4章19年の片思いの人〜秀介目線〜
クリスマスの夜から数週間。年が明け、俺は溜まっていた仕事と母の用事を片付けるため、一時的にニューヨークのオフィスへと戻っていた。
日本とアメリカ。距離は離れてしまったけれど、俺たちの関係はあの日から劇的に変わった。
『仮の恋人』。
その免罪符を手に入れた俺は、毎日欠かさず光と連絡を取り合うようになった。
朝早くから深夜まで続く激務の合間。デスクのPCの横に置いたスマホが鳴るたび、俺はすぐに画面を開いた。
光から送られてくる、同僚と食べたという美味しそうなパスタの写真や、実家でのんびりしているという他愛のないメッセージ。
『仮の恋人』という名目で俺を頼ってくれている彼女に、俺自身の激務や重すぎる想いを悟らせて負担をかけたくはない。だから俺は、彼女からのパスタの写真に対し、「美味そうだね」と短く返しつつ、自分のデスクにポツンと置かれたエナジードリンクの写真を送ったりして、あくまで軽いやり取りを心がけていた。
それでも、彼女からの連絡を見るだけで、カサカサに乾ききっていた俺の日常は、温かな色で満たされていくのを感じた。
そして、日本へ帰国して迎えた仕事始めの日。
定時を少し過ぎた頃、俺は光の会社のロビー前で、彼女が降りてくるのを待っていた。
クリスマスの夜に公園で別れて以来の再会。そして、俺にとっては人生で初めての、光とのデートだ。
『お疲れ。光の会社のロビーの入り口の前で待ってるよ』
LINEを送って数分後、自動ドアが開き、光が慌てたような小走りで出てきた。
その瞬間、俺の視界には彼女の姿しか映らなくなった。
いつも通りのオフィスカジュアル。でも、ほんのりと上気した頬と、俺を見つけてパァッと明るくなったその表情が、たまらなく可愛かった。
周囲の視線なんてどうでもいい。俺は自然と顔がほころぶのを感じながら、彼女に向かって片手を挙げた。
「お疲れ様、光。久々だね」
「う、うん……久々」
照れているのか、光はまともに目を合わせてくれず、少し俯き加減だ。
そんな些細な仕草ひとつで、俺の胸の奥が甘く締め付けられる。
「じゃあ、行こうか」
俺は彼女の歩幅に合わせて、ゆっくりと歩き出した。
並んで歩きながら、ふと、ショーウィンドウに映る二人の姿が目に入る。
傍から見れば、俺たちは恋人同士に見えるだろうか。そう思って横を歩く光を見ると、彼女はどこか不安そうに、視線を落としていた。
(どうしたんだろう?)
何か気にしているような、少し自信なげなその空気を察して、俺は足を止めた。
「じゃあ、ここからは車で行こうか」
近くの駐車場に停めておいた車へと彼女を促し、助手席のドアを開ける。
少し緊張した面持ちで車に乗り込む光を見届けてから、俺も運転席へと乗り込んだ。
車を走らせながら、チラリと横目で光を見る。
彼女は、窓の外に流れる東京の夜景と、ハンドルを握る俺の横顔を交互に見つめ、なぜかひどく動揺していた。
「今日の光、なんか変だね。ずっと緊張してる?」
信号待ちの間にそう尋ねると、彼女は一気に顔を赤くして慌てふためいた。
「い、いやいやいや! 運転してるキノを初めて見たからびっくりしただけ! てか、いつ日本で免許取ったの!?」
「ああ、アメリカで国際運転免許取ってたから、それで。……もしかして、俺の運転じゃ心配?」
「運転免許すら持ってない私からしたら、恐れ多いです〜!」
冗談めかして笑い合う。
張り詰めていた彼女の空気が少しだけ緩んだことに安堵しながら、俺は車を臨海部へと走らせた。
「あれ? そういえば、どこ行くの?」
「うーん……お楽しみに、ってことで」
光を驚かせたくて、俺は行き先を伏せたまま車を進め、お台場海浜公園の近くで車を停めた。
車を降りて目の前に広がる夜景を見た瞬間、光の顔がパッと輝いた。
「きれー……!!」
レインボーブリッジの光に照らされた彼女の横顔は、俺の『シャッターアイ』が記録してきたどの風景よりも美しかった。
「……わぁ、20年以上前に見たような気がするけど、綺麗だな」
俺は、景色ではなく彼女を見つめながら、小さく呟いた。
視線に気づいた光がこちらを振り向く。
「あっ、いや……なんでお台場なのかなって思って」
「昔、光、ここの夜景見たいって言ってたよね。だから」
ずっと昔、まだ俺たちが子供だった頃。東京に住んでいた時の話をした俺に、光が無邪気に言った言葉。「私もお台場の夜景とか見てみたいなぁ」。
