9章 両片思い ②
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キノの運転する車は、都内の一等地にそびえ立つ、あるタワーマンションの地下駐車場へと静かに滑り込んだ。
(ひっ……! このマンション、何階建てなの!?)
車の中から上を見上げても、てっぺんが霞んで見えない。
私の住む世界では、絶対にあり得ない場所だ。こんな要塞みたいなマンション、一体どれだけ稼いだら住めるというのだろう。
うちの会社で一番稼いでいるトップ営業マンでも、部長クラスでも、きっと足元にも及ばない。ましてや、プロ野球のスター選手として成功した青田でさえも、全く敵わないだろう。
(私とキノの差は、歴然だ……)
わかっていたはずなのに、物理的な『差』を目の当たりにして、私は呆然と頭を真っ白にしていた。
「……光っ! ついたよ」
「あ……っ!」
キノの落ち着いた声で、ハッと我に返る。
あぶないあぶない。彼と私が圧倒的に違う人間だなんて、ずっと前から知っていたことじゃないか。
「あ、ごめん。ありがとう」
「じゃあ、行こうか」
そう言ってキノは車のエンジンを止めた。
車から降りて、広すぎる地下駐車場を二人で並んで歩く。
「あと、ごめん……! コンビニで色々買いたくて。この辺、近くにないかな?」
私はどうにか冷静さを取り戻し、脳内で今夜必要なものをリストアップしながら尋ねた。
「うん、建物内にあるから案内するよ」
キノはさらりと、当然のように答えた。
(ほへぇー……建物内にコンビニがあるんだ……)
私の実家なんて、一番近いコンビニに行くのにも歩いて10分はかかるのに。そういえば、車で入る前にチラッと見えたけれど、このマンションは下層階がそのまま商業施設になっているらしかった。
私はガチガチに緊張して変な歩き方になりながら、キノにエスコートされて建物内のコンビニへと向かった。
そこで下着や最低限のスキンケア用品を(もちろん自分のお金で)カゴに入れ、お会計を済ませてから、いよいよ彼の住む居住エリアへと足を踏み入れた。
ホテルのような高級感が溢れるエントランス。
そこには、コンシェルジュらしき制服を着た人が立っていた。私がチラッとその人を見てしまって目が合うと、
「お帰りなさいませ、木下様」
コンシェルジュは、洗練された所作で深く一礼した。
「ただいま」
キノは軽く会釈を返し、慣れた足取りでエスカレーターホールへと向かう。私はまるで迷い込んだ小動物のように、パタパタと彼の広い背中についていった。
高層階専用のエレベーターに乗り、耳がツンとするような上昇の後に扉が開く。
足音が吸い込まれるようなふかふかの絨毯が敷かれた、薄暗くて高級感溢れる内廊下を進む。
やがて、一つの扉の前でキノが立ち止まった。鍵を取り出す素振りも見せなかったのに、ピッと電子音が鳴って自動でロックが解除される。
「ほら、入って」
キノは振り返り、私を玄関に招き入れた。
「お、お邪魔します……!」
私は、自分の日常からは完全にかけ離れた非現実的な世界に足を踏み入れ、半分混乱した頭のまま靴を脱いだ。
用意されたスリッパを履き、白を基調とした大理石の廊下を歩く。キノは私を真っ直ぐにリビングへと案内した。
パッ、とリビングの照明がつく。
「わぁ……っ!」
私は思わず息を呑み、その場に立ちすくんだ。
一面のガラス張りになったリビングの大きな窓の向こうに、オレンジ色に光る東京タワーと、宝石箱をひっくり返したような大都会の夜景が広がっていたのだ。
綺麗……。こんな部屋、テレビのドラマでしか見たことがない。本当にこんな場所で生活している人がいるんだ。
私が感動で口を開けたまま固まっていると、上着を脱いだキノが優しく声をかけてきた。
「とりあえず、そこのソファで座って休んでて」
「あ、はい……」
私はかしこまり、リビングの真ん中に置かれた、自分がすっぽり沈み込んでしまいそうなほど大きくてふかふかのソファにちょこんと座った。
キノはアイランドキッチンに向かうと、冷蔵庫からペットボトルのミネラルウォーターを取り出し、私の手元にそっと置いてくれた。
「……飲んでいいよ」
「ありがと……」
私が水を受け取ると、キノは「ちょっと待ってて」と言い残し、颯爽と別の部屋(おそらく寝室だろう)へと消えていった。
一人になった私は、落ち着かない気持ちでキノの部屋を見渡した。
広々としたアイランドキッチンには、生活感を感じさせるものが何も置かれていない。
リビングにあるのは、私が座っているこの大きなソファと、低いガラスのテーブル。そして、壁に掛けられた巨大な薄型テレビだけ。
奥のダイニングテーブルには、仕事で使っているのであろう分厚くて難しそうな洋書が二冊と、銀色のノートパソコンが開かれたまま置いてあった。
驚くほど、シンプルで整然とした部屋だ。
(まあ、仕事で忙しいキノは、中々家にいることも少ないだろうし……これだけで十分なのかもしれないな)
そんなことを考えていると、キノが戻ってきた。
彼は私の隣のソファの空いたスペースに、綺麗に畳まれた紺色のパジャマと、ふかふかのバスタオルをポフッと置いた。
「あ、わざわざ、ごめん……!」
ソファに座っているだけで何もできない自分がひどく場違いで申し訳なく思えて、私は目の前に立つ彼に無意識に謝ってしまった。
「謝る必要ないよ。俺のやつだから大きいかもしれないけど、寝る時、着ていいから」
彼の口調は、いつもより少しだけ早口で、淡々としていた。
(あれ、もしかして……突然転がり込んじゃって、迷惑だったかな。仕事も忙しいのに……)
私がそんな風に不安になっていることなど知る由もないのか、キノの表情はいつものポーカーフェイスで読み取れない。
「……ありがと」
私はソファに置かれたタオルとパジャマを、そっと両手で持ち上げた。
その瞬間。
生地の奥から、キノのあの爽やかで少し甘い香水の匂いが、ほのかに鼻腔をくすぐった。
「っ……」
それだけで、胸の奥がギュッと締め付けられるように鳴る。
これは、キノの服。彼が普段着ているものを、私が身につけるんだ。
そう認識した途端、顔が一気に熱を持つのを感じた。
「俺、少し明日の仕事の準備あるから。先にシャワー行ってきていいよ」
キノはそう言うと、浴室の場所やタオルの場所を簡潔に説明し、私から少し距離を置くようにしてダイニングテーブルのパソコンの前に座った。
「う、うん。わかった」
私は、キノから渡されたパジャマとバスタオル、そしてコンビニの袋を抱きしめるように持ち、逃げるように浴室へと向かった。
同じ空間にいるだけで、空気がピンと張り詰めているような、甘くて苦しい緊張感。
お互いに触れ合いそうで触れ合わない、一線を越えないギリギリの距離感が、私をますます狂わせそうだった。




