8章 温かい言葉 ②
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日曜日の朝。
私は、少しだけそわそわした気持ちで、キノの家の最寄り駅の改札前に立っていた。
今日は、いつもの地味なストレートヘアではなく、昨日美容師さんに教えてもらった「ゆるふわヘア」という巻き髪を、朝から鏡の前で何度もやり直して頑張ってきた。
それに、数時間もすれば元に戻ってしまうかもしれないけれど、念入りにやった小顔マッサージのおかげで、いつもよりほのかに輪郭がスッキリしているのも確認済みだ。
(変じゃないかな……? 頑張りすぎって思われないかな……)
そんな不安を抱えながら、待ち合わせ場所でキョロキョロしていると。
「光ちゃーんっ!」
背後から、とても明るくて懐かしい声が聞こえた。
振り返ると、そこにはキノのお母さん——ミサおばさんが立っていた。
中学3年の時、病気で倒れて生死の境を彷徨っていた、あの時のミサおばさんとは別人のように、はつらつとして元気そうな姿だった。
「ミサおばさん!! 久しぶりです!」
私は嬉しさのあまり、深々と腰を折って挨拶をした。
「久しぶり〜! 光ちゃん! まあ、すっかりべっぴんさんになって……おばさん、びっくりしちゃったわ」
「べっぴんさん」だなんて、普段絶対に言われないような言葉を惜しげもなくかけてくれるミサおばさんに、私は今にも嬉し泣きしてしまいそうだった。
「い、いやいや! ミサおばさんこそ、うちの母と同じ歳くらいだなんて絶対に思えないくらいお綺麗で……私なんて恐れ多いですっ」
「やだ、私はもうおばあちゃんだから。今日はよろしくね」
還暦を迎えているとは到底思えない、奇跡のように若々しくて美しい笑顔。
キノは圧倒的にお母さん似。この完璧な遺伝子をそのまま受け継いでいるのだとわかれば、あの息を呑むような美しい顔立ちにも深く納得できる。
ただ、常にポーカーフェイスで冷静沈着なキノとは違い、ミサおばさんはとても表情豊かだ。普段はしっかりしているけれど、たまに天然なところがあるというのも、うちのお母さんからよく聞いていた。
そして何より、先ほどの第一声のように、今の私が一番欲しかった温かい言葉を、スッと自然に与えてくれる人だ。
(キノも、そういえばそうだな……)
本当に、どこまでも完璧で素敵な親子だ。
感動的な再会を果たし、二人でニコニコと笑い合っていると、私たちの目の前に、黒い高級車がスッと滑り込むように停まった。
運転席に乗っているのは、キノだ。今日は彼が車を出して、テーマパークまで連れて行ってくれることになっている。
すると、後部座席の窓がウィーンと開き、中からひょこっと、とびきりの美少女サラさんが顔を出した。
「オハヨー! ミサ! ヒカリチャン! 早ク乗ッテー!!」
「……おい。俺の車なんだけど」
陽気に手を振るサラさんの言葉を遮るように、運転席からキノの呆れ果てた低い声が聞こえてきた。
どうやら、キノの家の近くに住んでいるサラさんを、ついでに拾ってきたらしい。
「イイカラ、イイカラ! シュースケは夢の国マデ、安全運転ヨロシク!」
「ふふっ。さあ、光ちゃん。行きましょうか」
「はい!」
ミサおばさんに促され、私は後部座席のドアノブに手を掛けようとした。
日本とアメリカという遠い距離で暮らしているのだから、せっかくの家族水入らずの時間、ミサおばさんは当然息子の近くに座るだろうと思ったのだ。
しかし、その瞬間。ミサおばさんは私の手をギュッと握り、ニコッと悪戯っぽい笑顔を向けてきた。
そして、私にだけ聞こえるような小声で、コソッと耳打ちした。
「光ちゃんは、秀介の横に座って。私はサラと一緒に後ろに座るから」
「えっ? でも、親子なんだから……」
