7章 もう2度と... 〜秀介目線〜
東京のオフィスビル。
クライアントとのミーティングを終え、会議室から廊下に出た俺は、不意に向けられた視線に気がついた。
(……なんだ?)
視線の先には、スーツ姿のビジネスマンたちに混じって、やけにガタイが良く、短髪の普段着を着た男が立っていた。
相手もこちらを見て、目を丸くしている。
「っ! 秀介!?」
その驚いたような大きな声と、少し童顔気味の顔。
俺は一瞬だけ驚いたが、すぐにいつものポーカーフェイスを作り、相手の顔を見つめ返した。
「……啓司か!?」
16年ぶりに会う高校の同級生、青田 啓司だった。
プロ野球の1軍で活躍していることはニュースなどで知っていたし、光がずっと彼のことを好きだったことも、俺は痛いほどよく知っている。
そして何より、彼が1ヶ月前のクリスマスに光を裏切り、どん底に突き落とした張本人だということも。
「お前、なんでこんなとこにいるんだよ!」
無邪気に笑いかけてくる啓司。
俺は胸の奥で渦巻く冷たい怒りを完璧に隠し、穏やかな笑みを浮かべて応じた。
「仕事でね。少し前にアメリカから帰国して、今はこっちの法律事務所にいるんだ。啓司の球団の外国人選手との契約交渉とか、そういう企業法務も担当させてもらっててさ」
俺たちは歩調を合わせ、ビルの廊下を歩き始めた。
「秀介はやっぱり、すげえな! 弁護士なんてさ。俺は昔から頭の方はさっぱりだったから、マジで尊敬するよ」
ガシガシと後頭部を掻きながら笑う啓司。
あの頃と何も変わらない、裏表のない奴だ。光が彼に惹かれた理由もわかる。だが、その無邪気さが、時としてひどく残酷に人を傷つけるのだ。
「俺はたまたまだよ。聞いたよ、啓司もずっと1軍で活躍してるって。チームには若い選手もどんどん入ってくるのに、ずっとレギュラーで頑張ってるの、本当にすごいと思うよ」
俺がそう褒めると、啓司はわかりやすく喜んで胸を張った。
「おっ! 秀介、分かってくれるじゃん! そうなんだよ、また2軍のどん底になんて絶対戻りたくねえから、必死よ!」
「それも聞いたよ。2軍で苦しんで、必死に頑張って勝ち取った今だって」
「そうそう! 2軍で必死で頑張ったから、今の俺が……」
調子良く頷いていた啓司が、ピタリと動きを止めた。
不思議そうに首を傾げ、俺の顔を見つめてくる。彼が何を疑問に思っているのか、俺には痛いほどよくわかった。
『なぜ、アメリカにいた俺が、彼の苦労時代を知っているのか』。
俺は、彼のその疑問に、真っ向から答えることにした。
「あー……光から聞いたんだ」
光。
その名前を出した瞬間、啓司の表情がわずかに強張ったのがわかった。
「あ、そうなんだ。……あの時は、一途名が色々差し入れ持ってきてくれたりして助かったよ」
思い出すように目を細める啓司。
俺の胸の奥で、黒い感情が静かに泡立つ。
あのどん底の時代、光がどれだけ自分をすり減らして彼を支え続けたか。その結果、彼が光をどう扱ったか。俺はすべて知っている。
「一途名……元気にやってるかな……」
ふと、啓司の口からこぼれ落ちたその言葉。
それまでなんとか抑え込んでいた俺の中の『独占欲』が、音を立てて牙を剥いた。
高校を卒業する時、俺は一度、光への想いに蓋をして諦めようとした。『彼女が啓司と結ばれるなら、それでいい。彼女の幸せを遠くから祈ろう』と思い、光の幸せのために身を引いたつもりだった。
だが、その結果はどうだ。
お前は光を都合よく扱い、ボロボロに傷つけて捨てた。
光が流した涙の重さを、あの日、寒空の下で震えていた彼女の姿を、お前は何も知らないくせに。
(……次はないよ)
俺は立ち止まり、ゆっくりと啓司の方を向いた。
「……元気でやってるよ」
俺は、自分でも驚くほど甘く、そして柔らかく微笑んだ。
それは、『幼馴染』としての笑顔ではない。
今の光の隣にいて、無防備に泣いてる顔も、無邪気にこぼれる心からの笑顔もすべて知っている『ただ一人の男』としての笑顔だ。
一度は諦めようとした想いだったが、今は違う。次は絶対に、誰にも光を渡さない。たとえ初恋の相手であるお前であっても。
啓司が、俺の笑顔を見て息を呑んだのがわかった。
彼の心が、戸惑いと、得体の知れない焦燥感で激しく揺れているのが伝わってくる。
(そうだよ、啓司。今、光の隣にいるのは俺だ。)
俺は嫌味な言葉を一つも口にしていない。ただの『幼馴染』としての立場を崩す気もない。だが、俺が発する空気だけで、啓司は何かを悟ったはずだ。
今の光は、俺が絶対に守り抜く。
その時、胸ポケットのスマホが鳴った。
俺はスマホを取り出し、画面を確認すると、英語で短く電話に応対した。次のアポイントの催促だった。
「ごめん、啓司。次のアポイント急がされてるから、俺はこの辺で。またお互い時間できたら、ご飯でも行こう」
俺は軽く片手を上げ、呆然と立ち尽くす啓司をその場に残して、足早にエントランスへと向かった。
背中に突き刺さるような啓司の視線を感じる。
彼の中で渦巻いている『悔しさ』のような感情に気づいていたが、俺は振り返らなかった。
(悪いな…お前には、光は2度と渡さない...)
ガラス張りの自動ドアを抜けながら、俺は少し春を感じる、冬の寒い空気を深く吸い込んだ。




