9章 両片思い ④
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遠慮はしたけれど、結局私は、彼がいつも使っている寝室の大きなベッドの上で仰向けになり、高い天井を見つめていた。
なに、このふわふわのベッド。
体が雲に包み込まれるような極上の寝心地のはずなのに、実家のあの硬くて狭いベッドの方が逆に落ち着いて寝やすいほどだ。
ガチャ、パチッ。
奥の部屋から、照明のスイッチを消す音が聞こえた。
あ、キノ、そろそろ寝るのかな……。
悪いことしたなぁ。明日から月曜日で、また息つく暇もない激務が始まるというのに、家主をリビングのソファに追いやる形で寝かせてしまうなんて。
私は申し訳なさに包まれながら、静かに目を瞑った。
しかし……。
あれからおそらく1時間くらいは経っただろうか。時計を見ると、夜中の3時に差し掛かろうとしていた。
夢の国であんなに歩き回って疲れているはずなのに。明日から私も仕事があるというのに。
——全然、寝られない!!!
きっと、今日一日の夢みたいな出来事の連続に、心が全く追いついていないのだ。
ふと、喉の渇きを覚えた。
そういえば、キノからもらったミネラルウォーターは、リビングのソファの前のテーブルに置いたままだ。
私はそっと、足音を立てないようにベッドから抜け出した。
寝室のドアを静かに開け、薄暗いリビングへと向かう。
テーブルの上のミネラルウォーターに手を伸ばした、その時だった。
「……」
見てはいけないような気がしたけれど、私の視線は自然と、手前の大きなソファへと引き寄せられてしまった。
暗くてはっきりとは見えないが、そこには毛布に包まり、横を向いて静かな寝息を立てているキノの姿があった。
(この人……いびきすらかかないのか……)
彼が完全に熟睡していることをいいことに、私は音を殺して近づき、彼の顔が間近で見える位置にそっとしゃがみ込んだ。
静かで、穏やかな寝顔。
本当に長いまつ毛。私の二倍くらいあるんじゃないだろうか。それに、どうしてこんなに肌が綺麗なんだろう。毛穴もないし、ニキビなんて出来たこともないような滑らかさ。スッと通った高い鼻筋。
本当に、綺麗な人だなぁ……。
まるで美しい彫刻を眺めているような気持ちで彼を見つめていると、ふと、昼間にカフェで聞いたミサおばさんの言葉が脳裏に蘇ってきた。
『早く誰かと結婚して、子供作って……』
そう。キノは、絶対に幸せにならなきゃいけない人だ。それは揺るぎない事実。
ミサおばさんは冗談めかして「光ちゃんはどう?」なんて聞いてきたけれど。
今日、彼が住むこの要塞のようなマンションを見て、改めて思い知らされた。
私と彼とでは、住む世界が違いすぎる。私は到底、キノには釣り合わない。
でも……。
これまでのキノとの思い出が、胸の奥から次々と溢れ出してきた。
16年ぶりに再会した夜の、驚きと安堵。
クリスマスに一人で惨めに泣いていた私を、必死に探して抱きしめてくれたあの腕の力強さ。
びっくりしたけれど、私を元気づけるために提案してくれた「仮の恋人」。
お台場の夜景。私のために選んでくれた、淡いピンク色のマフラー。
夢の国で、照れながら買ってくれたウサギの被り物。
パレードの光の中で感じた、彼の上着の温もり。
そして、先ほどの……唇と唇が触れそうになった、あの息が止まるような甘い瞬間。
『光...』
私の名前を呼ぶキノの姿が思い浮かぶ...。
今日一日を彼と過ごしたおかげで、私、やっと自分の本当の気持ちに気づけました。
私にとって、キノはもう「ただの幼馴染」なんかじゃない。
かけがえのない、大切な人。
私、キノのことが好きなんだ。
好きだからこそ、彼には絶対に一番幸せになってほしい。
本当は、彼を独占したい。ずっと彼の隣にいて、あの不器用な優しさを私だけのものにしたい。
これから先の未来で、彼が誰を隣に選ぶにしても。
もしそれが、私じゃない、この洗練された部屋に似合うような素敵な女性だったとしても。
その時は、張り裂けそうになる胸の痛みをぐっと堪えて、心からの笑顔で彼の幸せを応援してあげよう。
それが、どうしようもなく惨めだった私に、こんなにもたくさんの温かい光をくれた彼への、私ができるたった一つの恩返しだから。
(……でも。)
『秀介もきっと、ずっと、そう思ってるから』
ミサおばさんがくれた、あの優しい魔法みたいな言葉。
それに少しだけ甘えて……この『仮の恋人』のままで、あともう少しだけ、彼の隣にいる未来に期待してもいいよね?
