6章 失いたくないもの ③
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鉛のように重い足を引きずって、私は待ち合わせのカフェへと戻ってきた。
お店の前には、すでにキノが立って待っていた。先ほど見かけた綺麗めなシンプルな服装のままだ。
私を見つけると、彼はニコッと、私の大好きなあの優しい笑顔を見せた。
(どうしよう、どうしよう……)
いつもなら、その笑顔を見るだけで胸の奥が温かい気持ちになるのに。
今は、さっきの綺麗な女の人と腕を組んで仲良く笑い合っていたキノの姿がフラッシュバックして、心臓が痛いほどに冷たく縮み上がっていく。
でも、泣いちゃダメだ。
私は無理をして口角を上げ、精一杯の作り笑顔を浮かべてキノに駆け寄った。
「ごめん、迷っちゃって遅くなっちゃった」
自分の惨めな気持ちを悟られたくなくて、咄嗟に嘘をついた。
すると、キノがそっと手を伸ばし、私の首元——昨日彼がくれたばかりのマフラーに触れた。
ドキッとする。
「巻いて来てくれたんだね……マフラー」
目を細めて、優しく笑うキノ。
その破壊力のある笑みを見せられると、さっき二人が並んでいた光景が一瞬どうでもよくなるくらいに心が揺さぶられる。
でも。でも、キノはこの特別な笑みを、あの綺麗な人にも向けていたの?
「うん……」
「とりあえず、寒いから入ろうか」
そう言われて、私はキノにエスコートされながらカフェの中に入った。
港区にあるそのカフェは、間接照明がオシャレで洗練された素敵な空間だった。でも、その素敵すぎる空間に全く似つかわしくないほど、私の気持ちは深く暗く、どこまでも落ち込んでいた。
案内された席に座り、メニューを広げる。
せっかく忙しいキノが時間を作ってくれたのに、こんな暗い態度をとるなんて申し訳ない。頭ではわかっているのに、心が全く追いつかなかった。
「……」
向かいの席に座るキノが、心配そうな目で私を見つめているのがわかった。
「ここ、有名なのプリンなんだって」
キノが、少し機嫌を窺うような優しい声で教えてくれる。
「あ……そうなんだ……。じゃあ、それにしようかな……」
いつもなら「美味しそうー!」と元気よく言うはずなのに、喉が詰まったように上手く声が出なかった。
「……飲み物は、大丈夫?」
「あ……お冷で、大丈夫……」
少し不安そうに私を見つめてくるキノの表情を見ているのが、ただただ辛かった。
「……じゃあ、注文するね」
キノは静かに店員さんを呼び、注文を済ませた。
(どうしよう。うまく話せない……キノに嫌われてしまったらどうしよう……)
でも、目を閉じれば、あの女の人とキノが腕を組んでいた姿が容赦なく脳裏に浮かんでくる。
思い切って『あの人は誰?』って聞ければいいのに。でも、もし『俺の恋人だよ』と笑顔で言われてしまったら?
その瞬間、私の『仮の恋人』という立場すら粉々に砕け散ってしまう。そんなの、絶対に耐えられない。
ぐるぐると回る不安で胸がいっぱいになっていると、店員さんがやってきて、おススメされたプリンを私の目の前にコトンと置いた。
「当店自慢のプリンでございます。ごゆっくりお過ごしください」
店員さんの声が、まるで水の中にいるように遠く聞こえる。
テーブルに置かれたのは、カラメルがキラキラと光を反射している、本当に美味しそうなプリンだった。
ぼんやりとそのキラキラしたプリンを眺めていると、視界が次第にぼやけ、プリンの輪郭が滲み始めた。
(あ……これ、私、泣いてしまうやつだ)
ポロリと涙がこぼれそうになった瞬間、私は必死に顔を隠し、ガタッと音を立てて席を立ち上がった。
周りにいた店員さんも、向かいに座っていたキノも、驚いた顔をして私を見ている。
私は震える手で財布から千円札を二枚(プリンが1800円だったからだ)取り出し、勢いよく机にバンッと置いた。
「ご、ごめんっ……!」
それだけ言い残し、私は逃げるように店内から飛び出した。
行き先なんてなかったけれど、とにかく無我夢中で駆け出した。
どうしても、キノに泣いている姿を見せたくなかった。ただの幼馴染で、同情で『仮の恋人』になってもらっているだけの分際で。
キノとあの女の人の関係を勝手に疑って、勝手に苦しんで、感情的になっている自分を見せたくなかった。
(重い女だなんて……思われたくない……!)
