7章 気づき ③
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沖縄での春季キャンプから東京へ戻って、数日後のことだった。
俺は、事務的な用事を済ませるために、都内に所属球団の親会社のオフィスビルを訪れていた。
手続きを終え、応接室を出て静かな廊下を歩き出そうとした、その時だ。
少し離れた前方の会議室のドアが開き、中からスーツを着た長身の男が出てきた。
(……なんだ、あいつ?)
思わず目を擦ってしまった。
この無機質なオフィスビルには全く似つかわしくないほど、そいつはキラキラとしたオーラを放っていて、やけに眩しかったのだ。
高そうなスーツを完璧に着こなし、すらりとした長い脚で歩いてくるその姿。すれ違う女性社員たちが、チラチラと振り返って見ているのがわかる。
(なんか、見覚えのあるような……)
目を凝らして見つめていると、不意にその男と視線がぶつかった。
切れ長で涼しげな、黒い瞳。
「っ! 秀介!?」
俺は思わず、素っ頓狂な声を上げていた。
「……啓司か!?」
相手もわずかに目を丸くして、俺の顔を見つめ返した。
16年ぶりに会った高校の友人、木下 秀介だった。
「お前、なんでこんなとこにいるんだよ!」
「仕事でね。少し前にアメリカから帰国して、今は転勤で東京の法律事務所にいるんだ。啓司の球団の外国人選手との契約交渉とか、そういう企業法務も担当させてもらっててさ」
久々の再会に盛り上がり、俺たちは近況を話し合いながら、ビルの廊下を並んで歩いた。
「秀介はやっぱり、すげえな! 弁護士なんてさ。俺は昔から頭の方はさっぱりだったから、尊敬するよ」
俺は照れ隠しに、ガシガシと後頭部を掻きながら笑った。
秀介は高校の時から、顔がいいだけでなく頭も良くて、周りにも気が遣えて……おまけにモテるのにいつも冷静で、俺にはないものを全部持っている自慢の友人だった。
その秀介が大人になり、自分の夢を叶えて、エリートとして第一線で活躍している。同じ高校の友人が、別の土俵で輝いているのを見るのは、純粋に誇らしかった。
(やっぱり、秀介には敵わねぇな……)
素直にそう思えた。
「俺はたまたまだよ。聞いたよ、啓司もずっと1軍で活躍してるって。チームには若い選手もどんどん入ってくるのに、ずっとレギュラーで頑張ってるの、本当にすごいと思うよ」
秀介が、昔と変わらない落ち着いた声で俺を褒めてくれる。
「おっ! 秀介、分かってくれるじゃん! そうなんだよ、また2軍のどん底になんて絶対戻りたくねえから、必死よ!」
俺は胸を張り、真っ直ぐに闘志を燃やして笑った。
「それも聞いたよ。2軍で苦しんで、必死に頑張って勝ち取った今だって」
「そうそう! 2軍で必死で頑張ったから、今の俺が……」
調子良く頷いた俺は、ふと首を傾げた。
んん? 俺、その話、高校の同級生の誰かに話したっけ?
2軍で苦労していた頃のカッコ悪い話なんて、周りには一切しないようにしているのに。
なんで、アメリカから帰ってきたばかりの秀介が、そんな俺の過去を詳しく知っているんだ?