私は戸惑いながら首を振った。せっかくの親子の時間を私が遮ってしまうなんて申し訳ないし、何より、助手席という特別な席に、私なんかが座っていいのだろうか。
「いいから、いいから。ねっ?」
「あっ……はいっ」
ミサおばさんの、有無を言わさない綺麗すぎる笑顔の圧に、私は完全に負けてしまった。
結局、後部座席をおばさんに譲り、私は親子の時間を邪魔してしまう罪悪感と、おばさんの不思議な行動への疑問を抱えたまま、緊張しつつ助手席のドアを開けた。
「おはよう、キノ」
「……おはよう。似合ってるね、その髪」
「えっ……あ、ありがとう……!」
シートベルトを締めながら挨拶をすると、キノが私の髪を見て、ふっと優しく目を細めてくれた。それだけで、朝から頑張った苦労がすべて報われたような気がして、顔がカッと熱くなる。
私たちが乗り込んだのを確認し、車は千葉方面に向けて走り出した。
車の中は、想像以上に賑やかだった。
というより、後部座席のサラさんが、ずっと機関銃のように喋り続けているのだ。私も、まるでキノの家族の一員になったような錯覚に陥りそうになる。
「シュースケは日本ではモテモテだケド、アメリカでは全然ナンダヨー! 全然明るくナイシ、超ワーカーホリック! 休みの日も仕事バッカデ、アメリカの女の子はお断りッて言われるヤツ!」
サラさんが、運転席のキノをからかうように大声で笑う。
ルームミラー越しに見えるキノの顔は、あからさまに嫌そうな渋面を作っていた。
「そうねぇ……。アメリカの大学に行ってる時もずっと勉強ばかりで、就職してからもずっと仕事してて。大介さん(キノのお父さん)に似たかと思ったら、大介さん以上のワーカーホリックで、本当にお母さん心配だわ〜」
ミサおばさんも、大げさに頬に手を当てながらサラさんに同調する。
二人にいじられて不機嫌そうなキノには悪いけれど、私にとっては、自分の知らない「アメリカでのキノ」の様子を知ることができて、なんだか無性に嬉しかった。
「一人息子の健康のことも心配だし……光ちゃん、秀介のワーカーホリック、なんとかしてやって欲しいわ」
「えっ!?」
不意にミサおばさんから会話のボールを投げられ、私はビクッと肩を揺らした。
「オー! ミサ! それイイアイデア!」
サラさんも手を叩いて元気よく乗っかってくる。
「えっ、えっと! で、でも、キノはすごくお仕事頑張ってるし……でも、お体のことは確かに心配で……あのっ……」
私はなんて答えていいかわからず、助手席でキノと後ろの二人を交互に見比べながら、一人であたふたとパニックになっていた。
すると、運転していたキノが、耐えきれないというように深いため息を吐き出した。
「……光。後ろの二人は、ほっといていいから」
「ひかりチャン! モット言ッテヤレ!! シュースケに休もっと休めッテ!!」
「えっ! えっ!?」
さらに煽ってくるサラさんに、私のパニックは最高潮に達する。
「だから、サラは黙ってろ!」
ピシャリと、車内にキノの鋭い声が響いた。
普段はポーカーフェイスで、誰に対しても冷静で丁寧なキノからは想像もできないような、声を荒らげた表情。
(あっ……)
それを見た瞬間、私は驚くどころか、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
外では完璧な「国際弁護士」のキノが、家族の中ではこんな風に、年相応の素の顔を見せて怒ったりするんだ。
その特別な素顔を見られたことが、たまらなく愛おしい。
「フフッ、秀介ったら照れちゃって」
ミサおばさんが、後ろでクスクスと上品に笑っている。
賑やかで、騒がしくて、温かい。
窓の外を流れる景色を見つめながら、私はこの小さな車内の空間に、言葉にできないほどの確かな幸せを感じていた。