「はぁっ、はぁっ……!」
がむしゃらに走ったけれど、34歳で普段全く運動しない私の体力は、あっという間に限界を迎えた。
息が切れ、足がもつれそうになったところで、ちょうど目の前にあった公園に逃げ込み、ベンチに崩れ落ちるように座り込んだ。
荒い息を吐きながら前を見ると、冬の澄んだ空に向かって、東京タワーが赤くそびえ立っていた。
あぁ、そうか。この辺りって、東京タワーの近くだったよね……。
私は呆然とその景色を眺めた。
(キノと……一緒に見たかったなぁ……)
そう思った瞬間、我慢していたものが決壊し、東京タワーの景色が涙でぐにゃりと歪み始めた。
その時だった。
「光っ!」
一番聞きたかった、切羽詰まった声が私を我に返らせた。
振り返ると、必死で走って追いかけて来てくれたであろうキノがそこに立っていた。「はぁっ、はぁっ」と、いつも涼しい顔をしている彼にしては珍しく、息を荒くしている。
「……キノ……」
彼の姿を見た瞬間、堪えきれずに涙が一筋、頬を伝い落ちた。
クリスマスのあの時と、全く一緒の状況だ。
あの日から、この『仮の恋人』という関係が始まった。あの時は、惨めな自分を見られたくなくて必死で逃げたけれど…この状況になって、もう一度強く思った。
(やっぱり……ごめん。私、キノに迷惑かけちゃうくらい、キノのことが必要なんだ)
キノはゆっくりと近づき、私の横に腰を下ろした。
隣から、彼の荒い息遣いが聞こえてくる。額には少し汗が滲んでいるような気がした。私のために、必死で走って探してくれたんだ。
「突然飛び出すから、びっくりした……何か、あった?」
キノは、下を向いている私の顔を覗き込むようにして、ひどく優しく、慎重な声で尋ねてきた。
なんで、こんなに私のために必死になってくれるの?
でも……あの女の人はなに? 恋人なの?
ぐるぐると渦巻く感情の波の中、私はギュッと両手を握りしめ、勇気を振り絞った。
恐る恐る、震える声で口を開く。
「……実は今日、カフェ行く前に……キノと、すごく綺麗な女の人が楽しそうに歩いてるのを見ちゃって……。それ見て、二人は恋人なのかなって……」
「えっ」
私の言葉を聞いて、キノは驚いたように目を丸くした。
(図星なの……?)
「恋人がいるのに、こうやって『仮の恋人』だなんて言って、私に時間とってもらってるのが……なんだか申し訳なくて……っ」
涙声でそう告げると、キノは口元に手を当て、何かを考え込むように少しだけ黙り込んだ。
そして、やがて呆れたような、けれどどこかホッとしたような低い声で言った。
「あー……それ。……いとこ」
「えっ」
その言葉を聞いて、私は涙で潤んだ目をキョトンと大きく見開いた。
「そう。光が見た女っていうのは、俺のいとこのサラ」
キノはスマホを取り出し、画面を数回タップしてから私に向けた。
そこには、おそらくアメリカの家で撮ったのだろう、キノとミサおばさん、そしてその他の親戚らしき人たちが集まっている写真が映し出されていた。
そしてそのど真ん中で、満面の笑みで元気よくピースサインをしているのは……間違いなく、さっきの爆美少女だった。
「……いとこ??」
「そうだよ。最近、仕事の勉強で日本に来たんだ。まだ光に伝えられてなかったな」
「で、でも……あんなに距離、近かったし……!」
「アイツは生粋のアメリカ育ちでさ。その中でも、昔から誰に対しても距離感がバグってるやつなんだよ……それとさっきは重い荷物があって運んで欲しいって言われて絡まれただけ」
キノは本当に呆れたように、深々とため息をついた。
「うわーーーっ……! 本当にごめんっ! 私の、盛大な勘違いでしたっ!」
