9章 両片思い ③
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明日も仕事があるキノを少しでも早く休ませるために、私はまるでカラスの行水のように手早くシャワーを終わらせた。
浴室も洗面台も、まるで高級ホテルみたいにピカピカだ。
(キノは一体、いつ掃除をしているんだろう……?)
そんなことを考えながら、貸してもらった紺色のパジャマに袖を通す。ウエストは悔しいくらいにピッタリだったけれど、手足の裾はやっぱり長くて、彼との確かな体格差を実感して胸が鳴る。
濡れた髪をドライヤーで急いで乾かしながら、私は鏡に映るすっぴんの自分を見た。
顔の造りは学生時代から変わっていないとはいえ、開いた毛穴やうっすらと浮かぶシミ、目の下のクマがどうしても気になってしまう。
(年相応すぎる……いや、他の34歳の人より老けてるかも……)
私は咄嗟に洗面台に置いたメイクポーチを開け、コンシーラーとすっぴんパウダーを取り出してポンポンと肌に滑らせた。
お肌には良くないけれど、今日は非常事態だ。こんな疲れた顔、完璧すぎる彼の前では絶対に晒せない。
「よしっ、戻ろう」
私はすっぴん(偽)の恥ずかしさを誤魔化すように、キノに貸してもらったふかふかのバスタオルをすっぽりと頭に被って、恐る恐るリビングへのドアを開けた。
ガチャ。
「お、お風呂お借りしました……!」
ダイニングテーブルでパソコンに向かっていたキノが、私の声に振り返った。
「あっ!」
私は驚きのあまり、変な声を上げて立ち止まってしまった。
振り返った彼の顔には、今まで一度も見たことのない『黒縁メガネ』が乗っていたのだ。
(えっ……ていうか、この人、メガネも似合うのか!!)
イケメンだから当然といえば当然なのだが、知的な雰囲気が増し増しになったその破壊力たるや、凄まじい。
「……どうしたの?」
「いや……キノがメガネかけてるの、初めて見たから」
これも、私の知らない彼のプライベートな姿。
「ああ……寝る前だから、ブルーライトカットのメガネしてるんだ」
キノはメガネのブリッジにスッと指を添えて言った。
なるほど、確かに寝る前のブルーライトは目に良くない。彼はそのままノートパソコンをパタンと閉じ、椅子から立ち上がった。
「じゃあ、俺もシャワー行ってくるね」
「あっ、うん」
私が部屋の入り口に立ったままコクコクと頷くと、キノは私の横を通り過ぎる……と思いきや、私の目の前でピタリと足を止めた。
「???」
不思議に思って見上げると、彼は少しだけ表情を崩し、ふっと優しく微笑んだ。
そして、大きな手が伸びてきて、私が頭に被っていたタオル越しに、ポンッと軽く頭を叩いた。
「何、そのタオル被ってるの。……まあいいや、行ってくるね」
それだけ言って、キノはリビングのドアを開けて出て行った。
残された私は、心臓を押さえてその場にしゃがみ込みそうになった。
(うん……メガネ姿、カッコ良すぎて鼻血出るかと思った……。顔が近いとますますヤバい!)
私はそのまま大きなソファにダイブしたい衝動をグッと堪え、タオルをすっぽりと被ったまま、ちょこんとソファの端に座り込んだ。
しばらくすると、リビングの奥から微かにドライヤーの音が聞こえてきた。
もうすぐ、キノが戻ってくる。
自分の心臓の音がうるさい。別に何があるわけでもないのに! このまま寝るだけなのに!
一人で脳内暴走を繰り広げていると、ガチャ、とリビングのドアが開いた。
「…………っ」
現れたキノの姿を見て、私は今度こそ口をあんぐりと開けてしまった。
普段、隙のないスーツ姿や、綺麗めでシンプルな私服が多い彼が、今はラフなパジャマを着ている。
そして何より——。
いつもキッチリとセットされている前髪が、まだ少し濡れたまま額にハラリと掛かっていたのだ(メガネは外している)。
その無防備な姿は、普段の大人っぽくて落ち着いた雰囲気の彼を、驚くほど幼く、そして色っぽく見せていた。
「……(呆然)」
「……何? 何かついてる?」
キノの一言で、私はハッと我に返った。
「さっきから、ずっと見てるから」
「い、いや……なんか、いつもと違うなって思って……」
私がしどろもどろに答えると、キノは自分の少し濡れた髪に手をやった。
「前髪のこと?」
「うんっ……」
私はコクコクと縦に頭を揺らした。いつもと違う無防備なキノに、心臓が早鐘を打つ。
そして、私は口が滑るように、ポロリと本音をこぼしてしまった。
「……結構、そっちも好きかも……?」
(はっ!!)
