9章 両片思い ①
サラさんが、この嵐のような土砂降りの雨と同じくらいの勢いで車から飛び出していってから。
残された車内には、重たい沈黙が降りていた。
バチバチと車体を叩きつける激しい雨の音だけが、やけに大きく響いている。
(ど、どうしよう……! 私、キノの家に泊まっちゃうの!?)
頭の中はパニック状態だった。
待って、すっぴんとかどうするの!?……いや、今日は念のために化粧ポーチを一式詰め込んできているから、最悪なんとかなる。下着やスキンケア系のものだって、途中のコンビニで買えば最低限のものは揃うはずだ。
物理的な問題はクリアできる。でも……!
いくら『仮の恋人』という名目があるとはいえ、本当に付き合っているわけでもない女が、ノコノコと独身男性の家に上がり込むなんて絶対に良くない!
過去にマッチングアプリで出会った男に騙されかけたり、雑に扱われたりしたトラウマが脳裏をよぎる。
もちろん、誠実なキノをあんな最低な連中と一緒にしてはいけないのはわかっているけれど!
(ごめんね、キノ!)
いや、本当の理由は別にある。
これ以上、彼のプライベートな領域に踏み込んで、彼のことをもっと知ってしまったら。この不思議で心地よい『仮の関係』はおろか、昔からの『幼馴染』という大切な関係まで、跡形もなく壊れてしまうような気がしたのだ。
それが、たまらなく怖かった。
私はギュッと目を瞑り、最悪、駅の構内で野宿することを決心した。
そして、逃げるように車のドアノブに手を掛け、開けようとした、その瞬間。
バッ!
「……待って。どこ行くつもり?」
ドアを開けようとした私の腕を、キノの大きな手がガシッと掴んだ。
薄暗い車内。彼の切れ長の瞳が、獲物を逃さないような鋭い眼差しで私を射抜いていて、思わずビクッと肩が跳ねる。
「えっと……とりあえず、駅に戻って電車待ってみようかな、って……」
私は彼の低くて少し熱を帯びた声に動揺しながら、なんとか言葉を絞り出した。
するとキノは、私の強張った表情をじっと見つめ、眉間に小さく皺を寄せた。彼は何かを押し殺すように少しだけ黙り込むと、やがて探るような声で問いかけてきた。
「……俺の家、来るの嫌?」
「嫌じゃないっ!...でも...」
予想もしなかったストレートな質問に、私は自分でも驚くほどの食い気味で即答してしまった。
彼の家に行くのが嫌なわけない。むしろ……。
「……でも?」
キノは私の腕を掴んだまま、逃げ道を塞ぐようにじっと私の目を覗き込んできた。
彼の顔が近い。ほのかに香る爽やかな香水の匂いと、前髪から覗く美しい瞳に、心臓が爆発しそうになる。
——でも、これ以上あなたに惹かれて、今の関係が壊れちゃうのが怖い。
喉の奥まで出かかった本音は、絶対に言えなかった。
そんなことを言えば、ただ同情してくれているだけの彼を困らせてしまう。
だから、私は自分自身に強く言い聞かせた。
大丈夫。キノとは何もない。だって私たちは、ただの幼馴染だ。今日は非常事態で、ただ同じ屋根の下で雨風を凌いで寝るだけ。それ以上でも、それ以下でもない!
「……ううん、なんでもないっ! お言葉に甘えちゃっても、いいかな……?」
私は小さく首を横に振り、努めて明るい声で彼に訴えかけた。
「……よかった。じゃあ、行こうか」
私の答えを聞いたキノは、ふっと憑き物が落ちたように安堵の表情を浮かべた。
彼の手が私の腕からゆっくりと離れ、再びハンドルへと戻される。
少しだけ名残惜しそうに離れていったその手の温もりが、私の腕にじんと残っていた。
激しい雨を切り裂くように、キノの運転する車が、彼の住むのマンションへと向かって静かに走り出した。




