6章 失いたくないもの ⑤
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光との間に生じた「サラが恋人ではないか」という可愛い誤解を解いた休日から、数日が経った。
相変わらず俺の仕事は多忙を極めていたが、心なしか仕事へのモチベーションは高く、自分でも驚くほど平穏で満たされた日々が続いていた。
その日の午後。俺はクライアントの企業へ出向き、ひとつの大きな案件を無事に片付けて、一息つきながら自分のオフィスへと戻ってきたところだった。
(そういえば、サラの奴、今日ミスをやらかしたとか言ってたな……)
最近、俺の勤める法律事務所で見習いとして雇われた、いとこのサラ。
日本のビジネスルールにまだ慣れていない彼女の尻拭いをしなければならないかもしれない。そう思いながらオフィスのエントランスに近づいた時だった。
顧客用の入り口から、大きな女性の声が聞こえてきた。
「ちょっと!!! シュースケはアポイントなしでの面会はNGダカラッ!!!!」
サラの声だ。俺はため息をつきながら、様子を見ようとエントランスを覗き込んだ。
そこには、仁王立ちで怒っているサラと、小柄で茶色いロングヘアの女性の後ろ姿があった。
サラが、覗き込んでいる俺の姿に気がついた。
「あっ! シュースケ! チョウドイイ所ニ!!」
サラの大きな声に反応するように、後ろ姿の女性がくるりとこちらを振り返った。
(……マジか)
俺は、一瞬息を呑んだ。
「うわーーー!! 秀介くんーー!! 久しぶりー!!! 会いたかったよぉ♡」
鼓膜を突くような、甘ったるい甲高い声。
忘れるはずがない。俺の記憶の中にいるその女性は、いつも光の隣にいて、周囲の男たちに愛想を振りまいていた。
「……久しぶり。山田さん」
俺に向かって満面の笑みで手を振るその女性は、高校の同級生であり、光の親友の山田 みよりだった。
「もう〜! この受付の女の人、全然話が通じなくて! 秀介くんにどうしても頼みたい仕事があるから会わせてって言ってるのに、意地悪して会わせてくれなくてっ!」
山田さんはぷくーっと不満げに頬を膨らませ、サラを横目で睨みつける。「私は悪くない」と言わんばかりの、見事な被害者ぶった表情だ。
「ハァー?? ワタシは会社の決まりを言ったダケだしッ! シュースケクラスの弁護士は、基本飛び込みの顧客はお断りしてるノヨ!!」
サラが腕を組み、負けじと声を荒らげる。
「サラ。一応、お客様なんだから、ちゃんとかしこまって対応しろ」
「……チッ」
俺が低い声で窘めると、サラは露骨に機嫌悪そうな顔をして舌打ちをし、一歩後ろに引いた。
「失礼しました。最近入った見習いの者で、日本の対応に不慣れなものでして」
俺はサラの代わりに、山田さんに向かって頭を下げた。相手が誰であろうと、仕事の上で無礼に当たることは避けなければならない。
「ううん、全然大丈夫だよ? 秀介くんにも会えたし♡」
山田さんは嬉しそうに小首を傾げ、計算し尽くされた完璧な上目遣いで俺を見た。
「それで……頼みたい仕事というのは?」
「うーん、ここではちょっと。秀介くんと二人きりで話したいなぁ……」
山田さんは、チラリと横目でサラを牽制するように見た。どうやら、自分の思い通りにならないサラの存在がひどく気に食わないらしい。
「……分かりました。サラ、彼女をConference Room(依頼人室)に通してあげて」
「ハァ!?」
俺の指示に、サラは「本気か?」というように思い切り眉間に皺を寄せた。俺はアイコンタクトで『とりあえず、案内しろ』と冷たく伝える。
「……オーケー。コチラへどうぞ」
サラはイヤイヤながらも、山田さんを依頼人室へと案内していった。
「ふふっ、ありがと♡」
山田さんはすれ違いざまに俺の方を見て、蠱惑的な笑みを浮かべた。
(一体、何のつもりだ……?)
俺は一旦自分のデスクに戻り、山田さんの仕事の依頼を聞くための資料を準備していた。
すると、日本人の上司が足早に俺の席へとやってきた。
「木下! 今、依頼人室にいるのって……もしかして、フリーアナウンサーの山田みよりか?」
「えっ、そうなんですか?」
俺が聞き返すと、上司は興奮したように頷いた。
そういえば、光がLINEで「最近みよちゃんと久々に会った」と言っていた気がする。あの時、アナウンサーになっていると聞いたような気がしないでもないが、光以外のことに興味がなさすぎて完全に記憶から抜け落ちていた。
「そうだよ! そこそこテレビにも出てる有名人だよ! 知り合いなのか?」
「……高校の時の、同級生です」
「おお、すごいな! まさか直接指名で来てくれるとは。まあ、丁寧な対応よろしく頼むぞ!」
上司はご機嫌な様子で俺の肩をポンと叩き、去っていった。
俺は黒いバインダーを手に取り、依頼人室へと向かう。
——山田みより。
彼女の顔を思い浮かべるだけで、心の奥底で警鐘が鳴る。
高校の同級生で、光が「自慢の親友」だといつも笑って話していた女。
光は彼女のことを純粋に慕っていたが、人の気持ちの機微に聡い俺から見れば、山田さんが光に向けている感情は決して『友情』などではなかった。
光を見下し、都合よく利用しているだけ。それが彼女の本性だった。
俺は昔から、山田さんのことが苦手だ。
あの笑顔の裏で、常に何かを計算し、企んでいるようなドロドロとした気配。
それでも、光がいつも「みよちゃん、みよちゃん」と慕って仲良くしていた手前、俺が口を挟むことではないと思い、ただ静かに見守り、そして警戒するにとどめていた。
そんな女が、16年越しに突然、俺を指名して仕事の依頼に来た。
嫌な予感しかしない。
俺は短く息を吐き、依頼人室のドアを開けた。
すると、革張りのソファにちょこんと座っていた山田さんが、パッと顔を輝かせた。
「秀介くんー! 卒業式ぶり! また会えてすっごく嬉しい!」
(……やっぱり、この甘ったるい声は苦手だ)
俺は心の中で冷たく呟きながら、表情には出さずに向かいの席に腰を下ろした。
「それはどうも」
「光にね、秀介くんがアメリカから帰ってきて、超優秀な弁護士やってるって聞いたから来ちゃった♡」
……光から?