視界が歪み、ポツリと、床に温かい雫が落ちた。
私はそう心に誓い、静かに目を閉じているキノに向かって、そっと口を開いた。
「……いつも、ありがとう」
消え入りそうな小さな声で呟いた言葉は、窓を叩く雨音に溶けて消えた。
私は、涙をそっと指で拭うと、彼を起こさないように立ち上がり、一人きりの寝室へと戻っていった。
***
あの後、あれだけ色々な考えを巡らせていたというのに、私は自分でも驚くほど、彼の大きなベッドでぐっすりと深く眠ってしまった。
翌朝は、まるで嵐のように慌ただしく過ぎていった。
身支度を整え、急いでマンションを出た私を、キノはわざわざ私の会社の近くまで車で送ってくれたのだ。
「慌ただしくさせてごめん。いつもより家を出るの、早くなっちゃったよな」
雨上がりの渋滞に巻き込まれながら、キノはハンドルを片手に申し訳なさそうに言った。
「ううん、全然大丈夫! キノだって朝から大事なミーティングがあるのに、送ってくれて本当にありがとう」
私は助手席で、膝の上のカバンを両手でしっかりと抱え直した。
窓の外には、見慣れたオフィス街の景色が近づいてきている。もう少しで会社に着いてしまう。離れ難いけれど、そろそろ外に出る準備をしなくちゃ。
車がビルの近くに停まり、私が「じゃあね」とシートベルトを外して外へ体を向けようとした、その時だった。
「待って」
キノの低く落ち着いた声に引き留められ、私はピタリと動きを止めた。
「?」
振り返ると、キノが真剣な瞳で私を真っ直ぐに見つめていた。
「今から2、3ヶ月……仕事が繁忙期に入って、なかなか会う時間を作るのが厳しくなるかもしれない」
「えっ……」
キノの思いがけない言葉に、胸の奥がキュッと音を立てて萎んだ。
これからしばらく、彼に会えなくなる?
せっかく、昨日あんなに素敵な時間を過ごして、自分の本当の気持ちに気づけたばかりなのに。
悲しさが込み上げてきそうになったけれど、私は必死にそれに蓋をした。
仕方ない。彼は、優秀で多忙な弁護士なのだ。私みたいな暇な派遣社員とは、背負っているものが全く違う。
(大丈夫。寂しいなんて言ったら、迷惑になっちゃう)
私は不安を堪えるように、膝の上のカバンの上で、無意識に両手の拳をギュッと強く握りしめた。
スッ……。
すると、私のその固く握られた拳の上に、キノの大きくて温かい手が優しく重ねられた。
「あっ……」
触れ合った肌から、彼の体温が直に伝わってくる。一気に自分の体温まで上がっていくのがわかった。
「でも、絶対……何としてでも、時間を作るように頑張るから」
「え……」
驚いて顔を上げると、キノは私を強く見つめ、まるで自分自身に誓いを立てるように、覚悟を決めたような声で言った。
どうして、そんな必死な顔をするの?
どうしてそこまでして、私が不安にならないように、優しく不器用な言葉を紡いでくれるんだろう。
『光ちゃんは光ちゃんでいいのよ。秀介もきっと、ずっと、そう思ってるから』
ミサおばさんの言葉が、再び脳裏をよぎる。
私、ほんの少しだけなら……この温もりに、期待してもいいのかな。
「……うん、ありがとう。次会えるの、楽しみにしてるね」
気がつけば、私の口からは自然と、心からの笑顔と素直な言葉が溢れていた。
すると、張り詰めていたキノの口元がふっと緩み、切れ長の瞳がどこまでも優しく細められた。
「じゃあね。仕事、頑張って」
「うんっ、キノも気をつけてね!」
私は満たされた気持ちで車から降り、雨上がりの澄んだ空の下へと走り去っていく彼の黒い車を、いつまでも見送っていた。
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この時の私は、まだ何も知りもしなかった。
ほんの少しだけ期待してしまったこの幸せな距離が、残酷な悪意によって無惨に引き裂かれようとしていることを。
この日を境に、私が深い波乱の渦に巻き込まれ、あんなにも温かかった彼との関係に、自ら終止符を打つ日が来るなんて——。




