことはプラスアルファまで先回りして完璧に仕上げてくる。効率が良すぎるから残業なしかと思いきや、とんでもない量の仕事を自分で取ってきては、朝は誰よりも早く出社し、夜は誰よりも遅くまでオフィスに残っている。
クライアントと会っている時や、誰かと会話する時以外は、基本的にずっと眉間に深い皺を寄せ、難しい顔でPCモニターや分厚い資料と睨めっこしている。
(あちゃー。とんでもないイケメンで、とんでもないスペックなのに、完全に「仕事が恋人」タイプかぁ)
あれじゃあ、恋人もいなさそうだし、狙っている女の子たちが入る隙なんて1ミリもないだろう。
興味津々だった私も、しばらくすると「木下先生は仕事の鬼」という認識で落ち着き、彼を遠巻きに眺めるだけの事務員に戻っていた。
そんなある日。
クリスマスが終わった直後、オフィスがお正月休みに向けての最終調整で殺気立っていた時のことだ。
私は、相変わらずPCと睨めっこしている木下先生に、頼まれていた書類の束を渡しに行こうと彼のデスクに近づいた。
その時だった。
「……ふっ」
ん? 今、空耳が聞こえた?
私が歩みを緩めると、木下先生は片手にスマホを持ち、画面を見つめていた。
そして、私は信じられないものを見てしまった。
いつも氷のように冷たく、眉間に皺を寄せている木下先生が……スマホの画面を見つめながら、ふっと柔らかく、蕩けるように優しい笑顔を浮かべていたのだ!!!
(な、何だあの甘すぎる笑顔!!)
幸せそう! ていうか、破壊力高すぎ!!
私は思わず書類で自分の顔を半分隠しながら、こっそりと彼を観察し続けた。
すると彼は、手に持っていたスマホのカメラを起動し、デスクの端に置いてあった『エナジードリンク』の缶にレンズを向け、パシャリと写真を撮った。そして、数文字の短いメッセージを打ち込むと、送信ボタンを押したようだ。
それはまるで、「今からこれ飲んで、もうひと頑張りするよ」とでも報告しているような、日常的で微笑ましい光景だった。
木下先生は満足そうにスマホを伏せると、あの幸せそうな顔をスッと引き締め、再び眉間に皺を寄せてPCとの睨めっこに戻った。
私は少し間を置き、何事もなかったかのように彼のデスクに進み出た。
「木下先生、頼まれた書類です。確認をお願いします」
「あぁ、ありがとう」
「いえ」
「……確認したら、チャットで伝える」
「はい、よろしくお願いします」
カタカタカタカタカタカタ……。
凄まじいスピードでキーボードを叩く音だけが響く。声のトーンも、表情も、いつも通りの無愛想で冷徹な木下先生だ。(まあ、そんなドSなところも好き♡ というおかしな女性社員もいるのだけれど)。
私は自分のデスクに戻り、PCを開いて通常業務に戻った。
しばらくすると、社内チャットの通知音が「ピコン」と鳴った。
画面の右下に、木下先生からのメッセージがポップアップする。
「あっ」
そこには、
『確認しました。ありがとう(グッドマーク)』
という、見慣れない絵文字付きのメッセージが表示されていたのだ。
いつもなら『問題ありませんでした。』『確認済。』など、句点すらないぶっきらぼうな返事しか来ないというのに!
「ふふっ……」
私は思わず、モニターを見つめながらニヤニヤと笑ってしまった。
あの、木下先生のスマホの向こう側にいる『誰か』さん。
近づきがたいあの完璧な氷の王子様の機嫌を、こんなにも分かりやすく変えることができる、世界で唯一の魔法使い。
相手がどんな人なのかは全くわからないけれど。
あの幸せそうなイケメンの笑顔をもっと見たいから、私はこれからも、木下先生と見知らぬ『誰か』との関係を、こっそりと陰ながら応援しようと思うのだった。




