8章 願い〜ミサ目線〜
16年振りの日本。
私は、息子の秀介と姪っ子のサラ、そして、友達であるタマちゃんの娘さん、光ちゃん...——いや、息子のきっと大切な人、光ちゃんと一緒に日本のテーマパークにきている。
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午後になり、流石に少し歩き疲れた私は、二人にわがままを言って落ち着いたカフェで休憩させてもらうことにした。
底抜けに元気なサラは、「絶対に乗りたいヤツがある!」と、一人で絶叫系のアトラクションの列へと風のように走って行ってしまった。相変わらず、嵐のようにアクティブな子だ。
温かい飲み物を買って席に着き、疲れた足を休ませた、その時だった。
プルルルッ。
秀介のポケットの中で、スマホが震えた。
「……ごめん。仕事の電話だから、ちょっと席外すね」
画面を見た息子の顔が、一瞬で『弁護士』の顔に切り替わる。
息子は自分のコーヒーを乗せたトレーを机に置くと、スマホを片手に足早にお店の外へと出て行った。
そんな息子の慌ただしい背中を見送って、私はわざとらしく深くため息を吐いた。
「はぁ……。せっかくの1日休みなんだから、電話なんて出なくていいのにねぇ」
「あはは……大変そうですね」
「もう、誰に似たのだか……」
呆れたように顎に手を当てながらも、私の口元はどうしても緩んでしまう。
ああして、どんな時でも仕事の電話が来れば顔つきが変わり、足早に去っていく背中は、亡くなった夫——大介さんにそっくりだったからだ。
当時私は、いつも大きな口でニカッと笑う彼が、いざ仕事に向かうと別人のように真剣な表情を見せる。私はそのギャップが、たまらなく好きだった。
そして、交通事故で他界してしまった大介さんも、息を吸うように仕事をする根っからのワーカーホリックだった。秀介のあの仕事への執念と、どこか不器用な生き方は、本当に大介さんによく似ている。
「でも……」
隣に座る光ちゃんが、手元のココアのカップを見つめながら、ぽつりと口を開いた。
「私、キノのこと、すごく尊敬してますよ。ひたすら努力して、誰もがなれるわけじゃない弁護士になって……ましてや国際弁護士として活躍してて。本当にすごいなって思います」
その真っ直ぐな言葉に、私は少しだけ驚いて彼女を見た。
厳しい状況で頑張ってる息子の姿。彼がどれほどの責任や重い期待を背負っているかを、光ちゃんは自分のことのように深く理解し、心から敬意を払ってくれている。
私も、そうだったなぁ...。
「ふふ、ありがとう。……でもね、母親的には、早く誰かと結婚して、子供作って、少しでも落ち着いてくれたらいいのになぁって思うわ」
私は、カップの縁を指でなぞりながら、ふと本音をこぼしてしまった。
大介さんは、秀介が小さい頃に亡き人になって、私と秀介と2人になってしまった。『両親と子供』という、ありきたりで温かい家族の時間を、最後まで十分に味わうことができなかった。
そして、私が病気になって、息子には本当に心配をかけて、本当に苦労もかけた。
だからこそ、秀介には絶対に、温かい家庭を築いて幸せになってほしい。そう強く願っている。
私の言葉を聞いて、光ちゃんはふと、苦しそうに俯いた。
口にこそ出さないけれど、彼女の表情からは、痛いほどの劣等感と葛藤が手に取るように伝わってきた。私は人の感情の機微には、昔から敏感な方だ。それに、この子は本当に、感情が素直に顔に出る。
(……この子は、自分がどれだけ秀介にとって『特別』か、本当にわかっていないのね)
私は、少しだけ悪戯心を起こして口を開いた。
「ねぇ、光ちゃん。……うちの息子とか、どう?」
「えっ!!」
私の言葉に、光ちゃんは突然思考が真っ白になったような顔をした。
「ワーカーホリックで、根暗なところはあるけど……なかなかの優良物件だと思うんだけどなぁ」
「い、いやいや! 待ってください! ミサおばさん!」
光ちゃんは慌てて両手を顔の前でブンブンと振った。
「私なんて、1ミリもキノに釣り合ってないので……そんな、選べる立場にも立ってません!」
そう言って、光ちゃんは自分への不甲斐なさで、膝の上に置いた両手をギュッと強く握りしめた。
彼女が秀介をどう見ているかはなんとなく分かる。
国際弁護士の彼は平凡な私と釣り合わないと。
でも、私から見れば、そんなことはどうでもいいことだ。
私が倒れたあの時、絶望した秀介を深い闇から救い出してくれたのは、光ちゃんのあの底抜けの優しさと、屈託のない笑顔だった。
あの日からずっと、あの子の心には光ちゃんしかいない。
秀介の冷え切った心を温められるのは、光ちゃんだけなのだ。
私は、彼女のその固く握られた拳を、自分の両手でふわりと優しく包み込んだ。
「え……」
目を丸くして顔を上げた光ちゃんを、私は真っ直ぐに見つめ返した。
彼女の心の奥底にある、拭いきれない不安と惨めさ。それを少しでも溶かしてあげたくて、私はゆっくりと言葉を紡いだ。
「光ちゃんは、光ちゃんでいいのよ。……秀介もきっと、ずっと、そう思ってるから」
——あなたは、そのままで十分すぎるくらい、あの子にとって価値のある存在なのよ。
私の言葉の本当の意味が、今の彼女にどこまで伝わったかはわからない。けれど、震えていた彼女の肩から、少しだけスッと力が抜けたのがわかった。
「あ、ごめん! 待たせた」
その時、足音と共に秀介が申し訳なさそうに戻ってきた。
「あれ? 先に飲んでてくれてよかったのに。……何かあった?」
私と光ちゃんが手を重ね合わせているのを見て、秀介が不思議そうに首を傾げる。
本当に、自分の感情には疎いくせに、少しでも光ちゃんに関わることになると、途端に過保護になるんだから。
「もーう、秀介の電話が長いから、光ちゃんのココアが冷めちゃったじゃない」
私はパッと光ちゃんの手から離れると、いつものお茶目な母親の顔に戻って息子に文句を言った。
「悪かったよ。……光、冷めちゃったなら、新しく温かいの買ってこようか?」
「ううん、大丈夫! いただきます」
光ちゃんは首を横に振り、少しだけ温かさの残るココアを両手で持ち上げて、一口ゆっくりと飲んだ。
その表情は、先ほどまでの思い詰めたような顔から、少しだけスッキリと前を向いたような、柔らかいものに変わっていた。
(頑張れ、秀介)
カップの向こう側で、心配そうに光ちゃんを見つめる不器用な息子を横目に、私は心の中でそっとエールを送った。