自分で言ってからその意味に気付き、私は猛烈に顔が熱くなった。慌てて視線を逸らし、頭に被っていたタオルをギュッと深く引き下げる。
タオルを被っていて本当によかった。今の私は、完全に茹でダコだ。
私が縮こまっていると、キノは一瞬ピタリと動きを止め、やがてフワッと甘く口角を上げた。
「……それ、嬉しいかも」
彼の声は、どこか弾んでいるように聞こえた。
そしてキノは冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、一口飲むと、私のすぐ隣に腰を下ろした。
フワッ……。
お風呂上がりの、シャンプーと彼の体温が混ざったような甘くて清潔な匂いが漂ってくる。
な、何だこの甘い雰囲気は……。クラクラして倒れそうだ。
私がタオルの中で必死に呼吸を整えていると、キノが静かに口を開いた。
「今日は、ありがとう。うちの家族と1日付き合ってくれて。母さんもすごく喜んでた」
「ううん、私もすごく楽しかったから全然大丈夫! むしろ、お邪魔しちゃってごめんなさい」
「大丈夫に決まってるよ。俺も久々の一日休みだったけど、すごくリフレッシュできた」
キノの力にちょっとでもなれたことが、純粋に嬉しかった。
「うん、良かった……。私こそ、泊めてもらったりして、本当にありがとう」
私は膝の上で、ギュッと自分の手を握りしめた。
本当に、本当に、今日はキノのいろんなところを知れて嬉しかった。家族に向ける優しい表情、一緒にパレードを見たロマンチックな時間、そして今隣にいる、普段は絶対に見せないプライベートな姿。
もし『仮の恋人』なんていう関係じゃなかったら、きっと一生知ることはなかった。
(でも、こんなに優しくされて……本当にこの関係を続けていいのかな?)
私が再び自己嫌悪と葛藤の渦に沈みかけた、その時だった。
スッ……。
キノの少しひんやりとした手が、私の頬にそっと触れた。
「っ!」
ビクッとして顔を上げると、濡れた前髪の隙間から、彼の長いまつ毛に縁取られた切れ長の瞳が、熱を帯びた視線で私をじっと見つめていた。
(なに、この雰囲気……)
今までにもこういう甘い空気を味わったことはあったけれど、あの軽薄な男たちとは全然違う。息が詰まるほど大切にされているような、甘くて、深くて、逃げ場のない重力を持った雰囲気。
彼の顔が、ゆっくりと近づいてくる。
このまま目を閉じたら、流されてしまいそう……。
そう思った、次の瞬間だった。
ぷにっ。
「イタッ!」
不意に頬に痛みが走り、私は思わず声を上げた。
キノが頬に当てていた手を少しだけずらして、私の頬を軽くつねったのだ。
「……ごめん。つねってほしそうな顔してたから」
「えっ!? 私、そんな顔してたの!? ていうか、ちょっと痛かったし!」
私が慌ててぷうっと頬を膨らませて怒ると、キノはフフッと悪戯っぽく笑った。
彼は立ち上がると、私が頭に被っていたタオルをバサッと私の顔面に向きを変えて被せ直した。
「さあ、夜遅いから寝よう。俺はこっちのソファで寝るから、光は奥のベッドで寝ていいよ。とりあえず、自分用の毛布取ってくる」
キノはそう言うと、足早に寝室へと消えていった。
「…………っ」
私は顔に被せられたタオルの下で、大きく、大きく息を吐き出した。
(はぁ……よかった)
もし、最後に彼が頬をつねって空気を変えてくれなかったら。
きっと私は、自分の理性も、彼との関係も、全部壊してしまうところだった。