私は自分のしでかしたことの恥ずかしさに顔から火が出そうになり、慌ててベンチから立ち上がると、キノの前に立って「ごめんなさい!」と深々と腰を折って頭を下げた。
『仮の恋人』のくせに勝手に嫉妬して、勝手にお店を飛び出して、勝手に泣いて。
穴があったら入りたいくらい恥ずかしかったけれど、それ以上に、心の中の黒いモヤモヤがすっかり晴れて、心の底からホッと胸を撫で下ろしている自分がいた。
「はぁ……本当にビックリした。……嫌われたのかと思って、焦った」
頭を下げている私の頭上から、キノの安堵したような、ふっと笑みをこぼす声が降ってきた。
「えっ、嫌われた?」
キノから嫌われるのを怖がっていたのは私の方だ。その不意のセリフに、私は顔を上げて首を傾げた。
すると、キノは一瞬「しまった」というような顔をしたように見えたけれど、すぐに思い出したようにコートのポケットに手を入れた。
「……まあ、それより。これ、返しとくね」
彼が私の手のひらにそっと乗せたのは、私がお店を飛び出す時に乱暴に机に置いてしまった、二千円札だった。
「えっ、でも……」
一口も食べないまま飛び出してしまったのが申し訳なくて、咄嗟に置いてしまったものだ。
「ほら、せっかく来てもらったし。……あと、ちゃんとさっきのプリン、持ってきたから」
キノはそう言って、反対の手に持っていた紙袋を掲げて見せた。
その中には、さっきカフェで頼んだプリンが、テイクアウト用の可愛い容器に入って収まっていた。
「あ、プリン……」
容器の中で、カラメルが太陽の光を反射してキラキラと輝いている。
「ちょうどいいや。この公園、景色もいいし、ここで食べるか」
キノは紙袋に一緒に入っていた使い捨て用のスプーンを私に渡し、隣のスペースをポンと叩いた。
二人でベンチに並んで座り、一つのプリンを分けっこして食べる。
「……美味しい〜っ!」
一口食べた瞬間、卵の濃厚な甘さが口いっぱいに広がった。ほっぺたが落ちそうなくらい美味しいっていうのは、まさにこのことだ。
誤解が解けた安心感も相まって、なんだかすごく、幸せな味がした。
隣を見ると、キノが少し顔をしかめながら視線を逸らしていた。
「……甘いな」
小声で呟くキノを見て、私はハッとした。
そうだ、キノは昔から甘いものが苦手だった。
「あっ、思い出した! キノ、これあげる! 全然お礼になってないけど……この前のマフラーの、お礼です!」
私はカバンの中から、朝ラッピングしたクッキーの袋を取り出し、キノに両手で差し出した。
「えっ、これって……」
透明な袋に入ったクッキーを見て、キノが目を丸くする。
「そう! 昔、キノが『美味しい』って食べてくれた、甘さ控えめのクッキーだよ! カバンの中で走っちゃったから、ちょっと割れちゃったけど……」
あの時、あまり食事やお菓子に対して興味のなさそうだった彼が、珍しく美味しそうに食べてくれたのが嬉しくて、ずっと忘れられなかったのだ。
「……覚えてて、くれたんだ」
キノは、口元を少し歪ませるようにして言った。
「うん! 私はキノみたいになんでも覚えられる記憶力はないけど、あの時美味しいって言ってくれたの、すごく嬉しかったから覚えてた!」
あの時のことを思い出し、私は自然と笑顔になって言葉にした。
すると、キノは一瞬だけサッと顔を逸らした。(少し耳が赤くなっていた気がするけれど、夕日のせいかもしれない)。
そして、ゆっくりとこちらに向き直ると、私の頭にポンッと優しく大きな手を乗せた。
「……ありがとう」
静かで、シンプルな言葉だった。
でも、その低く優しい響きが、私の心のずっと奥の方まで、じんわりと温かく響いていった。




