8章 動き出す関係〜秀介目線②〜
すっかり日が落ちて、パーク内は夜の闇と色とりどりのロマンチックなイルミネーションに包まれていた。
冬の冷たい夜風が吹いて肌寒いはずなのに、隣を歩く光の足取りは、昼間よりもずっと軽く見えた。
カフェで母さんと二人きりで何を話したのかはわからない。だが、あの一件以来、光が抱えていた見えない壁のようなものが少しだけ低くなり、彼女の心の中に温かいものが灯っているのを、俺は確かに感じ取っていた。
ふと気がつくと、周囲にどんどん人が集まり始めていた。
「なんだろ? 人、多くなってきたね」
俺の顔を見上げて不思議そうに小首を傾げる光。その頭には、昼間俺が半ば強引に買い与えたウサギの被り物がまだちょこんと乗っていて、それがまた破壊的に可愛い。
俺は平静を装いながらスマホを取り出し、手早くパークの情報を調べた。
「……この辺で、もうすぐパレードが始まるみたいだな」
「あっ、そういうことか!」
光の顔がパッと輝く。
隣を歩く彼女が、俺の姿をチラリと盗み見たのがわかった。
仮の恋人という建前とはいえ、こんな風に並んでパレードを待てるシチュエーションに、俺自身の胸も期待で高鳴っている。
その時だった。
「アッ! ミサ!!」
突然、背後からサラが大きな声を上げた。
「あら、どうしたの? サラ」
「ワタシ、乗り忘れてたアトラクションあるカラ、ついてきて欲しイ!」
サラは強引に母さんの手を握ると、何故か母さんに向かってパチリと意味ありげなウインクを送った。
「えっ?」
俺と光は、突然の展開に戸惑って二人を振り返る。
「えーと、シュースケとヒカリチャンは、パレードでも見て待ッテテ! お互い終わッたら合流! じゃあ、マタネー!」
「えっ、ちょっと、サラ……ふふっ、そういうことね。じゃあ二人とも、後でね」
嵐のようなサラに手を引かれ、状況を察したらしい母さんもクスクス笑いながら、二人はあっという間に人混みの中へと消えていってしまった。
背中を見送る俺の脳内では、『サラ、お前……ナイスすぎるだろ』という感謝と、このナイスアシスタントを是非仕事でも生かしてくれという呆れが入り混じっていた。
完全に取り残された俺たち。
光が恐る恐る、隣に立つ俺の顔を見上げた。
暗くてはっきりと表情は見えなかっただろうが、俺も「どうしようか?」という顔で彼女を見つめ返した。心の声を必死に隠しながら、小さく息を吐いて真っ直ぐに彼女の目を見る。
「……とりあえず、パレード見よっか」
「……うんっ」
光が小さく頷き、俺たちは人波をかき分けて歩き出した。
パレードが一番綺麗に見える場所を探して移動しようとしたけれど、想像以上に人が多く、押し寄せる波のような人混みに、光が俺の背中を見失いそうになっているのに気がついた。
「あっ……」
焦って立ち止まった光の前に、俺はサッと振り返る。
「光、こっちだよ」
そう言って、俺は人混みを遮るようにして、彼女に向かってさりげなく手を差し出した。
「えっ……」
どうしたらいいか、迷っている彼女の様子を見て、俺は理性のブレーキを少しだけ緩めることにした。
「はぐれたら、どうするの?」
少しだけ意地悪な声でそう言いながら、俺は迷うことなく、彼女の小さな手を自分からそっと、でも力強く包み込むように握った。
「っ!」
光の肩がビクッと跳ねるのがわかった。
彼女の小さくて少し冷たい手が、俺の掌の中にすっぽりと収まる。
やばい、これって……。
自分で行動を起こしておきながら、俺の心臓こそが口から飛び出そうなくらいにバクバクと激しく脈打っていた。
光も顔から火が出そうなほど顔を赤くしているのがわかる。彼女が繋がれた俺の手を、ギュッと小さく握り返してくれた瞬間、俺は歓喜で叫び出しそうになるのを必死に堪えなければならなかった。
やがて視界が開け、ベストポジションらしき場所に到着する。
そして俺は、手汗で緊張が悟られるのを恐れ、もっと触れていたい気持ちを抑え込んで、スッと手を離した。
しかし手のひらに残った彼女の熱が冷めていくようで、どうしようもなく名残惜しく後悔をした。
すると、パーッと眩しいほどの光が周囲を包み込んだ。
夜のパレードが始まったのだ。
「……綺麗だなぁ」
不意に、横から光の声がした。そちらを向きたい衝動を、俺は必死に抑え込んだ。
今振り返ってしまえば、目の前のきらびやかなフロートなど色彩を失ってしまうだろう。ただ彼女の横顔だけを目で追って、この隠しきれない気持ちを悟られてしまう。
だから俺は、どうにか心を繋ぎ止めるように、真っ直ぐにパレードの喧騒を見つめ続けていた。
その時だった。
「くっしゅんっ!!」
「わっ……大丈夫?」
大きなくしゃみをした光に、俺はハッとして我に返った。
「う、うん、大丈夫っ!」
光は慌てて鼻に手を当てて焦っている。
しまった、俺が浮かれすぎて彼女の体調の変化に気付くのが遅れた。冬の夜の冷え込みで、彼女の体はすっかり冷え切ってしまっている。
俺は迷うことなく、自分が着ていた上着を脱いで、彼女の小さな肩に優しくかけた。
「えっ?」
「これ、使って」
「えっ、でも、キノは寒くないの!?」
光が慌てて俺に上着を返そうとする。
