8章 温かい言葉 ④
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結局、あのウサギの被り物は、キノが少し強引にお金を払って買ってくれた。
「秀介は仕事ばっかでお金使うところ少ないから、全然気にしないでね」
申し訳なさで縮こまる私を見て、ミサおばさんが優しくフォローしてくれた。
アメリカでも弁護士として激務をこなし、日本に帰ってきてからも働き詰めでお金を使う暇もないキノの生活ぶりを、おばさんもよくわかっているのだろう。
その後は、ミサおばさんのペースに合わせて、穏やかなアトラクションにいくつか乗り、パーク内でランチを食べた。
午後になり、流石に少し歩き疲れた様子のミサおばさんを気遣って、私とキノ、おばさんの3人で落ち着いたカフェに入って休憩することになった。
底抜けに元気なサラさんは、「絶対に乗りたいヤツがアル!」と、一人で絶叫系のアトラクションの列へと元気よく走って行ってしまった。
3人分の温かい飲み物を買って席に着き、ふぅっと一息ついた、その時だった。
プルルルッ。
キノのポケットの中で、スマホが震えた。
「……ごめん。仕事の電話だから、ちょっと席外すね」
画面を見たキノの顔が、一瞬で『仕事の顔』に切り替わる。彼は自分のコーヒーを乗せたトレーを机に置くと、スマホを片手に足早にお店の外へと出て行った。
そんな息子の慌ただしい背中を見送って、ミサおばさんは深くため息を吐いた。
「はぁ……。せっかくの1日休みなんだから、電話なんて出なくていいのにねぇ」
「あはは……大変そうですね」
「もう、誰に似たのだか……」
ミサおばさんは少し呆れたように顎に手を当てたが、その表情はどこか温かく、何かを懐かしむような優しい笑みを浮かべていた。
きっと、亡くなったご主人——キノのお父さんのことを思い出しているのだろう。
以前、昔の、キノの家に飾られていた、家族3人で写る古い写真を見たことがある。そこには、若くて美しいミサおばさんと、ランドセルを背負った幼い頃のキノ、そして、今のキノに少し雰囲気は似ているけれど、もっと男らしい顔つきをしたお父さんが写っていた。
キノが小学4年生の時に他界してしまったというお父さんも、きっとキノのような仕事が忙しい方だったのだろう。
「でも……」
私は、手元のココアのカップを見つめながら、ぽつりと口を開いた。
「私、キノのこと、すごく尊敬してますよ。ひたすら努力して、誰もがなれるわけじゃない弁護士になって……ましてや国際弁護士として活躍してて。本当にすごいなって思います」
日米の資格を持ち、厳しい世界で戦っている彼。きっと、私なんかには想像もつかないような責任や、周りからの重い期待を背負って、日々頑張り続けているはずだ。
その中でずっと折れずに立ち向かっている彼のことを、私は心から尊敬している。
「ふふ、ありがとう。……でもね、母親的には、早く誰かと結婚して、子供作って、少しでも落ち着いてくれたらいいのになぁって思うわ」
ミサおばさんは、カップの縁を指でなぞりながら、少しだけ切なく笑った。
きっと、彼らが最後まで十分に味わうことができなかった『両親と子供』というありきたりで温かい家族の幸せを、おばさんは誰よりも息子に味わって欲しいと願っているのだ。
その言葉を聞いて、ふと、胸の奥がキュッと締め付けられるような気がした。
キノは、絶対に『幸せ』にならないといけない人だ。
ましてや、こんな風に彼の幸せを心から願っているお母さんがいる。
なのに、ただの幼馴染で、同情で『仮の恋人』なんて役割を押し付けてしまっている私が、彼の横に居座り続けていいのだろうか?
私が俯いて葛藤していると、不意にミサおばさんが口を開いた。
「ねぇ、光ちゃん。……うちの息子とか、どう?」
「えっ!!」
ニヤッと悪戯っぽく口角を上げて問いかけられ、私は突然のことに思考が真っ白になった。
「ワーカーホリックで、根暗なところはあるけど……なかなかの優良物件だと思うんだけどなぁ」
「い、いやいや! 待ってください! ミサおばさん!」
私は慌てて両手を顔の前で振った。
「私なんて、1ミリもキノに釣り合ってないので……そんな、選べる立場にも立ってません!」
そう。彼は誰もが羨む職業に経歴、そして芸能人以上に一際目立つ、信じられないほど美しい容姿を持っている。
対する私は、これといった取り柄もない、容姿も平均以下の、ただの派遣社員だ。
ただ、たまたま近くに住んでいて、たまたま幼馴染になって。そして16年ぶりに再会して、ダメな私にキノが同情してくれて、それに甘えさせてもらっているだけ。
こんな私が、本当に彼の隣に立って、ミサおばさんが願う『彼の未来』を奪うわけにはいかない。
「…………」
膝の上に置いた両手を、自分への不甲斐なさでギュッと強く握りしめた。
すると。
温かい両手が、私のその固く握られた拳を、ふわりと優しく包み込んだ。
「え……」
目を丸くして顔を上げると、ミサおばさんが、まるで私の心の奥底の不安をすべて見透かしているような、慈愛に満ちた瞳で私を見つめていた。
「光ちゃんは、光ちゃんでいいのよ。……秀介もきっと、ずっと、そう思ってるから」
人の感情に敏感なミサおばさんは、私の自信のなさに気づいている
——光ちゃんは、光ちゃんでいい。
それは、私の中にある惨めさや不安を、丸ごと温かく肯定してくれる魔法のような言葉だった。
おばさんの言葉の本当の『深さ』は、今の私にはまだわからない。でも、震えていた私の背中を、とても優しく、確かにポンッと押してくれたのがわかった。
「あ、ごめん! 待たせた」
その時、こちらに向かってくる足音と共に、キノの声が響いた。
振り返ると、電話を終えたキノが申し訳なさそうに立っていた。
「あれ? 先に飲んでてくれてよかったのに。……何かあった?」
私とミサおばさんが手を重ね合わせているのを見て、キノが不思議そうに首を傾げる。
「もーう、秀介の電話が長いから、光ちゃんのココアが冷めちゃったじゃない」
ミサおばさんはパッと私の手から離れると、いつものお茶目な笑顔に戻って息子に文句を言った。
「悪かったよ。……光、冷めちゃったなら、新しく温かいの買ってこようか?」
「ううん、大丈夫! いただきます」
私は首を横に振り、少しだけ温かさの残るココアを両手で持ち上げて、一口ゆっくりと飲んだ。
甘くて優しい味が、じんわりと胸の奥まで広がっていく。
(ありがとう、ミサおばさん……)
カップの向こう側で、キノと笑い合うミサおばさんを見つめながら、私は心の中でそっと呟いた。
さっきよりも少しだけ……ほんの少しだけ、前を向く自信が持てたような気がした。