なるほど。先日、光が山田さんと食事をしたと言っていた時か。
あの時、光は俺が帰国していることを話してしまったのだろう。
とりあえず、昔の個人的な感情は横に置いておこう。俺は弁護士として、あくまで仕事として彼女に接することにした。
「それで、ご依頼の仕事というのは何でしょう?」
俺は黒いバインダーを開き、事務的なトーンで尋ねた。
「あのねー。私の、顧問弁護士になってくれませんか?!」
山田さんは小首を傾げ、満面の笑みを俺に向けてそう言い放った。
「……はぁ」
俺は思わず、間の抜けた相槌を打ってしまった。
顧問弁護士。企業や個人と継続的に契約を結び、日常的な法律相談やトラブル対応を請け負う弁護士のことだ。
彼女の、専属の顧問弁護士に、俺が?
個人的に引き受けたくないという感情はもちろんあるが、それ以前に、物理的に不可能だ。
現在、俺は東京支社の立ち上げという重責を担い、既存顧客のフォローから新規顧客の開拓、さらにはチームで動いている巨大な案件の取りまとめまでを並行して行っている。フリーアナウンサー個人の顧問を引き受けるような余裕は、俺のスケジュールのどこにも存在しない。
俺は冷静に断りの言葉を紡いだ。
「分かりました。ですが、顧問弁護士のご依頼でしたら、一度弊社の他の空いている弁護士を確認して……」
ガシッ!
俺が担当の調整をするため、机の上の内線電話の受話器を取ろうとした瞬間。
身を乗り出してきた山田さんが、俺の腕を強く掴んだ。
「待って!! 私、他の人じゃ嫌! 秀介くんがいいの!!」
至近距離で見つめてくる彼女から、むせ返るような甘い香水の匂いが漂う。
『お願い♡』とでも言いたげな、必死な上目遣い。
「……そのようなご依頼に関しては、一度事務所内で確認する決まりになっておりまして」
俺は掴まれた腕を、不快感を見せないようにスッと引き抜いた。
「えー! いいじゃん! 私たち、同級生なんだし……ね?」
山田さんがさらに身を乗り出そうとした、その時。
コンコン、と依頼人室のドアが控えめにノックされた。
「……一度、席を外します」
俺は山田さんから距離を取り、ドアを開けた。
すると、そこには先ほどの上司が、なぜか満面の笑みで立っていた。
「どうかされましたか?」
俺が尋ねると、上司は俺の腕を引いて廊下に出し、声を潜めて言った。
「木下くん、これは千載一遇のチャンスだぞ」
「……?」
「彼女のような有名人にうちの事務所の顧問になってもらえれば、芸能界やマスコミ関係に口コミが広がる。さらにビッグな顧客を獲得するための強力なパイプになるんだ。彼女がせっかく君を指名してくれているんだ、絶対に引き受けてあげなさい」
上司の言葉に、俺は眉をひそめた。
「待ってください。あなたもご存知でしょう? 私が今抱えている案件の数を。これ以上は物理的に……」
「まあまあまあ! 優秀な君なら出来るよ! 東京支社の立て直しのために、ここはひとつ奮起してくれ!」
上司は俺の反論に一切耳を貸さず、俺の肩をバンバンと叩くと、「頼んだぞ!」と言い残して逃げるように去っていった。
(……なるほどな)
俺は廊下に立ち尽くし、冷たい息を吐いた。
タイミングが良すぎる。証拠などはないが、事前に誰かがこのことを仕込んでいるのだろう。普段、新規で入るとしても企業相手の案件がほとんどだ。山田さんのような個人の顧問弁護士の案件は基本回されてこない。
しかし、組織に属している以上、支社の利益を盾に上司から直接業務命令を出されれば、正当な理由なくNOを突き返すことは難しい。
俺は全く納得がいかないまま、重い足取りで依頼人室へと戻った。
「……お待たせしました。この依頼、私が担当いたします」
俺がそう告げた瞬間。
「わーい! やったぁ♡ さすが秀介くん!」
山田さんは心底嬉しそうに両手を上げ、無邪気な子供のように喜んでみせた。
この時の俺は、まだ知る由もなかった。
この契約をキッカケに、彼女の歪んだ執着が、光との穏やかな日常に大きな波乱を巻き起こすことになろうとは。