彼女が何気なく口にしたその一言を、俺は19年間、一度も忘れたことはなかった。
「……覚えてくれてたんだね」
「もちろん。俺、記憶力いいし」
光のことなら、どんな些細なことでも忘れない。
そう言いたいのをグッと堪えて、俺は記憶力のせいにして誤魔化した。
「……嬉しい。キノと来れて!」
心の底から嬉しそうな、満面の笑み。
その言葉と笑顔の破壊力に、俺の思考は一瞬完全にフリーズしてしまった。
(キノと来れて嬉しい……俺と、来れて)
19年間、ずっと夢見ていた瞬間。俺の頭の中は真っ白になり、何も言葉が出てこなかった。
——ぎゅるるるる〜っ。
その時、静寂を切り裂くように、光のお腹の音が鳴り響いた。
「〜〜〜っっ! ご、ごめん!! 雰囲気台無しだよね……っ!」
一瞬にして茹でダコのように赤面し、お腹を押さえる光。
そのコロコロと変わる表情豊かな姿が、昔の彼女と全く変わっていなくて。俺は肩の力が抜け、思わず吹き出してしまった。
「ふっ……くくっ……相変わらず、変わらないなぁ、光は。……よし、そろそろご飯食べに行くか」
「も、もう!! 早くご飯行く!!」
恥ずかしさでプンプン怒る彼女も、昔から変わらず愛おしい。顔から火が出そうになりながら怒る彼女を宥め、俺たちはお台場を後にした。
***
食事を終え、光を実家まで送り届ける道中。
和やかな空気が流れていた車内に、突然、会社のスマホの無機質な着信音が鳴り響いた。
Bluetoothで繋がった車内のスピーカーから、アメリカのオフィスの同僚の、切羽詰まった英語が飛び込んでくる。
「Syu, We have a problem with the contract……(秀介、契約の件でトラブルだ……)」
俺は光の方を向いて「ごめん」と目で謝り、すぐさま仕事のモードへと頭を切り替えた。
「ごめん、ちょっと急ぎの案件みたいで。少しだけ車、停めてもいい?」
「うん! もちろん!」
コンビニの駐車場に車を停め、俺は後部座席からPCを取り出した。
なるべく早く終わらせなければ。光との大切な時間を、こんなことで台無しにしたくない。
俺は凄まじいスピードでキーボードを叩き、電話で指示を出し、最短でトラブルの火種を消し止めた。
「よし。ごめんね、待たせて。もう終わったから行くね」
PCを閉じ、いつもの笑顔を作って光を見た。
しかし、彼女の様子が少しおかしいことに気がついた。先ほどまでの穏やかさが消え、どこか元気がないというか、自信なげに視線を落としている。
彼女のその微かな感情の揺れには気づけたが、なぜ彼女が急に自信を失っているのか、その根本的な理由までは、俺にはわからなかった。
人の気持ちには敏感なはずなのに、こと自分に対する光の感情の動きとなると、俺はいつも致命的なまでに鈍感になってしまうのだ。
「今日は本当にありがとう! すごく楽しかった」
実家の前に到着し、光は精一杯の作り笑顔を浮かべた。その無理をしている表情が、たまらなく痛々しかった。
「うん、こちらこそ」
俺は、彼女の自信なげな空気をどうにかして払拭したくて、後部座席に置いていた紙袋に手を伸ばした。
「あ、待って。渡したいものがあって」
「?」
俺は綺麗に包装された箱を取り出し、彼女に差し出した。
「これ、あげる」
「えっ……ありがと。……開けてもいい?」
箱を開けた光は、中に入っていた淡いピンク色のチェック柄のマフラーを見て、息を呑んだ。
「え……マフラー。こんな高そうなの、いいの……?」
「いいよ、気にしないで。光、この前すごく寒そうにしてたから」
クリスマスの夜。俺の腕の中で震えていた彼女の首元には、マフラーがなかった。
どうしても、俺からのプレゼントで彼女を温めたかったのだ。他の男の影なんて微塵も感じさせないくらい、俺の存在で彼女を包み込みたかった。
「……ありがと……すごく、嬉しい」
マフラーをそっと胸に抱きしめ、光はさっきまでの翳りが嘘のように、心からの笑顔を見せてくれた。
薄暗い車内でもはっきりとわかるその笑顔に、俺の胸は再び熱く締め付けられた。
「……どういたしまして」
じゃあ、おやすみ。また明日ね。
そう言って車を降りていく彼女の背中を見送りながら、俺はハンドルを強く握りしめた。
いつか、こんな『仮の恋人』という関係ではなく。
あんな風に自信なげに笑う彼女を、俺の全てで守り抜き、この隣にずっと縛り付けてしまいたい。
そんな俺のドロドロとした重い感情に、純粋な彼女はまだ、少しも気づいていない。