ここで上着を着せたままでいるには、どうすれば自然か。俺は少しだけ困ったように微笑んで、自分でも驚くほど大胆な提案を口にした。
「じゃあ……ちょっとだけ、近くにいてもいい?」
そう言って、俺はスッと、肩と肩が触れ合うくらいギリギリの距離まで彼女に近づいた。
「っ……!」
光の息を呑む気配が伝わってくる。
触れ合う肩から、彼女の体温が直に伝わってきた。上着越しにほのかに香る彼女の匂いと、俺の香水の匂いが混ざり合う。
至近距離で見下ろす光の顔は、恥ずかしさのあまり耳の先まで真っ赤に茹で上がっていて、言葉を完全に失っていた。
そんな彼女が愛おしくてたまらなくて、俺は少しだけ上から覗き込むようにして見つめ、フッと柔らかく微笑んだ。
「……ありがと。ちょっと温かくなったよ」
「う、うん……っ、あったかい、ね……」
彼女の小さな呟きが、俺の理性を激しく揺さぶる。
仮の恋人という関係を盾にしたこの距離感は、俺にとっては拷問に近いほど甘くて、狂おしいものだった。
眩いパレードの光と音楽が、言葉を失った二人を優しく包み込んでいた。
***
帰路につく車の中、俺は夜の高速道路をひた走っていた。
助手席の光はよほど疲れたのか、窓ガラスにもたれかかって静かに寝息を立てている。
色々あった一日だったが、不思議と心は満たされていた。間違いなく、最高の休日だった。
俺はまず、母さんが泊まる都内のホテルまで送り届けた。
その後、俺は車を走らせ、自宅近くの駅まで光を送っていた。彼女はここから電車に乗って、実家まで帰る予定だ。
ドドドドドドッ!!
突然、バケツをひっくり返したような激しい大雨が、車のフロントガラスを強く打ち付け始めた。
「うわっ、コレはやばいな……」
俺は思わず眉間に深い皺を寄せ、ワイパーを最速にした。
なんとか駅のロータリーに辿り着き、車を停めたが、雨は弱まるどころかますます激しさを増し、視界を白く遮っていく。
光にとりあえず雨が少し小降りになるのを待とうと提案し、車内で待機していると、地下鉄の入り口から、大量の人々が足早に出てくるのが見えた。みんな一様に困った顔をしてスマホを操作したり、タクシー乗り場へ絶望的な長さの列を作ったりしている。
「どうしたんだろう? 人、すごいね」
光が不思議そうに首を傾げた。
(……この様子だと、まさか)
俺も嫌な予感がして様子を伺っていると、光が慌ててバッグからスマホを取り出した。
「あっ!!!」
「ドーシタノ? ヒカリチャン?」
後部座席に座っていたサラが、身を乗り出して光のスマホの画面を覗き込む。
「わー……電車、人身事故と大雨のせいで運転取りやめになっちゃったみたい……」
光がスマホを持つ手を震わせながら言った。
明日から仕事だというのに家に帰れない絶望感が、彼女の表情から痛いほど伝わってくる。
「え?……なら、俺が家まで送ろうか?」
俺は即座に提案した。
時計を見れば今はもう23時を回っている。確か明日も朝早くから仕事だが、俺にとってそんなことはどうでもよかった。光のためなら、この大雨の中を光の家まで長距離運転することなど全く苦にならない。
「い、いやいや! 大丈夫だよ! 夜遅いし……あと、こんな大雨の中の運転、絶対に危ないから!」
だが、光は慌てて俺の提案を遮った。
彼女の性格上、俺の明日を気遣って、絶対に甘えようとはしないだろう。
「でも……」
「大丈夫! この辺のビジネスホテル探して泊まるから!」
光は必死に取り繕いながら、スマホのブラウザを開いて宿泊予約サイトを検索し始めた。
俺とサラに見守られながら、現在地周辺の空き部屋を探す。
画面をスクロールするたびに、彼女の焦りが手に取るように伝わってくる。
(この時間帯で、この帰宅難民の数だ。当日の空き部屋なんてあるはずがない……)
最悪、俺が仕事で担当しているクライアントの外資系ホテルにお願いすれば、一部屋くらいなんとかなるだろう。いや、それとも強引にでも車で送るか——。そう思考を巡らせていた、その時だった。
「じゃあ、シュースケ。ヒカリチャン、家に泊めてあげなヨ!!」
後部座席から、サラが信じられないほどの爆弾発言を繰り出したのだ。
「「えっ!!」」
俺と光の声が、車内に見事にハモって響き渡った。
「アッ、ちなみにワタシの家は汚イからダメだよ! じゃあネ〜♡ ひかりチャン、シュースケのコトよろしくね!」
サラはバックミラー越しに俺に向かってニヤリと悪魔のようなウインクを飛ばすと、ドアを開け、自分の上着を頭に乗せて嵐のような大雨の中を走り去っていった。
(お前っ……! サラ!!)
残された車内。激しい雨音だけが響く中、俺は隣に座る光の顔を直視することができなかった。
俺の住む都内のマンション。
そこに、19年間思い続けた光が、泊まりに来る?
『仮の恋人』という建前だけでなんとか保っていた俺の理性の防波堤が、今まさに、この外の土砂降りの雨のように決壊しようとしていた。
隣から伝わってくる光の動揺。彼女を安心させなければならないのに、今の俺には気の利いた言葉をかける余裕すらない。
パレードの時とは比べ物にならないくらい、俺の心臓はドクンッドクンッと激しく、壊れそうなほどの警鐘を鳴らし続けていた。