「……?」
俺が不思議そうな顔をしたのを察したのか、秀介が口を開いた。
「あー……光から聞いたんだ」
光。……一途名
あぁ、そうだった。秀介と一途名は、小さい頃からの幼馴染だった。
一途名が、昔の俺の様子を秀介に話していたのか。
「あ、そうなんだ。……あの時は、一途名が色々差し入れ持ってきてくれたりして助かったよ」
一途名の名前が出た瞬間、俺の脳裏にあの頃の記憶が蘇った。
当時の俺は球団の寮に入っていて、毎日の厳しい練習と結果が出ない焦りで余裕がなかった。そんな俺を心配して、一途名によく寮の近くまで足を運んでもらったっけな。
寮の門の近くで待っていてくれて、俺の大好物であるプロテイン入りのバナナケーキや、手作りの栄養食をそっと差し出してくれた。
あの頃の俺は自分のことで必死すぎて、ろくに感謝の言葉も言えていなかった気がする。
「一途名……元気にやってるかな……」
ふと、心に引っかかっていた言葉がポロリと口からこぼれた。
30歳の時、俺は自分のステージが変わったからという理由で、冷たい言葉を浴びせてあいつを振った。泣き縋るあいつを置いて、去っていった。
(あれから、あいつはどうしてるんだろう……)
俺のその呟きを聞いた秀介は、立ち止まり、ゆっくりと俺の方を向いた。
「……元気でやってるよ」
秀介は、フワッと柔らかく微笑んでそう言った。
その表情に、俺はなぜかゾクッとした。
それは昔の、俺たちと同じ目線に立っていた『高校の同級生』としての笑顔じゃない。
言葉にするなら、『今の光のことを一番よく知っているのは、俺だから』とでも言いたげな——けれど嫌味なんて一切ない、ただ純粋な事実として俺に突きつけてくるような、圧倒的な自信と余裕に満ちた笑顔だった。
(なんだ……? 今の、雰囲気……)
俺の心が、ざわりと揺れた。
秀介と一途名は、ただの幼馴染のはずだ。なのに、どうしてあんな親密そうな、まるで彼女の近況を当然のように把握しているような空気を纏っているんだ?
その時、プルルル、と秀介の胸ポケットから着信音が鳴った。
秀介はスマホを取り出し、画面を確認すると、流暢な英語で短く電話に応対した。
「ごめん、啓司。次のアポイント急がされてるから、俺はこの辺で。またお互い時間できたら、ご飯でも行こう」
秀介はそう言って軽く片手を上げると、長い脚で足早にビルのエントランスへと向かい、自動ドアの向こうへと消えていった。
俺は一人、静かな廊下に立ち尽くしていた。
(一途名は……元気なのか)
秀介の言葉に、良かった、と安心する気持ちが半分。
そして——なぜだかどうしようもなく、胸の奥から湧き上がる『悔しい』という感情が半分。
あんなに俺に従順で、俺のことだけを真っ直ぐに見ていた一途名が、今は秀介と親しくしているのか?
いや、幼馴染なんだから、俺と別れた後に相談に乗ってもらったりして、距離が近くなるのは当然かもしれない。
でも……嫌だ。
一途名が、俺だけのものじゃないなんて、悔しい。
ましてや、あいつの隣にいるのが、俺がどう足掻いても敵わない、あの完璧な『木下 秀介』だとしたら?
今の俺に、勝ち目なんて万に一つもないじゃないか。
(俺は……なんてバカなことを……)
みよとは1ヶ月も連絡が取れておらず、どこかモヤモヤしていた胸の痞えが、急に別の形になって疼き出す。
俺は急に焦るような気持ちになり、震える手でポケットからスマホを取り出した。
(とりあえず、一言だけでも……)
メッセージを送ろうとして、俺は画面を見て固まった。
「……えっ?」
画面には、『ブロック解除』の文字。
一途名のアカウントを、俺自身がブロックしている状態になっていたのだ。
(俺が、ブロックしてる……?)
いつの間に? こんなことした記憶なんて、全くない。
不思議に思って首を傾げたが、すぐに(……まあ、みよと付き合い始めた頃に、完全にケリをつける意味で無意識にやっちまったのかもな。あるいは酔っ払って誤作動したか)と、自分の中で都合よく片付けた。
俺は、迷うことなくそのブロック解除のボタンを乱暴に押した。
みよと連絡が取れない不安など、この瞬間、すっかりどこかへ吹き飛んでいた。




